第十二章 化かすバッカス
明けて金曜日、鳴海勝也はシステムエンジニアの鈴木を伴って日光金属開発部を訪れた。矢田のプロジェクトで残っている加藤主任と一緒に、研究室で矢田と森が残した研究資料を集めるためだ。今ある資料と人材で、何とか会社を立て直したかった。
「ほとんどの仕事は矢田課長と森係長で決めてやっていて、僕たちはその手伝いをしていただけです」
矢田と同じ帝都大学工学部を出て入社六年めの加藤英夫は、資料を整理しながらぼやいた。
「すると、これらのデータを基に新素材を完成させろと言っても、無理な注文というわけだ」
必要そうな書類だけを選り分けて用意してきたダンボール箱に詰めながら、勝也は加藤に言った。傍らで鈴木がコンピューターのデータを集めていて、時々加藤に「これは必要か?」と確認して作業を進めていた。
「昼は近くのステーキハウスで君たちを御馳走するよ」
勝也が、冴えない表情の加藤を元気づけるように笑顔で言った。
「ありがとうございます。矢田さんの配下だった岩本と武井も呼びますか」
加藤が訊いた。岩本幸男と武井美穂は入社三年目の社員たちだ。
「いいとも。さっそく席を予約しておこう。十二時に駐車場集合だ」
勝也は携帯をポケットから出すと、すぐにステーキハウスへ電話した。
日光金属から車で五分の場所に、牧場と言う名のステーキハウスがあった。勝也と加藤の二人の自動車に分乗して、広い駐車場の中に建つウッディな平屋の店に入った。八人が入れる奥の個室に、勝也と鈴木、加藤と岩本、武井の五人が揃って座った。
「今回は御苦労さん。これから前途多難だが、力を合わせて頑張ろう」
勝也が音頭をとって、ウーロン茶やジンジャエールで軽く乾杯した。テーブルにはランチ・コースのサラダとスープが次々と運ばれてきた。
「森係長の行方を知らないか?」
勝也が改めて加藤と岩本、武井に尋ねた。残された資料と人材だけで新素材を完成させることは不可能のようだ。せめて矢田の腹心だった森がいれば、何とかなるかも知れないと、勝也は淡い期待を込めて言った。
「さあ、杉田さんが亡くなってから、警察に散々きかれました」
末席に座る勝也の前にいた武井美穂が答えた。
「警察に?」
勝也が反問した。
「ええ。森さんが杉田さんに交際を迫っていたので、男女間のいさかいがなかったかなどと根掘り葉掘り訊かれました。社内では、私が杉田さんと一番近い関係でしたから」
武井が困惑した表情で言った。
「なるほど。それで?」
「杉田さんは森さんと仲良くしていたように、私は思っていました。でも、森さんの行方は見当もつきません。突然いなくなられて、こちらが戸惑っています」
「ふむ……。加藤君は森君直属の部下になるが、何か知らないか?」
勝也が一番奥の席にいた加藤に訊いた。
「私も何度か警察に尋問されました。武井さんと同じく、森さんの行動にはまったく心当たりがありません」
「そうか」
勝也が少し落胆した声で答えた。
部屋にはステーキが運ばれてきた。じゅうじゅうと鉄板の上で牛肉が音を立てていた。みんなが黙々と食べ始めた。
「そう言えば……」
早食いの岩本が一人だけ肉を食べ終わって、一息ついてから言った。
「何?」
勝也が目を上げた。
「数か月前だったかな。某業者の接待が終わった後、森さんと繁華街を歩いていたら綺麗な女の人に、ひろちゃんじゃない。元気ぃ?って声をかけられたんです」
岩本が遠い日を思い出すように話した。
「ホステスか?」
「いえ、外見はそれっぽい人だったんですが、声は低くハスキーで男だったんじゃないかと思います。森さんはその人と一言二言話すと、それじゃあと離れました」
「……ニューハーフ?」
「後で訊いても、森さんは何も教えてくれませんでした」
「ああ」
今度は加藤が不意に声を上げた。
「何だ」
勝也は加藤に向き直った。
「俺も似たような経験があります。でも俺が会ったのは、やたらおっぱいが大きなキャバクラ嬢のような派手な女でした」
「うーん」
「森さんって、女のいる店へはほとんど遊びに行かなかったじゃないですか。だから、何だか妙な気がしたのを覚えています」と加藤が言った。
