魔王を倒して王になった元勇者の俺、即位三年目に国の帳簿を開いて青ざめる ~ハッピーエンドの続きは、追放したライバルと書く~
ハッピーエンドの、その先は、誰も書いていなかった。
即位三周年の朝、俺は羽根ペンの先で指を刺して、前世を思い出した。
日本という国で、中堅の商社の経理部にいた。三十二歳。月末になると、山のような伝票と、合わない数字と、終わらない残業に追われていた。
そして、通勤電車の中で毎晩遊んでいたゲームがあった。
『光の勇者と七つの誓い』。
辺境の村の少年が光の剣に選ばれ、仲間と旅をして、魔王を倒す。王女と結ばれ、凱旋の祝宴で幕を閉じる。
その少年の名前が、ユーリ。
今の、俺だった。
鏡の中には、黒い髪に金の冠をのせた、二十三歳の国王が映っていた。
四年前、俺は魔王を倒した。ゲームのとおりに。王女セシリアと結婚し、老王の退位で、三年前に王になった。
旅の仲間だった宰相家の嫡男、ヴィクトール・ローゼンベルクは、凱旋の祝宴で俺の杯に毒を盛ろうとした罪で、北の砦へ送られた。それも、ゲームのとおりに。
画面の中なら、そこで「HAPPY END」の文字が出て、物語は終わる。
けれど、ここでは終わらない。祝宴の翌日も、その翌日も、国は続いていく。
前世の記憶が戻ってすぐ、俺がしたことは、一つだった。
国庫の帳簿を、持ってこさせること。
◇
国王には、もちろん国庫の帳簿を見る権利がある。三年間、一度も使ったことはなかったけれど。
書庫の机に積まれた帳簿を開いて、俺は青ざめた。
金が、ない。
このままでは、三か月で国庫が空になる。
原因は、すぐにわかった。
全部、俺の「勇者の栄光」だった。
七日七晩続いた凱旋の祝宴。王都の広場に建てた、黄金の勇者像。
俺のために建てられた、白亜の「勇者の城」。
ゲームで立てた七つの誓いのうちの一つ、「故郷の村から、永遠に税を取らない」。
それから、ヴィクトールがいなくなってから、国の金勘定に口を出す者が誰もいなくなったこと。
ゲームの中で、ヴィクトールは、こんなふうに俺に逆らった。
旅の途中で、俺が欲しがった名剣を「高すぎる」と言って買わなかった。
凱旋の祝宴を七日も開くのは愚かだと、王の前で言い放った。
勇者の城の建設に、最後まで反対した。
画面越しには、勇者の栄光を妬むライバルの嫌がらせに見えた。
今、帳簿を前にすると、まるで違って見える。
あいつは旅のあいだずっと、俺たちの財布を預かっていたのだ。名剣を買わなかったのも、祝宴に反対したのも、帳簿が読める人間として、当たり前のことをしただけだった。
「……陛下が、帳簿をご覧になるとは」
書庫の奥から、しわがれた声がした。
国庫の書記の、エルンスト爺さんだった。先々代の王の頃から、ここで帳簿をつけてきた老人だ。
エルンスト爺さんは、書庫の棚の奥から、紐で綴じた古い紙の束を出してきた。
「四年前まで、遠征と王家の出費を見張っていたのは、ヴィクトール様でございました。勇者様の旅の費用も、凱旋の祝宴の見積もりも、全部、あの方が目を通しておられた」
紙の束には、細い、几帳面な字が並んでいた。
『祝宴は二日で足りる。七日は国庫が持たない』
『勇者の像は、銅で足りる。金箔は不要』
『故郷の村の永久免税は、十年の期限をつけるべし』
どの紙にも、赤い線で、大きく×がつけられていた。
「この×は、誰が」
「宰相様でございます。勇者様のお望みを妨げるな、と。……ヴィクトール様が北へ送られてから、こういう紙を書く者は、一人もいなくなりました」
エルンスト爺さんは、皺だらけの指で、×の上をそっとなぞった。
「わしは、この紙を、捨てられませんでした」
もう一つ、気になることがあった。
帳簿のところどころに、「特別支出」という項目がある。三年間で、少しずつ、けれど確実に増えている。何に使ったのかは書かれていない。承認の印は、どれも同じだった。
宰相、大賢者オズワルド。
ゲームの中で勇者一行を導いた、白髭の老魔導士だ。旅の始まりに、何も知らない村の少年だった俺に、剣の持ち方から教えてくれた人。
「特別支出、ですか」
その日の午後、俺はオズワルドに尋ねた。
「魔王の残党への備えでございます。詳細は内密に。陛下がお気になさることでは」
