第十三章 暗転
バッカスであかりに会えなかった奈津美は、バーを出て階段に戻って下に降りようとした。階下へ足を踏み下ろす瞬間、頭上で女の話声が聞こえた気がした。上を見上げると、暗い階段室に僅かな一筋の淡い光が見えた。
誰かが屋上にいる。そんな気配を感じた奈津美は足音を忍ばせて階段を上がると、屋上に通じる鉄の扉が僅かに開いていた。隙間から夜のネオンの光が入ってきたので、そこからそっと外を覗いてみた。
屋上の左側の鉄柵にもたれかかって、二人の女が外を見ながら話していた。
「それにしても、あなたはおきれいね」
奈津美から見て、手前にいるあかりの声がした。
「あなたの倍は努力していますから」
あかりの向こう側に立つ女が、やや低い声で答えた。あかりの向こう側に立つ女の姿は、よく見えなかった。奈津美は息を潜めて、自分の気配を消した。
「誤解のないように言っておくけど、私は産業スパイなの。矢田順也には企業秘密を知るために近づいただけよ。恋愛関係はないからね」
あかりが微笑みながら言ってから、タバコに火をつけた。一瞬、あたりが明るくなった。
「さっき、それを聞いて驚いた」
あかりの陰から、整った鼻をした女の横顔がチラリと見えた。その顔に、奈津美は見覚えがある気もしたが、誰なのかは特定できなかった。
「私はどうしても、順也が開発していた新素材を知りたいの。ねえ、私と手を組まない?」
あかりが紫煙を吐くと、そう言った。
「あなたと手を組む?」
「そう。悪い話ではないわ。お互いに助け合わない?」
あかりが相手を見た。彼女が妖気を放っているように感じた。
「順也とあなたが、昔から付き合っていたのは知っていたわ」
あかりは、なおも相手を見入るように話し続けた。あかりは相手に催眠術をかけようとしていると、奈津美は感じ取った。忍者古来の術だが、その方法論は現代の心理学で用いられる催眠療法と似ている。つまり相手の意識を自分に引き込み、暗示をかけて潜在意識に働きかける。
「順也とあなたは高校生の頃から付き合い始めた。そう、当時のあなたは可憐で可愛くて学校のアイドルだった。そのあなたは、多くの生徒の憧れの的だった順也を好きになり求愛した」
あかりは、相手を誘導するように語り始めた。
「……」
相手が否定しなかったので、あかりは自説に確信を持ったように話し続けた。
「あなたはさらに美しさに磨きをかけ、男心をくすぐる努力をし続けた。そしていつしか、二人は恋仲になった。あなたは幸せに満ちていた。二人の仲は高校卒業後も続き、そしてますます深まった。順也が、そう、雪子と結婚するまではとても順調だった」
「結婚は、仕事のためのカモフラージュだと順也は言った」
突然、相手があかりの話をさえぎった。
「そう。関連会社の社長令嬢との結婚は出世の役に立つし、社会的にも認められる立派なカモフラージュだわ。あなたは順也の話を、無理やり納得しようとした。そうしないと、二人の関係が壊れてしまうから」
「……」
「でも、順也に子供ができた。あなたは、どれほど大きなショックを受けたことか」
「……あれも世間を欺くために、必死に作ったカモフラージュだ。僕を信じろと順也は言った」
「でもあなたは、そんなことできなかった。彼を愛していれば当然よね。やがて自暴自棄になったあなたは、水商売のバイトを始めたわ」
あかりがそう言うと、相手はギクリとしたのが感じ取れた。場は完全にあかりのペースにはまっている。
「あなたはさらに美貌に磨きをかけて、トントン拍子に売れっ子になったわね。バイト嬢にも関わらず、あなたは店でナンバーワンを争うようになった」
あかりは、相手の自尊心をくすぐるように言った。