勝也の知っている限りでも、森がロゼなどのクラブに行くのは年に数回しかなかった。大人しそうに見えていた彼だが、意外に遊び人だったのかもしれないと勝也は思った。
昼食が終わると、加藤たちは日光金属に戻って行った。勝也と鈴木は日光金属を後にして自分たちの会社に戻り、集めた資料を整理した。
夕方になって、鳴海勝也はマイに電話した。どうも、彼女が頭から離れない。夜になると彼女に会いたくなってくる。マイはすぐに電話に出た。
「昨日は知らない間に消えてしまって、どうしてた?」
昨夜のロゼはお客さんが多く、マイをはじめホステスたちは忙しく席を移動して回っていた。お陰で勝也はマイと、ほとんど話せなかった。勝也は他のホステスと話す気になれず、十時過ぎに帰った。閉店後、マイに電話をしたが通じなかった。
「ごめんね。遠い親戚が突然訪ねて来て待たせていたものだから、お店が終わると急いで帰ったの」
マイが悪そうに答えた。
「いや、別にいいんだよ。ちょっと心配になってね」
妬いて詰問しているような口調になったのを、勝也は少し恥じた。
「ううん、心配してくれて嬉しいわ」
マイが嬉しそうに甘えた声を出した。
「今夜は会えるかい?」
「ええ、もちろん会いたい。けど、今夜は十二時の閉店まではお仕事なの」
その頃、奈津美は六月の学会に向けて、日光金属の社員調査の報告をまとめていた。勤労者ストレスに対する心的反応というタイトルで、勤務時間と心の疲弊の関連性を調べる研究だ。
仕事が一段落すると、六時半を過ぎていた。研究室のほかの大学院生や助手たちは帰り、室内は静かになっていた。ふと外を見ると、あたりは暗くなりかけていた。
奈津美はインスタントコーヒーに砂糖とミルクを淹れてパソコンの前に腰かけると、卓司からもらった電子ファイルを開いた。中には矢田順也が死んだ前後の時間帯の、堀池駅のホーム四か所と改札口で十秒おきに残されたモニター記録写真が五百枚あまり入っていた。写真を一枚ずつ、時系列に見てみた。
二十二時五十三分に、矢田が帽子をかぶった女と改札口を通っていた。何度も見た女の画像だが、やはり矢田雪子に似ている気がする。六分後に二人は中央駅方面行きのホームに現れて、南端まで歩いている。二人は恐らく、二十三時六分発の中央駅行き普通列車に乗ろうとしていたのだろう。
二十三時三分に特急列車が通過して矢田と女が消え、その直後に反対側ホームへ普通列車が到着して二人のサラリーマン風の客を下ろしてすぐに発車していた。その二十秒後に二人の駅員が相次いでホームに駆け付けていて、ホームの北端には非常停止した特急列車の車両の一部が残っていた。同時刻の改札口では、三人のサラリーマンが相次いで通っていた。
「ん?」と奈津美は思った。普通電車から降りた客は二人。改札口から出たのは三人。
その三人の顔をじっと見てみた。
「え?」
奈津美は思わず声を上げた。三人目に改札口を通った黒ぶち眼鏡に黒っぽいスーツ、小脇にコートを抱えた男が森宏係長にそっくりだ。どういうことだ……
気づいたら一時間ほど経っていた。奈津美の頭はすっかり混乱し始めていた。思わず携帯を取り出すと、卓司に「時間があったらお話ししたい」とメールを打った。
あたりは不気味なほど静かだった。卓司から返事はなかった。きっと彼は忙しいに違いない。
どうしてもマイに会いたかった勝也は、十二時に彼女の勤めるクラブ、ロゼの前に来た。こんな所で待ち伏せするように立っているなんて、彼女に心底ほれてしまったのだろうか。自分で自分が可笑しかった。
「ありがとうございました」
最後の酔客だろうか、ママと数人のホステスが店の前に出て愛想よく男たちを見送っているのを、勝也は道を隔てた電柱の陰から見ていた。
十分ほどすると薄いベージュのコートをはおったマイが、店のビルから出てきた。勝也は思わず彼女に駆け寄ろうとすると、一人の水商売風の女がマイを呼びとめていた。不審な顔をしたマイが、ぱっと明るい顔になって二人が並んで歩き始めた。マイは、どうやら知り合いらしいと会ったらしい。
勝也は「マイが友達と一緒なら、今夜はこのまま帰ろうか」と少し躊躇したが、「もう少しだけ」と二人の後を追い始めた。マイと並んで歩く女は、マイと同じくらいの背丈でグレーのコートに黒いブーツをはいていた。