オズワルドは、ゲームの中と同じ、穏やかな笑顔でそう言った。
前世の経理部で、俺は何度もこの笑顔を見たことがある。
監査のたびに、経費の説明を「上の判断ですから」で済ませようとした部長の笑顔と、そっくりだった。
◇
北の砦までは、馬で五日かかった。
お忍びで、近衛を一人だけ連れて。王妃セシリアには、故郷の村の様子を見に行くと嘘をついた。
三日目、北の街道沿いの村で、馬を休ませた。
村の真ん中を流れる川に、橋が落ちていた。渡し舟が一艘、人と荷を往復させているだけだ。川向こうの畑へ行くのに、半日かかるのだという。
「去年の春の大水で落ちたんですよ。直してくれって、何度も王都に頼んでるんですがね。お金がないって」
渡し守の男は、肩をすくめた。
「勇者様のお城を建てるのに、ずいぶんかかったって話ですからね。まあ、魔王を倒してくれたんだ。文句は言えませんや」
男は、俺が誰なのか、知らなかった。
俺は、何も言えなかった。
勇者の城の、白い大理石の階段。あの階段一段分の金があれば、この橋は直せた。
村の子どもたちが、痩せた腕で、渡し舟に芋の籠を積みこんでいた。旅の途中、俺たちが通り過ぎた村も、こんなふうだったのだろうか。
あの頃の俺は、魔王を倒すことしか、見ていなかった。
砦の司令室で、ヴィクトールは帳簿をつけていた。
擦り切れた外套。後ろで束ねた銀の髪。四年前より痩せていたけれど、羽根ペンを持つ指の形は、旅の焚き火のそばで金勘定をしていた頃と少しも変わっていなかった。
この砦は、罪人とわけありの兵が集められた北の果てだ。それなのに、北の砦の中で、ここだけが兵の給金を遅らせたことがないと聞いていた。
司令室へ案内してくれた古参の兵が、廊下で、ぽつりと言った。
「あの方が来てから、この砦は変わったんでさ。前の司令官は、俺たちの給金を懐に入れてた。ヴィクトール様は、帳簿を全部、兵舎の壁に貼り出したんです。誰の給金がいくらで、何に使われたか、全部。字の読めない奴には、読める奴が読んで聞かせた」
兵は、誇らしげに胸を張った。
「罪人だろうが何だろうが、俺たちの司令官は、あの方だけでさ」
旅の焚き火のそばの夜を、思い出した。
俺が町で、派手な赤い外套を買ってきたことがある。勇者らしく見えるだろう、と得意になって。
ヴィクトールは、焚き火の明かりで帳簿をつけながら、顔も上げずに言った。
「その外套一枚で、俺たちは三日、宿に泊まれた。……勇者らしく見えるより、勇者らしく食え。腹が減っては、魔王は倒せん」
あのときは、腹が立った。嫌味な奴だと思った。
あいつは、ずっと、俺たちの腹のことを考えていたのだ。
俺を見て、ヴィクトールは羽根ペンを置いた。
「……光の勇者様が、こんな北の果てまで、何の用だ」
声は、氷のように冷たかった。当然だと思う。
俺は、床に膝をついた。国王が膝をつくのは、たぶん、この国で初めてのことだ。
「帳簿の読み方を、教えてくれ」
ヴィクトールの眉が、ぴくりと動いた。
俺は、持ってきた国庫の帳簿の写しを机に置いた。
ヴィクトールは、しばらくそれを睨んでいたが、やがて手に取った。頁をめくる指が、途中で止まる。
「……この、特別支出」
「オズワルドの承認だ」
ヴィクトールは、長い息を吐いた。
「四年前に俺が見つけたのと、同じ書き方だな」
ヴィクトールは、机の引き出しから、紐で綴じた古い紙の束を取り出した。
「旅のあいだ、王家から出た遠征の金を預かっていたのは俺だ。魔王城へ向かう頃に気づいた。オズワルドが、遠征費の名目で少しずつ国の金を抜いて、自分の領地に回していた。俺は証拠を揃えて、凱旋したら王に申し上げるつもりだった」
「その前に……」
「その前に、あの祝宴があった。お前の杯に毒が入っていて、俺の荷物から毒の瓶が見つかった」
ゲームの、最後の見せ場だ。裏切り者の断罪。
画面の前で、俺はその場面に、すっとしたのを覚えている。
「毒を仕込んだのは、オズワルドだ。証拠を握った俺を、王都から追い払うために。お前は……ちょうどいい、目くらましにされたんだ」
俺は、何も言えなかった。
ハッピーエンドだと思っていた物語は、一人の悪人の筋書きの上で踊らされていただけだった。
