第十一章 星の向こう
夜の十二時を過ぎると、マイ、いや、正確には風間あかりから「今から店を出る。どこにいる?」と携帯メールがきた。奈津美が「ロゼの近くの居酒屋にいる」と返信すると、「その通りの右奥にある凱旋門という喫茶店で待っていて」とマイから短い返信がすぐにあった。
奈津美と卓司は連れだって居酒屋を出ると、ロゼを通り過ぎてすぐの角を右に折れた路地の奥にあるビルの一階に「凱旋門」という喫茶店を見つけて入った。外壁はすすけた赤レンガで、古式ゆかしい歴史を感じさせる。
店に入ると、中では静かなジャズが流れていた。アンティックなカウンター席が五つあって、右側に四人掛けのテーブル席が三つあった。カウンター席には一人の男性客が、手前のテーブル席にはカップルが一組座ってコーヒーを飲んで談笑していた。
一番奥のテーブル席に並んで座った卓司と奈津美は、寄って来たハンサムなウエイターにコーヒーを二つ、頼んだ。彼は「かしこまりました」と爽やかな笑顔を残して去った。
「このメニューに、ここのコーヒーはマスターが豆にこだわったコクのある味わいです。と書いてある。人の精神がおかしくなるのは、こだわり、プライド、被害者意識だったよな」
卓司が可笑しそうに言った。カウンターの奥で白シャツに黒い蝶ネクタイをして、真剣にコーヒーを淹れている中年の男がマスターだろう。
「はい、よくできました。私も覚えているわよ。犯罪の動機は色、金、怨恨だったわね」
奈津美が負けじと言うと、二人で笑い合った。
そこに、あかりが店に入ってきた。彼女は卓司たちを見つけると、カウンターにいたマスターに、「コーヒーを一つ」と注文してから二人の前に「お待たせ」と会釈してから座った。
「あなたたち、仲がいいのね」
あかりが二人に微笑むと、卓司が「それほどでも」と頭に手をやった。ハンサムなウエイターが、静かにコーヒーを三つ、三人の前に出して去った。上質なコーヒーの良い香りが漂った。
「忍者の仕事には陰と陽があってね、私たちは陰の部分を背負ってきたの」
店員が去ると、あかりが話し始めた。
柘植家は陽の役割が多かったから、平和な世の中では用無しね。今のような平和な時代では、武道や作法を伝承するだけで一般市民と同じように生活していることでしょう。だけど、私たちのような陰の仕事には平時でもたくさんの需要があるの。
私は父から武道や尾行術、母からは床技や催眠術などを小さい頃から仕込まれたわ。奈津美ちゃんも少しは教わったでしょ。
うちは第二次世界大戦後から、この街に根を下ろして活動している。お陰さまで夜の街とこの界隈の裏社会には情報網と人脈が張り巡らされたわ。
まあ前置きはこのくらいにして、今回の矢田順也の死はね、私にとっても大打撃なの。実は私、アメリカのゼネラルメタルという会社の仕事を請け負っていたの。女が身体を張って男を寝取って目的を果たすのは、昔からよく使われる古典的な手段じゃない。こういう仕事って、海外の企業がいまだによく使う常套手段なのよね。今は、アメリカよりも中国のほうが得意なんじゃないかな。あの人たちは民間ばかりでなく、国も諜報機関を持っているから人材や機材も豊富で強いわよ。
それはともかく、私の使命は矢田順也から新製品の秘密を探り、できれば彼をゼネラルメタルの社員にしてしまうことだった。順也にはこれからもどんどん新しい製品を作り出す能力があると、高く評価されていたわ。
私はこの半年間、矢田順也にすべてを尽くした。私は仕事であっても、本気で相手を愛することにしている。そういう感情って、心や身体で感じ取れるじゃない。だから常に全力を尽くしてきた。順也はいい男でね、私にとっては仕事相手だったけど、彼と一緒にいるのは楽しかった。
客から人生相談をされるようになったらホステスも一人前と、昔のママから教わった。順也と付き合っていくうちに、彼がアメリカの会社に移ろうかと悩んでいると言い始めた。一カ月ほど前だったわ。彼が心のすべてを私に開いてくれた瞬間ね。
