第十章 忍ぶ謎
その日、ホステスのマイは出勤しようとしたところ、勤め先のクラブ・ロゼのあるビルの前で黒スーツ姿の男女に呼びとめられていた。
「警察です。ちょっとお話しをうかがいたいのですが」
きちんとネクタイをした男が、警察の身分証を提示して無表情に言った。薄いピンクのドレスの上からスプリング・コートをはおったマイは、大した動揺もみせず「何でしょうか」と答えた。
「ここでは何ですから、近くの喫茶店ででもお話ししましょう」
男が慇懃に言った。
「私は今から仕事だから時間がないの。狭いけど、店の事務室で手早く済ませてくれないかしら」
マイは迷惑そうに答えた。
「いいでしょう」
男女は顔を見合わせてから、男が返事をした。
三人は無言でビルの中に入り、エレベーターホールのわきにある階段を二階に上がった。ロゼの入口の隣にある飾り気のない鉄の扉を、マイが鍵を開けて中に入った。中は六畳ほどの部屋に机と電話、ソファとロッカーが所せましと置かれていた。
「その辺に適当に座って下さい。コートをロッカーに置いてきます」
マイは入口近くの椅子を勧めると、部屋の奥のロッカーの向こうに消えた。
「ここは愛知県なのに、三重県警の方が何の用事かしら」
間もなくマイが、薄笑いを浮かべて戻ってきた。
わずかな時間で警察証のすみずみまで見抜いたマイの眼力に、柘植卓司は「こいつは只者ではない」と気を引き締めた。彼の横にいた柘植奈津美の表情にも緊張感が走った。
「今は応援に来ています。日光金属の矢田順也さんとのご関係について、二三の質問があります」
卓司がそう言うと、マイは「彼はお店のお客様の一人だったわ」と即答した。
「それだけではなく、親しい間柄でしたね」
卓司が畳みかけた。
「証拠はあるの?」
涼しい顔でマイが切り返した。
「証言があります」
「誰の?」
「今は言えません」
矢田夫人から奈津美が聞き出したことだが、卓司がそう答えるとマイはフフと笑った。
「あなたは四月一日水曜日は、ここで働いていましたか?」
卓司が矢継ぎ早に質問した。
「先週の水曜日ね……。矢田さんが死んだ晩じゃないの!」
マイが目を見開いた。それが本当に驚いているのか、わざと驚いて見せたのかは判断できなかった。
「そうです」
卓司は淡々と答えた。
「まさか私が彼を殺したとでも思っているの?」
「念のために、お訊きしているだけです」
「あなたたちは何か勘違いをしているようね。その日、私はここで働いていましたっ」
マイはきっぱり言い切った。
「では五日月曜日の夜は?」
「その日には何があったの?」
その日は杉田真理が死んだ日だ。
「いえ、念のためです」
卓司は何食わぬ顔で言い抜けた。
「ここで真面目に働いていました」
マイが少しうんざりした表情で答えた。
「夜の十二時頃、つまり閉店前後は?」
杉田真理の死亡時刻は十二時少し前、つまりマイが早退していないかと卓司は訊きたいのだと奈津美は思った。
「仕事が終わったら何をしようと勝手でしょ」
「いや、つまりマイさんが閉店後もどなたかと一緒であれば捜査から外せるので助かります」
「アリバイ? あなたって、本当に失礼な人ね。……えっと、その晩は、ある人とずっと一緒だった」
「ずっと?」
「そうよ。お店がはねてから、朝までずっと」
「どなたと?」
「……その様子だと、言わなくてはいけないんでしょうね」
「はい」
卓司が答えると、マイがバッグからタバコを出して火をつけた。一息ついてから、マイは答えた。
「市内でコンサルタント会社を経営している鳴海勝也さんというお客様と、朝まで一緒でした」
マイの答えに、奈津美が激しく動揺した。
あまりにも身近の人にマイの手が及んでいた事と、悪しからず思っていた鳴海社長と彼女の間に関係があったことがショックだった。だがすぐに、その驚きを悟られまいと奈津美は感情を押し殺した。こちらが動揺していては、相手が優位に立ってしまう。
「では最後の質問です。昨夜は何をしていらっしゃいましたか?」
卓司も、鳴海の名前を聞いて動揺したようで心なしか声が少しかすれた。
「昨日はお休みで寝ていました。少しは休まないと美容にも健康にも悪いわ。さあ、もういいでしょ」
マイが二人の心の乱れを敏感に察知したのか、胸を張って答えると立ち上がった。それからマイが、奥の壁際にあった小さなテレビのボタンを押すと白黒の画像が映った。そのテレビには店内の様子が映るモニターで、この部屋の奥には店に通じる出入口があるようだ。
「あら、噂をすれば影とやら。さっき話した鳴海さんが来てるわ」とマイがモニターを見て言った。
画像をよく見ようと思わず奈津美が立ち上がってマイの横に行くと、「あんた、鳴海さんの何なのさ」とマイが奈津美の腕につかみかかろうとした。
自分より七センチほど背の大きなマイからの攻撃を、奈津美は合気道の要領でとっさによけるとすぐに体勢を整えて身がまえた。
「勇ましいことね」
マイが笑った。対峙している二人の女に「乱暴はよせ」と卓司が声をかけた。
「柘植さんといったわね」
マイが奈津美の後ろにいる卓司に訊いた。
「ああ」
卓司が答えた。
「ご先祖は三重県伊賀の出身ね」
「どうしてそんなことがわかる」
「私の先祖も同じだからよ」
「何だって?」
卓司が驚いた声を出した。
「柘植家は伊賀忍者本家の一つ。そして、あなたたちの身のこなし。見る人が見ればすぐにわかる」
「私も気づいたわ。でもまさかと思った」
