第一章 事件
鳴海勝也は南向きの自分のデスクで「まいったなぁ」と、ため息をついた。
企業診断士の彼は、三十五歳で企業コンサルタントとして独立開業してから二年あまりがたつ。中心街から地下鉄で十五分ほどの南部駅近くのビルの二階に、「ナルミコム」という会社を立ち上げて事務所を構えていた。
企業の業務効率化事業に、勝也は自分の儲けよりも相談者の立場を優先する姿勢で奔走した。快活明朗な彼を頼る企業は次第に増えて、ナルミコムは業績をジリジリと伸ばした。
最近ではリストラも一段落して社内の少ない残存人員をフル活用しようとする企業が増えてきた。どの会社にも、資金や人的余裕はまったくなくないからだが、時を同じくして過労死や自殺者が増えている。その対処のために労働省は従業員のメンタルヘルス管理を、新たに会社側に課してきた。時の流れは、新たな問題を次々に生み出してゆく。
「珍しく浮かないため息をついて、どうしたんです?」
背もたれ椅子にもたれかかった勝也の背中に、心理士の柘植奈津美が声をかけてきた。彼女は、勝也が母校の西都大学の同級生、笹本講師から紹介してもらって、ようやく獲得できた貴重なメンタルヘルス対応要員だ。
奈津美は西都大学大学院を卒業後、心理士の資格を得て市内の港労災病院心療内科で三年間働いた。昨春から母校の人文学教室に助手として戻ったが、上司である笹本の依頼でナルミコムに非常勤で勤務するようになっていた。
白いシンプルシャツの上から濃いグレーのスーツに身を包んだ奈津美は、しっかりした意思のある目をした二十七歳の女性だった。開け放たれた社長室の扉の前で、奈津美が早春の太陽に向かって勝也に微笑みかけていた。
「ああ、実は、日光金属の矢田順也課長が亡くなったという知らせが入ってね」
回転式の肘掛け椅子をクルリと回して奈津美に向いた勝也は、十五畳ほどの社長室の中央にある応接セットのソファを手のひらで勧めた。彼女は部屋の出口に一番近いソファに足元に黒いビジネスバッグを下ろすと、背筋はピンと伸ばし静かに腰掛けた。
奈津美が座ったのは部屋の「下座」にあたる。彼女には礼儀作法の心得もあり品もあった。勝也は低いガラステーブルを挟んで、彼女の前の「上座」に座った。目の前には奈津美の形の良い膝がきちんとそろえられていた。
「開発部課長だった矢田が、昨夜遅く三陽電鉄の堀池駅を通過する特急列車にはねられて死亡したそうだ」
勝也は先ほど、日光金属の斉藤取締役から電話で聞いた内容を奈津美に伝えた。
「自殺ですか?」
「それがわからない。警察は自殺と事故の両面で捜査を開始したそうだ」
いつもは明るい勝也が、珍しく渋い表情をみせた。
日光金属は勝也の顧客の中では最も規模の大きな会社で、亡くなった矢田は新製品開発のホープだった。彼が試作中の特殊な粘弾性をもつ金属材料は、新建材や自動車部品などに応用できる有望な素材だった。完成まであと一歩という段階だったので、今後の事業展開を模索していた勝也にもショックは隠しきれなかった。
「今夜が通夜で、明日が告別式だそうだ」
勝也がそう話している間に、奈津美は自分の黒い鞄から日光金属のバインダーを取り出してパラパラとページをめくって矢田順也を確認していた。
「社長はお通夜に行かれるのでしょう?」
膝の上においたバインダーから目を上げた奈津美が、勝也に尋ねた。
「ああ、無論だ」
「私もご一緒して、よろしいでしょうか?」
「それはありがたい。……俺は、どうもああいう席が苦手でね。ご遺族が若いとなおさらだよ。何と声をかけてよいやら困ってしまうんだ。頼むよ」
亡くなった矢田課長は勝也より五歳年下の三十二歳で、奥さんとの間にはまだ三歳くらいの小さなお子様がいた。ちなみに勝也は、三十二歳の時に離婚している。子供はいなかったのは、今から思うと幸いだったが別れの原因は思い出したくもない。
「どこでお通夜が行われるのです?」
奈津美がバインダーを閉じると、勝也に静かな口調で訊いた。
「七時から愛昇殿本館で執り行われる。明日は午後一時から告別式だ」
「……じゃあ、私は今から帰って着替えてからお通夜に向かいます」
「ありがたい。俺はここに着替えがあるから、すぐにでも出られる。できれば鈴木と浅川を連れてゆきたい」
勝也は元々、日光金属の事務や会計作業の効率化のためのコンピューター・プログラミングを請け負ってきていた。勝也の会社に創業時からいる若いシステムエンジニアの鈴木と、一年前から雇った税理士見習いの浅川は日光金属の事業に携わっていた。
奈津美は短くうなずくと「では後ほど」と立ち上がり、お辞儀をしてから社長室を静かに出て行った。彼女を目で見送った勝也は、八畳ほどの社長室の隅にあるロッカーから喪服と白いカッターシャツを取り出すと、お気に入りのグレーのスーツを脱いで着替えた。
矢田順也の通夜会場は、勝也の会社から地下鉄で十五分の距離にあった。勝也は会社で残務を片づけると、鈴木と浅川を連れて通夜に向かった。外は四月になったとは言え、まだ冷たい風が吹いていた。
「鈴木さんの黒いスーツ姿って、怪しげなホストに見えますよね」