「きれいだとか、可愛いとか、みんなが褒めてくれて嬉しかった。売れてくると、お店の人たちも宝物のように大事にしてくれた。私は自分の居場所が見つかったようで、夜の街に来ると女王さまのようなとても幸せな気分を味わえた」
相手が答えた。
「私もホステスだから、その気持ちはとてもよくわかるわ。でも、あなたは気を許すと崩れそうな自分を何とか保とうとして必死に努力していたんだと思う」
あかりが相手を充分に認めつつ、厳しい言葉を投げかけた。あかりの話の進め方は、心理学的にも実に理にかなっていると、奈津美は感心して聞いていた。
「どうして、そんなことがわかる?」
相手が気色ばんだ。
「あなたはどんな女よりも女らしくなろうと、血のにじむような努力をした。でもあなたは、最大の恋敵である雪子を越えようとするあまり、自分が雪子に似ていったのを気づいていないの?」
「……」
相手はぐうの音も出ず、押し黙った。堀池駅の防犯カメラに順也と写っていた女が、雪子かと疑ったことを奈津美は思い出した。そして今、あかりと話している女が、堀池駅と杉田真理のマンションの防犯カメラに写っていた女なのだと気がついた。だから、奈津美は、彼女に見覚えがあったのだ。
「そして、順也が杉田真理と関係を持つようになると、あなたは完全におかしくなったわ」
あかりが足もとで吸い終わったタバコをもみ消すと言った。
「別に、おかしくなんか、ならなかった」
相手は、とぎれとぎれに答えた。
「いえ。その頃、あなたはゲイバーからキャバクラに転職した。私から見たら、いくら美しくて女らしいからと言って、男のくせにキャバ嬢になるなんて正気の沙汰とは思えないわよ。森ひろしさん」
奈津美は一瞬、立ちくらみがした。そう言われてよく見ると、あかりの横にいる美しい女は紛れもなく矢田の部下だった森宏だ。前髪の下にのぞく憂いに満ちた瞳をした宏が、「……そうかも知れない」と答えて整った唇をかんでうつむいた。
「そしてあなたは、一年もしないうちにキャバクラでもナンバーワン嬢になった。見事なものだわ。自分に自信がついたら、あなたと順也の関係は再び安定した。危ういバランスの上に成り立った関係だったけど、思いのほか仕事も順調にいった」
「そのとおりね」
「でもまた順也には、新たな女が迫った。それが私だったんだけど、仏の顔も三度まで。あなたは順也を許せず、そして憎むようになった。可愛さあまって憎さ百倍ってところかしら」
「……」
「あなたは順也に対する見せしめのため、杉田真理に求愛した。順也から女を一人、略奪して報復するつもりだったのね」
「……でも、順也は許してくれた。カモフラージュとは言え、自分は雪子と結婚している。君に何か意見する資格は僕にはない。そして、例え君が真理と結婚したとしても、僕はそれを受け入れる。君と真理の間に子供が生まれても、僕は君を許す。それが僕の愛。そして僕の道。順也はそう言った」
「報復は報復を呼ぶだけで、問題解決にはならないわ」
「そんなこと、頭ではわかってた。でも順也はやさしく、私には変わらぬ愛をくれた」
「お互いが相手を傷つけ合いながら、うるわしい愛よね」
「……」
「そして、どんどん思いつめてしまったあなたは、ついに順也を駅のホームから突き落とした」
「違う!」
宏が、きっとした目でマイをにらんだ。ネオンのきらめく夜空の下に見える宏は、女の奈津美から見てもぞっとするほどきれいだった。
「順也は、私の身代わりになって死んだ」
彼がポツンと言った。
「どういうこと?」
今度は、あかりが聞き役に回った。
「あの晩、私たちは堀池にある私の住処で久しぶりに愛し合った。とても幸せだった。帰りに、このままでは苦し過ぎると私が言うと、順也は僕を信じろと答えた。でも、このまま彼とずっと離れたくなかった私は駅に着いて、あなたと一緒に死にたいと言った」
「……」
