表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

深夜二時の喫茶店で、五年前に私を陥れた公爵家の方々が常連になっていますが、私のコーヒーの虜になっているとは知らないようです

作者: uta
掲載日:2026/03/21

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

午前二時。


閉館を告げるベルの余韻が、喫茶『月灯り』の薄暗い店内に溶けていく。


私——雫・フォン・クレスティアは、最後の客が残したカップを下げながら、窓の外に視線を向けた。街灯に照らされた石畳は濡れている。いつの間にか、小雨が降り始めていたらしい。


「お姉様、今日もあの人、来ませんでしたね」


セラフィーナが残念そうに呟く。亜麻色の髪を揺らしながら、テーブルを拭く手を止めた彼女の視線は、窓際の席——いつも空けてある、あの席に向けられている。


「……そうね」


私は曖昧に頷いた。


『あの人』。


三週間前から、毎晩のように現れる奇妙な客のことだ。


閉店間際に来て、何も注文せず、ただ窓際の席に座って私を見つめている。声をかけても「……すみません」と呟くだけで、閉館のベルが鳴ると静かに去っていく。


不審者、と言ってしまえばそれまでだ。


(けれど)


あの瞳。深い碧色の、どこか寂しげな瞳。まるで、何かを必死に探しているような——。


「お姉様?」


「なんでもないわ。さ、そろそろ閉めましょう」


私は首を振り、カウンターへ戻ろうとした。


その時だった。


カラン、と。


入口のドアベルが鳴った。


「申し訳ありません、もう閉店——」


振り返った私の言葉は、途中で止まった。


雨に濡れた漆黒の髪。蒼白な頬。そして、私を真っ直ぐに見つめる深い碧眼。


『あの人』だった。


「……また、来てしまいました」


彼は掠れた声でそう言って、力なく微笑んだ。


(この人、熱があるんじゃないかしら)


職業的な観察眼が、彼の様子を捉える。足元がふらついている。唇は乾き、目の下には隈。明らかに、健康な状態ではない。


「……セラフィーナ、毛布を」


「は、はいっ!」


私は自分でも驚くほど自然に、彼の腕を取っていた。


「座って。今、温かいものを淹れるから」


「でも、閉店——」


「『月灯り』は、帰る場所のない人のための店よ」


老マスター・ゲオルグの言葉を、私は自然と口にしていた。


彼は——その青年は、一瞬目を見開いた後、ゆっくりと窓際の席に腰を下ろした。


「……ありがとう、ございます」


その声は震えていた。


雨のせいだけではない何かが、彼を追い詰めている。


私はカウンターに戻り、豆を選んだ。今夜は、深煎りのマンデリン。苦みの奥に甘さが隠れた、疲れた心を解きほぐす一杯。


(……どうして私は、この人のことが気になるのかしら)


ミルを回しながら、私は自問する。


五年前。婚約者に裏切られ、実家から勘当され、社交界から消えた私。『暁の銀百合』と呼ばれた令嬢は死に、今はただの喫茶店員——雫として生きている。


他人に深入りする余裕など、とうにないはずなのに。


湯を注ぐ。立ち上る香りが、店内を満たしていく。


「——っ」


小さく息を呑む音が聞こえた。


振り返ると、青年は目を見開いて私を見つめていた。


「この香り……」


「マンデリンよ。苦いのが苦手なら、他のものに——」


「いえ」


彼は首を振った。碧眼が、微かに潤んでいるように見えた。


「覚えて、いるんです」


カップを彼の前に置く。彼は両手でそれを包み込むように持ち、深く香りを吸い込んだ。


「五年前の、ある夜会で。誰もいない庭園で、貴女がこの香りの紅茶を淹れていた」


心臓が、跳ねた。


「……何を」


「月明かりの下で、貴女は泣いていた」


彼の声は、静かだった。


「誰も気づかなかった涙を——僕だけが、見ていました」


私の手が、わずかに震えた。


五年前のあの夜。婚約破棄を告げられた直後、誰にも見られない場所でひとり涙を流した、あの夜。


(誰かが、見ていた……?)


「貴女を探していました。ずっと」


青年は顔を上げた。碧眼が、真っ直ぐに私を捉える。


「五年間、ずっと——」


「……あなたは、誰?」


声が掠れた。


彼は一瞬、苦しげに目を伏せた。それから、意を決したように口を開く。


「蓮司・ヴァン・オルステッド」


世界が、凍りついた。


オルステッド。


公爵家。私の人生を狂わせた、あの策略の——。


「——っ」


私は一歩、後ずさった。


「待ってください」


彼が——蓮司が、立ち上がろうとする。


「僕は、兄とは違う。兄が何をしたのか、僕は知らなかった。知っていたら、止めていた。だから——」


「帰って」


冷たく言い放つ。


五年間かけて築いた、穏やかな日常。それを壊しに来たのだとしたら——。


「帰ってください、オルステッド様」


「蓮司と呼んでください」


「……は?」


思わず、間抜けな声が出た。


彼は——蓮司は、真剣な顔で続けた。


「オルステッドと呼ばれると、兄と同じに思われているようで」


(……この人、天然なのかしら)


