第二章 不夜城
翌日の夕刻、勝也は日光金属を訪ねた。亡くなった矢田課長が開発していた新素材についての善後策を協議するためだ。
矢田の一番の部下、森宏係長に面会を求めたが、彼は昨日から不在とのことだった。応対してくれた杉田真理が「すみません」と謝った。
矢田の部下である彼女は、いつものように濃い目のメークをしていた。ばっちり決めた睫毛や口紅が、はっきりした顔立ちに映えたが表情はどことなく憔悴して見えた。
「どこにいるのかも、わからないか?」
勝也は食い下がった。
「まったく連絡が取れないので、こちらも困っているんです」
杉田が言いにくそうに答えた。
彼女は四年前から、矢田の仕事の材料や資金調達などの実務を幅広く手がけてきた。矢田の死がこたえているのは、勝也ばかりでなく森や杉田も同様だと思った。
勝也が会いたいと思っている森宏は、地元で有数の進学高校である私立中興男子高校で矢田の二年後輩だった。高校卒業後は相前後して二人とも東京の国立帝都大学理学部に進んだ。
彼らは卒業後も、二年違いで同じ会社に働き社内での森は矢田の腹心として知られている。今回の新素材も二人ペアでなくては出来なかったと、お互いに言わしめている。
勝也は、森のやや小柄で華奢な姿を思い浮かべた。がっしりしたスポーツマン・タイプの矢田の影で、色白の森はひっそりと彼を支えるような存在だった。黒縁メガネをかけて普段は知的で物静かな森だが、仕事の話になると生き生きとして少し甲高い声で雄弁に語った。その姿から、好きな仕事をできる喜びを感じ取れた。
森がいなかったので、勝也は矢田の死を知らせてくれた斉藤取締役に会いに行った。彼には、勝也が前にいた会社時代から懇意にして可愛がってもらっている。
斉藤は若い頃、形状記憶合金の開発分野で知らない人はないほどの人物だった。日光金属を盛りたてた後に管理職になってからは、矢田順也の才能をいち早く見抜き抜擢してきた。斉藤は人望が厚く頭脳も明晰で先見の明もあった。
勝也が、この人のために働きたいと思わせてくれる人物は数少ないが、斉藤はそういう好人物の一人だ。幸いにも彼は部屋にいた。
「矢田君の死は実に残念だ」
取締役室で、斉藤が肩を落として勝也に言った。
「これからどうなるのでしょう?」
勝也は、暗澹たる気持ちで尋ねた。
「森君に頑張ってもらわないといかん。すでに似たような金属は東邦金属と、アメリカのゼネラルメタル社が完成させようとしているらしい」
斉藤が、ため息をついた。
「ライバルは、かなりの大手ですね」
自分たちの置かれた困難な状況に、勝也も思わず腕組みをした。
「そうだ。まともに渡り合ったら資金力、販売力とも我が社に勝ち目はない。だが矢田君の作っていた物は非常に粘弾性に富んでいて、しかも安価にできる。物のよさでは充分に勝負ができる」
斉藤が力強く答えた。
「何としてでも完成させたいですね」
「まったくそのとおりだ」
「その森君ですが、どうしているのでしょうか?」
「いや、彼は矢田君の死後、ひどく落ち込んでいたらしい。最も身近で尊敬する上司を亡くし、相当なショックを受けているのだろう」
「なるほど」
「それに新素材の件も矢田君が亡くなった今、森君の双肩にかかっている。まさに公私とも大きなプレッシャーを受けて苦しんでいると思うよ」
こういう部下を思いやる姿勢も斉藤の美点の一つだ。自分も見習わなければと、勝也は改めて襟を正した。
しかし結局のところ、勝也は何の収穫もなく日光金属を後にせざるを得なかった。勝也は、森の鼻筋の通った整った顔と細く刈り込んだ眉、そして今風の長い髪を思い浮かべた。繊細そうな森が、大変なダメージを受けているのを想像して、早く立ち直ってくれと祈らずにはいられなかった。
今日は金曜日だ。週が明けたら何が何でも森に会いたい。矢田の死は悲しい出来事だったが、残った人たちでなるべく早く次の手を打ちたい。
「急に呼び出したりして、なっちゃんにはまいるよ」
同じ日の夜、まだ寒気が残る中を三陽電鉄堀池駅のホームに奈津美と柘植卓司が並んで立っていた。
三重県警に勤める卓司は、奈津美と父親同士が兄弟の従兄妹だ。誕生月が三月と五月で僅かに卓司が年上だった。二人は小さい頃から、うまが合って仲がよかった。大学から愛知県に出た奈津美と違い、ずっと三重にいる卓司の言葉には伊勢弁と呼ばれる関西訛りが時おり混じる。
二人は、二日前の同時刻に矢田が立ったホームの南端に立っていた。この晩の天候は、矢田が亡くなった日と同じ晴れだった。