そして俺は、その筋書きの、いちばん目立つ役だった。
「……すまなかった」
ようやく、それだけ言えた。
「謝罪には、値段がつかない」
ヴィクトールは、冷たく言った。
「俺が欲しいのは、謝罪じゃない。四年分の帳簿が、正しく閉じられることだ」
ヴィクトールは、指を三本立てた。
「手伝う。ただし、条件が三つある」
「何でも」
「一つ。勇者の城を売れ。あれ一つで、国庫の三か月分になる」
俺は頷いた。
「二つ。お前が、自分で帳簿を読めるようになれ。俺がいなくなったら、また同じことになる」
「ああ」
「三つ」
ヴィクトールは、少しだけ口の端を上げた。
「俺に、ちゃんと給金を払え。国の財務を預かる者として、正当な額を。ただ働きは、もう二度としない」
旅のあいだ、勇者一行の財布を、一銭ももらわずに預かっていた男の言葉だった。
「……払う。必ず」
ヴィクトールは、しばらく俺の顔を見ていた。
「なぜ、今になって気づいた。帳簿なんか、旅のあいだ一度も覗かなかったお前が」
「北の街道の、川の橋が落ちたままだった」
俺は、三日目の村のことを話した。渡し舟と、芋の籠を積む子どもたちのことを。
ヴィクトールは、黙って聞いていた。それから、小さく息を吐いた。
「旅のあいだ、お前は一度も、橋なんか見なかったな」
「見るようになったんだよ。……遅すぎたけど」
「遅すぎはしない」
ヴィクトールは、羽根ペンを取り上げた。
「国庫が空になるまで、まだ三か月ある」
◇
王都に戻ってから、俺とヴィクトールは、毎晩、書庫にこもった。
ヴィクトールの四年前の記録と、今の帳簿を突き合わせる。前世で嫌というほどやった作業だ。特別支出の日付と金額を一つずつ拾い、オズワルドの領地の土地台帳と照らし合わせていく。
特別支出が出た月に限って、オズワルドの領地で、新しい屋敷や農地が買われていた。
金額は、ほとんど同じだった。
「入るを量りて、出ずるを制す。……どこでそんな言葉を覚えた」
帳簿の余白に俺が書いた走り書きを見て、ヴィクトールが言った。
「昔、ある本で読んだ。入ってくる金をよく見て、それに合わせて出ていく金を抑えろ、って意味だ」
「当たり前のことだな」
「当たり前のことが、いちばん難しいんだよ」
ヴィクトールは、初めて、少しだけ笑った。旅の焚き火のそばで、俺の無駄遣いに呆れて笑ったときと、同じ顔だった。
ある夜、オズワルドが、俺の私室を訪ねてきた。
白い髭をなでながら、ゲームの中と同じ、穏やかな笑顔で。
「陛下。北の砦から、罪人を連れ戻されたと伺いました」
「財務の顧問として、呼んだ」
「陛下に毒を盛ろうとした男を、でございますか」
オズワルドは、悲しそうに首を振った。
「勇者様は、剣を振るっておられればよいのです。帳簿は、わしら年寄りの仕事でございます。昔から、そうしてまいりました」
それから、声をひそめた。
「……民は、勇者様を愛しております。その勇者様が、毒を盛った罪人を王宮に入れたと知れば、どう思うか。勇者様の名に傷がつくのは、わしは見ておれません」
穏やかな声だった。旅の始まりに、剣の持ち方を教えてくれたときと、同じ声。
だからこそ、背筋が冷えた。
「心配してくれて、ありがとう」
俺は、笑って答えた。
「でも、もう、剣だけを振っているつもりはないんだ」
オズワルドの笑顔が、ほんの一瞬だけ、止まった。
最後の壁は、王妃セシリアだった。
「オズワルド様は、お父様の代から仕えてくださった忠臣よ。ヴィクトールは、あなたに毒を盛った人じゃない。どうして、あんな人を王宮に入れたの」
王妃の居室で、セシリアは声を震わせた。
ゲームの中の、優しくて、少し夢見がちなお姫様。勇者の城も、七日の祝宴も、本当は彼女が望んだものではない。俺が彼女を喜ばせたくて、勝手に建てたものだ。
「セシリア」
俺は、国庫の帳簿を、王妃の机の上に開いた。
「俺の栄光は、ここに書いてある」
七日の祝宴。黄金の像。勇者の城。故郷の村の永久免税。
「このままじゃ三か月後、この国には、栄光しか残らない」
セシリアは、長いこと、帳簿を見下ろしていた。
それから、静かに言った。
「……私の首飾りも、売ってちょうだい。あれも、あなたがくれた、高いものだから」