もちろん私は、彼に会社を移るように勧めたわ。あなたは才能豊かで大きな男、これをステップに日本を飛び出して世界で勝負できる。そのまま自分を高めてゆけば、歴史に名を刻めるかもしれない。私は本心から、そう言ったの。
彼もだんだんその気になって、ゼネラルメタルと契約をかわす直前というところまで来た。ところが、その矢先に彼は死んでしまった。もう少しで順也は世界に羽ばたき、同時に私も目的が達成できたのに、とても無念だった。順也という有能でイイ男を、この世から失って本心から悲しいわ。
あかりは長い話を終えてから、コーヒーを飲んで一息ついた。
「杉田真理や矢田雪子は、矢田順也のアメリカ行きを歓迎していたのかな?」
卓司が手帳を開いて、それを見ながら訊いた。
「いえ、大反対よ。真理は、職場で今の彼女の仕事がなくなるし、順也が奥さんを連れて移住すると思っていたから賛成するはずがないわ」
「雪子さんは?」
「雪子は雪子で、彼女の父親が日光金属の関連会社の社長だから、順也が新製品を持ってアメリカに移れば日光金属が危うくなる。そうなれば自分の親の会社も非常に苦しい。何せ雪子の実家は日光金属の下請け会社だからね。つまり真理も雪子も、それぞれの理由で順也のアメリカ行きは大反対だった」
あかりが、自信ありげに答えた。
「じゃあ、あかりさんは、順也さんが妻子を連れてアメリカに行くのに賛成したの?」
奈津美が不審に思って訊いた。いくらその男の将来を思ってとは言え、愛する男を平気で海外に行くように勧めるのは女として不自然な行動だと感じたからだ。
「鋭い指摘ね。そこがちょっとした腕の見せ所だったわ」
あかりはフフと笑うと、残っていたコーヒーを飲み干してから話を続けた。
「順也には、あなたを本当に愛しているけど男は仕事が第一。私は陰からしか応援できないけれど、きっと偉くなってね。と涙を流して背中を押したわ。頭のいい順也だから、妻子を連れてアメリカに行ったほうが社会的に何かと有利ということは割り切って決断したと思う」
「するとさ……、順也のアメリカ行きを反対する真理と雪子は、あかりさんにとって邪魔者だったんだ」
卓司が横から口をはさんだ。
「アハハ。私が順也の足かせになる真理を殺して、次に雪子を殺すとでも言いたいの?」
あかりが不敵な笑い声を上げてから、卓司をにらんだ。
「あかりさんには動機がある上に、人を殺せる能力もある」
卓司が言い返した。
「もしもやるなら、完全犯罪を目論むでしょうね。少なくとも、あなた方が取り調べに来るようなヘマはしない。でなきゃあ、身体がいくつあっても足りないもの」
あかりは平然とそう言うと、煙草を出して火をつけた。
「……違いない」
卓司が、うなずいた。それに、あかりには真理死亡の時刻に完璧なアリバイがあると、奈津美は心の中で反すうした。
「そうだ。動機のある雪子には、アリバイがあるのかしら?」
奈津美が、思いついたように言った。
「えっと、愛知県警の調べによると矢田雪子は、順也と真理の死亡時刻には息子と二人で家にいたと言っている」
卓司が、手帳を見ながら答えた。
「それはアリバイとしては弱いわね」
あかりがフフンと笑って、紫煙をはいた。
三人は、しばらく沈黙した。静かなジャズが流れる喫茶店の中には、ほかの客がいなくなっていた。時計を見ると、午前二時の閉店時刻まで十分くらいを残すのみになっていた。いつの間にかハンサムなウエイターもいなくなって、マスターがカウンターの奥で一人働いていた。
「もう一人、順也がゼネラルメタルに移ることが面白くなかった人物がいるわ」
あかりが静けさを破ってポツンと言った。
「誰ですか?」
奈津美が訊いた。
「森宏係長よ」
あかりが答えた。彼女は矢田順也と親しく付き合っていただけに、彼らの人間模様を熟知している。
「森は、杉田真理にプロポーズしていたようだね」
卓司が言った。