奈津美は一時間ほど前から、この駅の周辺を観察して歩いてきた。駅の一区画東側には江戸時代に造られた運河が南北に走り、かつて材木や生鮮食品問屋が並んでいた運河沿いには大型店舗やマンションが建ち並んでいた。
駅の南西側に五分ほど歩くと昔は遊郭のあった一帯になるが、今は競馬の場外馬券売り場が巨大なビルを構えている。その周囲にはラブホテルや風俗店、スナックなどがオフィスビルやマンションの間に点在している。ホステスや風俗嬢、それを取り巻く男たちが多く住んでいるやや猥雑な下町だった。
「二十三時三分に、ここを特急列車が通過するわ。間に合ってよかった」
奈津美が左手にはめた腕時計を確認して言った。複線の線路は盛り土の上を走り、堀池駅のホームは正面に見えるビルの三階の高さにあった。
「一昨日の同じ時刻に、日光金属の矢田順也がここで電車にはねられたんだね」
そう確認するように言って、卓司も自分の腕時計を確認した。二人とも示し合わせたように、正確無比な時刻を刻む国産の電波時計をはめていた。男女の型こそ違え、厳格なまでに時間を守る二人にはお似合いの高性能時計だ。
「そうなの。それで、詳しい状況がわかったの?」
奈津美の漆黒のセミロングの髪が、早春の風になびいた。
「愛知県警の同期生に頼んで調べてきたよ。当該車両の運転士は、気がついたら人をはねていたそうだ」
卓司が答えた。
列車の来る南方向を見ると、線路はビルの谷間を縫うように左からカーブをえがいて近づいている。南北にのびる堀池駅は普通列車しか停まらない、上下線にはさまれた島式ホームの駅だった。
右手からはゆるくカーブをえがいてJR線が三陽電鉄線に近づいてくる。JRと三陽線の間にあるデルタ地帯には細いビルが建ち、視界をさえぎっている。この堀池駅から北方向に一つ行くと尾張市の玄関口である中央駅で、三陽電鉄もJRも巨大な駅の中へ吸い込まれる。
奈津美たちの右手後方からJRの列車が近づくと、少し離れた複線の線路上を銀色の車体に緑とオレンジ色の帯を光らせて南西方向に走っていった。JRの列車は奈津美たちの目の前からすぐにビルの陰に入り、車窓からもれる光を途切れ途切れに見せながらカタンカタンと規則的な音を残し、やがてその姿は消えていった。
「決して見通しの良い駅じゃないから不可抗力。避けようもなく、仕方がない話ね」
JRを見送った奈津美が、納得したように卓司に言った。
「こうして現場を見てみると、まったくそのとおりだね」
卓司が周囲を改めて見回してから答えた。
「それで、運転士はどうしたのかしら?」
「ホームから誰かが飛び込んできてすごい衝撃音がしたので、必死でブレーキをかけた。しかし列車は駅を百メートルほど通過して、ようやく停まったそうだ。位置的に恐らく飛び込み自殺だと、とっさに思ったと運転士は供述している」
「ホームの端で人をはねたら、恐らく自殺だと想像したのね」
「そういうことだ」
「ほかには何か見なかったのかしら?」
「運転士は、ホームの端に女がいたと証言している」
「女が?」
「でも確かじゃない。その時刻にホームでその女を目撃した人は、目下のところ見つかっていない。駅員二人は高架下にある駅舎の窓口にいたそうで、詳しい状況はわからない」
「今も私たちの他には誰もいないわね……。あ、時間よ」
ホームでは「列車が通過します。ご注意下さい」と、女性アナウンスが繰り返し流れ始めた。奈津美と卓司は、特急がやってくる南東方向を見つめた。
アナウンスが放送されてから約二十秒後に、中央駅に向かう特急列車がビルの谷間から忽然と姿を現した。二つのヘッドライトを光らせた特急列車はフォンという汽笛を軽く鳴らしてから、奈津美たちの目の前を風を巻き上げながら通過した。
風と共に二人の前を、白い車体が唸るような音を立てて通り過ぎて行った。通過してゆく列車を数えると六両編成だった。堀池駅を通過した列車は、北方向に赤色のテールランプを光らせてみるみる遠ざかって行った。
特急は間もなくゆるやかな右カーブを描いてJR線と平行になると、その姿が消えていった。二人が特急電車を見送った先には、中央駅の高層ビル群が都会の象徴のような威容を光らせていた。
「行っちゃったね」
卓司がポツンとつぶやいた。その時、反対側の上り線ホームに銀色の二両編成の普通列車が到着して三人の乗客が降りてきた。
「ひょっとしたらホームにいた女性を、あの電車の乗降客が見なかったかしら?」
奈津美は、ふと思いついたように言った。
「ああ。……なっちゃん、寒いよ。そろそろ帰ろう」
卓司がそう言うと、二人は並んでホームの中央にある唯一の階段に歩きだした。
「事故の目撃者は申し出てくださいと広報はしているが、今のところ誰もいない」
歩きながら卓司が言った。