「順也は、いいよ。君にはわかっているはず。君が望むなら、僕は死ねる。それが僕の愛。彼はそう言ってくれた」
「それで彼は電車に飛び込んだの?」
「私は彼と一緒に死のうと思った。電車が来るときに彼は飛び込もうとする私に抱きついた。……そして彼は、私を突き飛ばして助けると同時に自分だけホームから落ちていった」
「……」
「私はバカなことを……、私が弱音をはかなければ、こんなことにはならなかった」
宏が両手で顔をおおった。
「順也のいない今、私は抜けがら。あれだけ苦しんでも二人で守り抜いてきた愛なのに、私が彼を求め過ぎて、私が何もかも壊してしまった」と宏が言った。
あかりは彼の肩を抱きしめ、「ありがとう。苦しかったね。もういいわ。あなたの気持はよくわかった」とねぎらった。
あかりにもたれかかった宏は少しほっとした様子だった。だが数十秒後、森は突然あかりの腹に一撃を加えた。あかりがよろめくと、宏はバッグから折り畳み式の鉄パイプを素早く広げて、あかりに殴りかかった。
完全に不意を突かれたあかりは、宏がブンと振り回した鉄パイプの一撃をよけたが、二回目の攻撃を後頭部に食らった。グシャという鈍い音がすると、あかりはスローモーションのようにゆっくり倒れた。
奈津美は息をのんで、その様子を見ていた。宏は倒れたあかりをしばらく見下ろしていると、やがて鉄パイプをカランと床に落とした。それから、おもむろに倒れているあかりの両脇に両手を入れると、ビルの鉄柵の方へズルズルと彼女を引きずった。
あいつはあかりさんをビルから落とすつもりだ。このままではまずいと、奈津美は直感した。奈津美は携帯電話を出すと卓司に電話して床に置き、同時に「やめなさい」と大声を出して屋上に出た。宏がビックリしてこちらを見た。ネオンに映し出されたその顔は、女より女らしい美人だった。
奈津美を数秒見つめてから、宏はあかりを離すと突進してきた。「相手が女だったら闘ってもいい。男だったら逃げなさい」と祖父の言った言葉を奈津美は思い出したが、女の姿をした宏に幻惑されたのかも知れない。あかりを助けるには闘うしかないと思って立ち向かった。
奈津美は殴りかかって来た相手のこぶしを取ると、反転して足蹴りを食らわせた。もんどりうって倒れた相手が、すぐに起き上がると腰から黒い電機カミソリのような物を出してかまえた。奈津美は、それがスタンガンだと思った。武道の心得のあるあかりが、簡単に倒された理由がわかった。あかりは腹にスタンガンの電流を受けたんだ。だから抵抗らしい抵抗もできず倒された。
奈津美は逃げようと思ったがすでに遅く、出口は相手の背中にある。ジリジリと近づいてくる相手に、奈津美は下がらざるを得なかった。出口はますます遠ざかる。いつの間にか、倒れているあかりが自分の足元にいた。
そうだ。奈津美はあかりに駆け寄ると、彼女を倒した鉄パイプを拾い上げた。目の端には頭から血を流して倒れているあかりが見えた。その鉄パイプは、長さ五十センチほどの携帯用警棒だった。スタンガンとともに、防犯グッズ販売店で買える代物だ。
奈津美が警棒をかまえても、宏はひるまなかった。スタンガンをかざしながら、なおもジリジリと奈津美に迫った。森が学生時代、剣道とフェンシングをしていたことを思い出した。後退し続けた彼女の背中は、鉄柵までもう数センチしか後がなくなった。
奈津美は思い切り鉄パイプを振り上げると、相手のスタンガンを狙ってふり下ろした。一瞬、相手がひるんだ隙に、奈津美は脱兎のごとく出口に向かって駆けだした。しかし、右手を相手につかまれて床にねじ伏せられた。相手は、美女の外見とは裏腹に怪力だった。
「余計なことをしやがって」
うつ伏せに倒された奈津美の背中で、宏が低い声で言うと奈津美の背中にスタンガンを押し当てて電流を流した。彼女は気を失った。