「そうみたい。最近の順也は私に夢中になっていたから、真理とは潮時だったわ。順也は、ちょうどいい機会だと思っていたんじゃないかしら」
あかりが勝ち誇ったように微笑んだ。奈津美には、あかりが魔女のように見えてきた。
男を意のままに操る魔性の女とは、きっとこういう姿をしているんだ。あかりのドレスの胸元からチラリと見える豊かな胸の谷間が、蟻地獄のように見えた。一旦あかりに狙われた男は、もがけばもがくほど彼女の奥深くに埋もれてしまう気がした。
「鳴海社長をどうするつもりですか」
奈津美が、あかりにふと訊いた。
「あんたは鳴海さんの何なの、という私の質問に答えていなかったわね」
あかりが薄く笑った。
「鳴海さんは、現在の私の雇用主です」
奈津美が答えた。
「へー、そうなの。そんな怖い顔をして私を見ないで」
あかりは笑ってから、「私は順也の完成しかけていた新素材の組成を調べたいの。それを探るには、鳴海さんが必要なの。別に彼を取って食おうなんて思ってないから、心配しないでちょうだい」と言った。
奈津美は、はっと気がついた。
「あなたは、鳴海さんのIDカードをスキミングしましたね」
日光金属への勝也の謎の入室記録は、あかりが犯人に違いない。
「さあ、どうかしらね」
あかりが謎めいた微笑みを浮かべると、煙草に火をつけた。
「あかりさんが自分の使命を全うしようとするのはわかりますが、鳴海社長を傷つけないで下さい」
奈津美がきっとした目で言った。
「アハハ、随分と社長思いなのね。でもその気持ち、よくわかるわ。だって鳴海さんって、とてもいい人だもの。私、今はあの人に首ったけ。大好きよ」
「でもそれは、仕事でそう思っているだけなんでしょ」
奈津美が気色ばんで言うと、あかりは「さあ、どうかしら」と妖艶に微笑んだ。
「帰りましょうか。もう閉店みたいよ」
あかりが悠然と、奈津美から視線を外して立ち上がった。ここは俺が払うよと卓司が伝票を持ったので、奈津美はあかりと外に出た。
あかりが「私、森を探してみようと思う」と奈津美に言った。
「そうですね。彼は何か事情を知っているかもしれません」
奈津美が答えた。
「それに彼は、矢田のやりかけた仕事を一番よく知っている。今となっては、森の所在を突き止めることが私の雇用主のゼネラルメタルにとっても、あなたの雇用主のナルミコムにとっても重要なはずよ」
言外にあかりが、自分に協力しないかと言っているように奈津美には聞こえた。
二人の背中へ、卓司が「寒いね」と喫茶店から出てきた。
「ご馳走様でした」
あかりは卓司に軽くお辞儀をすると、「じゃあ、またね」と奈津美に手を振って暗い路地の奥へ蝶のようにヒラリと消えて行った。奈津美と卓司は、あかりとは反対方向の明るい大通りへと歩き出すと、すぐその脇を黒いブーツに短めのスカート、薄いグレーのハーフコートを着た女が足早に通りすぎた。奈津美にはその女に見覚えのあるような気がしたが、誰だか思い出せなかった。
大通りには時刻も遅いせいか、人通りがまばらになっていた。
「もうタクシーで帰るしかないね」
卓司がため息をついた。
「今から三重に帰るのは大変でしょ。うちに泊まってもいいわよ」
「アハハ、そんなことしたら、俺はお前を犯すかもしれない」
卓司が笑った。ほのかに想っていた鳴海勝也を、あかりに寝盗られた気分だった奈津美は「別にいいわよ」と半分ヤケになって答えた。
「……なっちゃんの家で少し休ませてもらって、始発電車で帰るよ。ただし、俺はお前に指一本触れない。ヤケになっている女を抱いても面白くないし、俺そんなに不自由はしてないさ」と卓司は強がるように笑った。
「よく言うわね。泊めてあげるけど、ウチはセルフサービスだからね。布団も着替えもすべて自分で用意してよ」と奈津美は答えながら、彼のやさしい気遣いに心では感謝した。
こんな夜を独りで過ごすのは確かに寂しい。夜のとばりが、星のむこうまで永久に続いている気がした。