「事故が起きたら、下にいた駅員はこの階段を上がってホームに駆けつけるでしょ?」
「調書によると、二人の駅員は事故が起きてから非常信号を司令室に送って上に駆け上がったそうだが、ホームには誰もいなかったと証言している」
「すると、運転士の見た女は忽然と姿を消したとでも言うの?」
「……皆目わからない」
階段を下りると、一階の階段の右後方にはトイレ、前方には改札口が、そして右手には小さなキオスクがあり、その先から改札口まで大人の胸の高さほどのアルミ製の柵が伸びていた。キオスクはシャッターが下り、すでに閉店していた。
改札口には二台の自動改札機があり、一番奥の窓口では駅員が一人、机に向かっていた。奈津美と卓司は入場券を自動改札機に入れて外に出た。駅の目の前には片側二車線の道路が走っていたが、夜も遅いせいか人通りはなく走る車も少なかった。
「矢田順也は、こんな時刻にどうしてここに来たのかなぁ?」
奈津美は人差し指を自分の下あごに当てて、つぶやいた。彼女が考え事をする時の、小さい頃からの癖だった。平日の堀池駅周囲の夜は薄暗くて静かだった。
「わからないなぁ」
卓司はお手上げとばかりに、両手のひらを天に向けた。
駅から右手に歩いた所にあるコインパーキングまで、二人で歩いた。何も知らない人が遠くから二人を眺めたとしたら、きっと仲の良いカップルが、そぞろ歩いているように見えるだろう。
「たくちゃん、希死念慮って聞いた事がある?」
奈津美がポツンと言った。
「きしねんりょ? 知らない」
「漢字で書くと、希望のき、死ぬ、念じる、考慮のりょ」
「ああ、死を望んで念じ考えるという意味?」
「そう、察しがいいのね」
「それほどでも。……それが、どうした?」
「自殺を意図する人は、事前に何らかの信号を周囲に発信していることが多いの。私はね、亡くなった矢田課長を半月前にメンタルヘルスの面接をしたの。その時に希死念慮の気配はまったく感じられなかった」
奈津美は少しだけ唇をかんだ。彼ともっとよく話していればよかったと、言いたげだった。
「……つまり、なっちゃんは、矢田の死が自殺と思ってるの?」
「わからない。でも、興味があるの。労災病院から今まで私が面接してきた人たちの中でね、自殺者は二人いるの」
「ほう」
「その中の一人は、希死念慮をまったく察知できなかった。え、あの人が自殺したの?って不意をつかれた感じよ」
「ふーん」
「矢田課長が、どうして亡くなったのかすごく気になるの。これからの私の仕事のやり方にも大きく影響すると思う」
「なるほどね。……あ、俺の車はここだ。送るよ」
いつの間にかコインパーキングに着いた卓司は、自動精算機を操作してから百円玉を二枚入れた。
「ありがと。ところで、たくちゃんには彼女はいないの?」
奈津美が、卓司の背中に訊いた。
「よせやい。やぶから棒に。それにしても、どうして?」
精算を終えた卓司が振り返った。
「いや、私があなたの車に乗ったのを、彼女が察知して勘違いしないといいなぁと思って」
奈津美はそう言うと、卓司をからかうような目をした。
「それはご心配下さってありがとうと、言うべきなんだろうね。女って変に勘がいいからなぁ。……あっ、いないよ、彼女なんて」
「そう」
奈津美は口の端で少し微笑むと、卓司の紺色のハイブリッド・スポーツカーの助手席に乗り込んだ。ハイテク製品を愛する卓司の愛車は、性能と機能を重視したコンパクト・クーペだ。軽自動車並みの燃費で、高排気量車を凌駕するパワーを持つ車だ。
「中央駅でいいわ。たくちゃんは、そこから都市高速道路に乗って三重まで帰って」
スムーズに走れれば卓司の住む三重市までは三十分だと、奈津美は卓司に指示するように言った。
「家まで送るよ」
卓司が紳士的に申し出た。
「いいって。遅い時刻に呼び出してすまなかったわ」
奈津美は言い出すときかない性格だと昔から知っている卓司は、「了解」と軽く敬礼してから車を夜の街に向かって静かに発進させた。
助手席に座った奈津美は、今までの情報を整理して考えながら前方の夜の景色を見ていた。車内には静かなエンジン音と電気モーター音が混ざって流れる。スポーツカーではあるが騒音も少ない。
「なっちゃんこそ、彼氏はいないの?」
運転しながら、卓司は横にいる奈津美に尋ねた。
「好きな人はいるわ」
奈津美が短く答えた。
「誰?」
「まだ言えない。でも、すごくいい人なの」
奈津美はフフと謎めいた笑みを浮かべた。
二人を乗せた車は夜の街を滑るように走り、十分ほどで夜の中央駅に着いた。暗かった堀池駅から出てきたせいか、そこは光り輝く不夜城のようにまぶしかった。