二人は左手の裏道に入ると、路地を抜けて古い雑居ビルに消えた。ビルの壁にある縦長の看板を見ると、一階は花屋で二階以上はカラオケやスナックの名前が華やかに並んでいた。
少し間を開けてビルに入ると、花屋は閉まっていてエレベーターホールには誰もいなかった。エレベーターは七階に止まっていた。最上階の七階はショットバー、バッカスと書いてあった。マイたちはバーに入ったのだろう。
自分がバーに入るのは、いかにもマイをつけてきたみたいでやめた方がいい。まるでストーカーのようで気味悪く思われると、勝也は考えた。いっそ、マイに電話してみようかとも思ったが、会ったばかりの友達と話し始めた彼女の邪魔をするような気がした。二階のカラオケボックスから人が階段でドヤドヤと降りてくる気配を感じた勝也は、そそくさとその場を立ち去った。
勝也がビルから出て大通りに向かうのを、奈津美は電柱の陰から見ていた。夜の研究室で、一人でどうしようもなく悶々としていた彼女は、森の行方についてあかりと話し合いたいと考えて十二時前にロゼの近くに来た。
しばらくすると勝也が現れたので、奈津美はあわてて身を隠した。仕事を終えたマイの後をつけ始めた勝也を、複雑な心境で奈津美は尾行した。勝也の心を虜にしてしまったマイに、奈津美は軽くうらやましさを感じた。そんな自分は勝也をどこまで好きなのか、そして勝也に何を求めているのか、自分でもわからなかった。
そして今、勝也が大通りの方へ去って行ったのを見て半ばホッとしながら、彼と入れ替わるようにスルリとビルに入った。エレベーターが七階にいるのを確かめると、カラオケボックスから出てきた四人組の若者たちを花屋の陰でやり過ごしてから階段で七階まで上がった。エレベーターを使わなかったのは、あかりたちに自分の気配を少しでも感じなせないためだ。階段を上る自分の、はるか頭上で鉄の扉が閉まるようなズシンという音が響いた。
階段を登っているうちに自分が何階にいるのかわからなくなったが、踊り場を見上げると下は七階、上は屋上という表示があり目的地に着いたことを確認した。短い廊下を見渡すと、重そうな木の扉の横に「バー バッカス」という洒落た看板が見えた。バッカスとは、ローマ神話の酒の神だ。奈津美は中に入ろうかどうか、店の前で少し考えた。
そこへ、マナーモードにしてあった奈津美の携帯が震えた。見ると、携帯は卓司からの電話を受けていた。
「遅くなってごめん」
電話機の向こうから卓司の声がした。
「ううん。実はたくちゃんから送ってもらった堀池駅の写真に、森さんと似た男が写ってたの」
「何だって!」
「それで、どうしたらいいのかわからなくて、あかりさんと話そうと思って繁華街に来た」
「ロゼに?」
「今は、ロゼから北西に入ったビルの七階にあるバッカスというバーの前にいる」
「あかりさんと一緒?」
「いえ、彼女はホステス仲間みたいな人と一緒なの。バーの中まで入ろうかどうか迷ってる」
「……実は俺、愛知県警に来ていた。矢田雪子がストーカー被害に遭っていると通報してきたそうで、その情報を集めていた。すぐにそっちに行くよ」
「ストーカー?」
「この数日間、何者かに見張られているという訴えが雪子からあったんだ。具体的に何か危害を受けたわけではないし、証拠もない。まあ、後で詳しく話すよ。それじゃあ」
卓司からの電話は切れた。
奈津美は携帯をバッグにしまうと、意を決してバーの店内に入った。重い扉を開けると、左手にカウンター、右手にテーブル席が四席あった。カウンターでは男が一人で酒を飲み、テーブル席にはホステス風の女と中年男のカップルが二組座っていた。暗い店内に目を凝らしてみたが、あかりと女はいなかった。
「いらっしゃいませ。誰かをお探しですか?」
カウンターの中にいた黒服の中年男が言った。カウンターに座っていた客は、奈津美を値踏みするような目でジロジロ見た。
「あの、今しがた女性の二人連れが来ませんでしたか?」
「いえ、来ていませんね」
男が少し首をかしげて答えた。奈津美は「どうも、失礼致しました」とお辞儀をしてから、店を出た。キツネにつままれた気分だった。