奈津美がマイをにらみながら、卓司との会話に割って入った。会ってから今までのマイの立ち振る舞いには一部の隙もなく、このホステスには武道の心得のあると奈津美は五感で感じ取っていた。
「あんたの名前は?」
マイが身構えを解いたので、奈津美も構えをゆるめて「柘植奈津美。あなたは?」と答えた。
「風間あかり」
「伊賀の風間家か……」
卓司がうめくように言った。
「もう時間がないわ。本当に仕事をしないとママに怒られる。ねえ、あんたのメルアドを教えて。話したいことがあるの。店が終わったらどこかで落ち合いましょう」とマイが、今度は甘えた表情で言った。
変幻自在に顔を変える女だと奈津美は感心しながら、携帯のメールアドレスをマイに教えた。アドレスだけなら後からいくらでも変えられる。奈津美は、先祖が同族だと言われたくらいではマイに対する警戒心を解かなかった。
それをマイも察している。彼女は「じゃあ、後で。早く出てって」と気ぜわしく言って、二人を外に出した。時計を見ると八時三分だったので、取りあえず卓司と奈津美は近くにあったチェーン店の居酒屋で軽く食事をすることにした。
繁華街は週末が近いせいか、サラリーマン風の男たちや若い男女が多くいた。
居酒屋は混んでいたが、幸いにも待たされずに仕切りのついた四人がけの席に案内された。席について煮物と焼き魚、豆腐料理とジンジャエールを注文した。数時間後に、またマイと対戦することを考えるとアルコール類を飲む気には二人ともなれなかった。
注文を聞いた若い女店員が出ていくと、卓司が携帯電話を出して実家の父親に電話をした。彼の父親は三重大学で文学部歴史学教室の教授をしていたので、風間あかりについて調べてもらうことにした。
卓司の父親は博学で、いろいろなことを教えてくれた。四百年前の資料の中で伊賀衆と呼ばれた伊賀忍者の集団に風間家は実在している。戦国時代末期から風間家と柘植家は浅からぬ関係になる。柘植家は代々、長女を風間家に嫁がせる一方、柘植家に男児が生まれないと風間家の二男が柘植家に養子に出されていた。これは自分たちの子孫を絶やされないための工夫で、日本ばかりでなく南欧でも同じような方法が行われていたことが最近わかってきた。
関ヶ原の合戦が終わって江戸幕府が開かれ太平の世になると忍者たちは無用になり、それぞれが一般市民になり生活した。柘植家と風間家も、それぞれが士農工商の身分に別れて暮らし両家の交配関係も途絶えたようだ。しかし彼らの持っていた技や風習は、秘かに子孫へと脈々と伝授され続けた。
明治時代に入り日本が外国と戦争を始めると、彼らは徴用されて軍部や諜報機関で活躍する。実際、奈津美の曽祖父は日本陸軍の職業軍人として活躍していた。第二次世界大戦が終わり平和が訪れると、忍者の子孫たちは再び一般市民として暮らしていた。歴史は繰り返されている。
卓司の父親は「現在の風間家について、もう少し調べてみる」と言ってから電話を切った。
「驚いたな」
電話を終えた卓司がつぶやいた。
その後、奈津美と卓司は矢田、杉田の死亡事件について話し合った。
「整理すると、矢田順也と杉田真理は二年ほど前から不倫関係にあった。そこへ半年ほど前から、マイが順也と関係を持った」
卓司が手帳にメモをして、頭を整理するように言った。
「そう。忙しい順也が自由になる時間は限られている。もう一人、女が出来たら真理と会う時間は減らさざるを得ない。その隙をつくように森宏が、真理に交際を迫ってきたのね」
奈津美も考えながら、ゆっくりと言った。
「そういうことになる。森は、矢田と真理の関係を知っていたのだろうか?」
「微妙なところね。知っていたとすれば、彼は真理を矢田から奪いたいほど好きだったことになる。でもそんなに好きな女に、出会ってから数年して接近するのは不自然な感じもするわね」
「……ところで、矢田と杉田の死とは関係があるのだろうか?」
卓司が腕組みした。それから、二人は延々と話し合った。
マイが矢田を好きになってしまい、真理から略奪したような気がする。あの女なら手段を選ばず、欲しい物は手に入れそうな迫力がある。矢田を奪われた真理は、矢田に詰め寄り喧嘩になった挙句、彼をホームから突き落としてしまったとしても不思議はない。
もう一つの可能性として、これらすべての不貞を知った妻の雪子が夫を憎み、矢田を突き落とすこともあり得る。矢田の死の直前、ホ-ムで防犯カメラに映った女がいた。身長百七十センチ弱の女と推定されるが、雪子も真理も百六十七センチだ。
ここに来るまでは、同じくらいの背丈があるマイも疑っていた。百七十七センチの矢田順也をホームから突き落とすのは普通の女には難しそうだが、武道の心得のあるマイなら実現できる。でも、彼女にはアリバイがあった。
杉田真理の死となると、もっと見当がつかなくなる。真理の死の直前にも防犯カメラに身長百七十センチ弱の女が映っている。だがこの日にもマイにはアリバイがあるし、そもそも動機がない。矢田雪子だとすると、順也と真理に家庭を破壊されて憎んでいた彼女には動機はある。
それとも、矢田を殺してしまった真理が、罪の意識から自殺したのだろうか?
奈津美と卓司はずっと推理を続けたが、堂々巡りで容易には真相を究明できそうもなかった。一時間ほどして卓司の父親から電話がかかってきた。
「いろいろ手を尽くして調べたが、風間家の末裔がどこで何をしているかはわからなかった」という、落胆すべき返事だった。謎は深まるばかりだ。