小太りの浅川が、スタイルのよい鈴木をからかった。
「浅川の姿こそ、怪しいポン引きみたいだ」
地下鉄の階段を昇りながら、二十七歳の鈴木と二十五歳の浅川が話し合っていた。改めて二人を眺めて見ると、今風の黒いスーツに身を固めた彼らはそれなりに格好がついていた。
「会場に着いたら、歯を見せるなよ」
階段を昇った左手にある会場の前で、勝也は彼らに短く指示した。二人とも「はい」と神妙な顔つきで返事をした。付近には黒い服を着た弔問客が集まって来ていた。
比較的新しい葬儀場のビルに入ってロビーで確認すると、今夜はお通夜が二件あり矢田家は五階の会場となっていたので、三人はエレベーターで上がった。
エレベーターを降りて目の前にあるカウンターで受付をしていると、「社長」と後ろから喪服に身を包んだ奈津美が声をかけてきた。黒い服に包まれた彼女の均整のとれた身体は、勝也の目にはむしろ艶やかに映った。
「ああ、柘植君、受け付けは?」
「もう済ませました。御香典は辞退されました」
「ああ、最近はそういう形が多いね。俺も用意してきたが出さずに行こう」
受付を済ませた勝也は、奈津美と鈴木、浅川の四人で中ほどに空いている席を見つけて座った。
間もなく読経と共にお通夜が始まった。祭壇前の僧侶の両脇にある親族席を見ると、右手一番奥の最前列に小さな男の子を抱いた女性が、青ざめた顔で白いハンカチを握りしめて座っていた。その隣は矢田の両親と思われる六十歳くらいの夫婦が座って、矢田の母親らしき女性は泣いていた。若い人の死は、見ている人にとっても辛い。
会場には五十人ほどの参列者が列席していて、壁際には花輪がいくつも並んでいた。整然とした会場で、通夜式は型どおり、読経、焼香、僧侶退場が終わった。
式が終わると同時に、列席者は三々五々に立ち上がった。出口には御両親と奥さんが立って、知人や親類と挨拶をしていた。
「亡くなった矢田課長の奥さまは、お綺麗な方ですね」
遺族の様子を見ていた奈津美が、勝也に言った。
「ああ、雪子さんといって日光金属の関連企業、川口軽金属の社長令嬢だよ」
「有能な社員と社長令嬢ですか。理想的なカップルですね。奥様は気丈な方のようですね」
「え?」
「いえ、お母様は泣き崩れているのに、奥様は列席者の方々から淡々と挨拶を受けておられます」
「ああ、彼女はしっかり者のようだね」
勝也たちが会場を出た後も、しばし奈津美は雪子を観察してから彼らに追いついてきた。
「みなさんは明日の告別式には出ないのですね?」
奈津美が勝也たち三人の背中に声をかけた。
「ああ、仕事があるからね。だから今夜、来たんだ」
勝也が代表して答えると、奈津美はそうですよねと小さくうなずいた。
「腹が減ったよな。その辺で少し食事でもしてから帰ろう」
エレベーターで一階に降りてから、勝也が皆に食事をおごろうと言い出した。鈴木と浅川は、すぐに笑顔で「はい」と返事をした。奈津美は「明日は朝早く大学に行かなくてはいけませんので」と断ってから、丁寧にお辞儀をして去って行った。
「柘植さんって、彼氏いるのかなぁ?」
五分ほど歩いて着いた居酒屋で、生ビールを飲みながら勝也の向かいに座るエンジニアの鈴木が口を開いた。やさしい顔をして細身のスーツが似合う鈴木は、一度結婚しているが去年離婚している。年齢は奈津美と同じ二十七歳だ。
「さあな。彼女の目下の趣味は、精神分析学と合気道だと言っていた」
勝也が前に奈津美から聞いた話をした。
「へー、柘植さんは合気道をやってるんですかぁ」
鈴木の横に座る小太りの浅川が、チューハイをすすりながら意外そうな声をあげた。
「ああ、小さい頃からやっていると話していた」
芋焼酎のお湯割を飲みながら、焼き鳥の串をつまんで勝也が言った。
「社長もやってたんじゃないですか?」
鈴木も焼き鳥を一串つまみ上げて、少し甲高い声で訊いた。
「違うよ。俺は、少林寺拳法だ」
「合気道と少林寺って、どう違うんです?」
「全然違う。簡単に言えば、合気道は相手の力を受けて、それを利用して技をかける。相手を力で打ちのめす拳法ではない」
「ふーん……」
鈴木の表情は、勝也の言った事を完全には理解できていない様子だったが、口でこれ以上説明するのは難しい。
「ところで、亡くなった矢田さんが開発していた新素材は、どうなるのでしょう?」
横から浅川が、やや低い声で言った。
「それは気になるところだ。明日にでも矢田課長の一番の部下だった森係長に尋ねてみようと思う」
勝也が二人に伝えた。
「そう言えば、先ほどのお通夜に森さんはいましたか?」
鈴木が少し考えてから、首をかしげた。
「そうだな。少なくとも、表にはいなかった」
勝也が、さっきまでいた会場を瞬時に思い返してから答えた。
「へー、社長はさすがですね。私は全然、気にしていませんでした」
浅川が感心した。
「森は矢田の腹心、通夜の裏方の仕事を取り仕切っていたのかも知れない」
勝也はそう言うと、グラスに残った生ビールをぐいと飲み干した。ビールの喉越しが、いつもより苦かった。