◇
御前会議の日。
貴族たちが居並ぶ広間で、ヴィクトールが、四年分の帳簿の突き合わせを読み上げた。特別支出の日付と金額、オズワルドの領地で買われた土地の日付と金額。一行ずつ、淡々と。
オズワルドは、最初は笑っていた。砦から戻った罪人の言うことなど、と。
けれど、俺が玉座から立ち上がり、国王として、四年前の祝宴の毒の件の再調査を命じると、笑顔が消えた。
あの夜、毒の瓶をヴィクトールの荷物に入れたのは、オズワルドの従者だった。その従者は、オズワルドの領地で新しい屋敷を与えられていた。それも、特別支出の出た月に。
衛兵に引き立てられてきたその従者は、オズワルドの顔を見ようとしなかった。
「……宰相様に、命じられました。あの夜、ヴィクトール様の荷物に、瓶を入れておけ、と。新しい屋敷をやるから、と」
広間が、どよめいた。
オズワルドは、白い髭を震わせて、玉座の俺を見上げた。
「陛下。この老いぼれが、どれほど陛下をお導きしてきたか、お忘れか。村の少年だった陛下に、剣の持ち方を教えたのは、このわしですぞ。民は、勇者様と、勇者様を導いた大賢者を愛しておる。この男たちの言葉で、その物語を汚されるおつもりか」
物語。
オズワルドは、最後まで、それにすがっていた。
「剣の持ち方を教えてくれたことは、感謝してる」
俺は、玉座から立ち上がった。
「でも、帳簿の読み方は、教えてくれなかったな」
「数字は、嘘をつかない」
ヴィクトールが言った。
「嘘をつくのは、いつも、数字を見せない人間だ」
オズワルドは、その日のうちに宰相を解かれ、領地は没収された。抜かれた金の多くが、国庫に戻ることになった。
ヴィクトールの罪は、取り消された。
俺は、自分で民の前に立って、勇者の城を売ると告げた。黄金の像も、溶かして貨幣に戻すことにした。
王都の広場に集まった民の前で、俺は、帳簿の頁を一枚、高く掲げた。
「勇者の城と、この像と、七日の祝宴で、国の金を使いすぎた。俺のせいだ。だから、売る。売った金で、国じゅうの落ちた橋と、崩れた堤を直す」
広場が、しんとなった。
誰かが、ぽつりと言った。
「……北の街道の、川の橋もか」
「直す。真っ先に」
人垣のどこかで、拍手が起きた。それは、四年前の凱旋のときの歓声よりずっと小さくて、ずっと長く続いた。
広場の端で、エルンスト爺さんが、×のついた古い紙の束を胸に抱いて、目元をぬぐっていた。
黄金の像が溶かされる日、ヴィクトールが、炉の前で、溶けていく俺の顔を眺めていた。
「似てなかったな」
「どこが」
「顔が良すぎる」
俺は、思わず吹き出した。旅の焚き火のそばで、こいつはいつも、こういう顔で嫌味を言った。
故郷の村の永久免税も、取り消すことにした。
村には、俺が自分で手紙を書いた。ほどなく、村長から返事が届いた。
『勇者様。税は、ちゃんと払います。その代わり、川の橋を直してください。去年の春から、落ちたままなんです』
故郷の人たちは、とっくに知っていたのだ。税を払わないことより、橋が直ることのほうが、ずっと嬉しいということを。
俺は、橋の修繕費を、来月の帳簿に書き入れた。
◇
ひと月後、ヴィクトール・ローゼンベルクは、この国の財務卿になった。
任命の日、ヴィクトールは、きっちりと交わした雇用の契約書を、俺の目の前で確かめた。給金の額の欄を、二度読み直していた。
「……四年分の未払いも、請求していいか」
「いいぞ。ただし、分割で」
「ずいぶん、帳簿が読めるようになったな」
「先生がいいからな」
ヴィクトールは、ふんと顔を背けた。耳が、少し赤かった。
その夜、セシリアが、俺の書き物机にやって来た。
「首飾り、いくらで売れたの」
「橋が三本、直る」
「そう。……それなら、いいわ」
セシリアは、少し笑った。
「これからは、二人で帳簿を開きましょう。……いいえ、三人ね。ヴィクトールに叱られながら」
「きっと、すごく怖いぞ」
「知ってるわ。旅の話を、あなたからたくさん聞いたもの」
ハッピーエンドの先は、誰も書いていなかった。
だから、自分たちで書くことにした。
国庫の帳簿の、いちばん新しい頁に、俺は今日の日付と、自分の名前を書き入れた。