緊張感が、ほんの少しだけ緩んだ。


それを見逃さなかったのか、セラフィーナが割り込んできた。


「あの、お姉様。この人、目が優しいです。悪い人じゃないと思います」


「セラフィーナ」


「だって本当に!それに、雨の中ふらふらで来るなんて、よっぽどじゃないですか」


正論だった。


私は深く息を吐いた。


「……一杯だけよ」


「え」


「その一杯を飲んだら、帰って。そして——」


言葉を切り、彼を見据える。


「あなたの話を聞くかどうかは、その一杯で決めるわ」


コーヒーは正直だ。淹れる者の心も、飲む者の心も、すべてを映し出す。


蓮司は静かに頷き、カップを口に運んだ。


一口。


二口。


彼の表情が、ゆっくりと変わっていく。強張っていた肩の力が抜け、深い息が漏れる。


「……美味しい」


掠れた声で、彼は言った。


「五年前に見た貴女は、とても悲しそうだった。でも今は——」


碧眼が、私を映す。


「強くなった。けれど、まだ泣いているように見える」


心臓が、痛いほど脈打った。


(この人には、何が見えているの——?)


私は無言で背を向けた。


「閉店よ。帰って」


「また来ます」


「……好きにすればいいわ」


扉が閉まる音。


雨音だけが残された店内で、私は自分の手を見下ろした。


まだ、震えている。


「お姉様」


セラフィーナの心配そうな声が聞こえた。


「……大丈夫よ」


大丈夫。大丈夫なはず。


五年間、誰にも見せなかった涙を知っている人間が現れたくらいで、私の日常は壊れない。


——壊れては、いけないのだ。


窓の外、雨はまだ降り続いていた。


◇◇◇


それから三日間、蓮司は約束通り毎晩やってきた。


「ブレンドを」


「……今日はコロンビアがいいわ。胃に優しいから」


「では、それを」


相変わらず、多くを語らない男だった。


窓際の席に座り、私が淹れたコーヒーを飲み、時折何かを書きつけている。手帳だろうか、それとも仕事の書類か。


(公爵家の次男が、こんな場末の喫茶店で何をしているのやら)


内心で呆れながらも、私は彼を追い出さなかった。


理由は——自分でもわからない。


「お姉様、またあの人のカップだけ特別な淹れ方してません?」


セラフィーナが、にやにやしながら囁いた。


「してないわよ」


「嘘ー。湯の温度、二度下げてましたよね。酸味を引き出すために」


「……客に合わせて調整するのは当然のことよ」


「他のお客さんには、そこまでしないのに」


「うるさいわね」


頬が熱くなるのを感じて、私は背を向けた。


◇◇◇


四日目の夜、事件は起きた。


閉店まであと一時間。店内には蓮司の他に、初めて見る客が二人。


フードを深く被った男女が、奥のテーブルに座っている。


「ご注文は」


近づいた私に、女性の方が顔を上げた。


蜂蜜色の巻き毛。翡翠の瞳。人形のように整った顔立ち。


——知っている。この顔を、私は知っている。


「あら、素敵な香りね。評判通りだわ」


甘い声が響く。


ミレーヌ・フォン・カルヴィン。


五年前、『お姉様』と慕うふりをしながら、私の婚約者を奪い、悪評を広めた女。


(……まさか、気づいていない?)


私の姿を見ても、彼女の顔には何の反応もなかった。当然かもしれない。銀灰色の髪を質素な三つ編みにまとめ、地味なエプロンを身につけた今の私は、『暁の銀百合』とは別人だ。


「深煎りのブレンドを二つ。それと——」


ミレーヌは隣の男を見た。


「あなた、何か食べる?」


「……好きにしろ」


男が低く答えた。フードの奥、見覚えのある顔が覗く。


カルヴィン子爵。私のかつての婚約者。


(二人揃って、よくもまあ)


胸の奥で、冷たい何かが渦を巻く。


「かしこまりました」


私は無表情を保ったまま、カウンターへ戻った。


視線を感じた。蓮司だ。彼は何も言わず、ただ私を見つめていた。まるで、私の動揺を見透かすように。


(大丈夫)


私は自分に言い聞かせながら、豆を挽いた。


深煎りのブレンド。苦味が強く、香りは控えめ。彼らにはお似合いだ。


「——だから言ったじゃない。あの土地の収益が落ちてるのは、管理人のせいよ」


奥のテーブルから、ミレーヌの声が聞こえてきた。


「管理人を変えても同じだ。そもそも、あの土地の経営方針自体が——」


「方針?私に難しいことを言われても困るわ。そういうのは、あなたの仕事でしょう?」


「お前が『できる』と言ったから任せたんだろう!クレスティアの令嬢がやっていたように——」


私の手が、一瞬止まった。


「まだあの女のことを言うの!?」


ミレーヌの声が甲高くなる。


「私がいなければ、あなたは今でもあの女に縛られてたのよ!?感謝してほしいくらいだわ!」


「感謝?破綻しかけた領地を押し付けられて、感謝しろと?」


「それは——」


言い争う声が、店内に響く。


私は黙々とコーヒーを淹れた。


(あの土地の経営が破綻しかけている、か)


皮肉だ。私が五年かけて立て直した領地経営を、彼らはたった五年で食い潰した。


「お待たせしました」


カップを二つ、テーブルに置く。


「——ええ、ありがとう」


ミレーヌが不機嫌そうに答えた。彼女の視線が、私の手元に向けられる。


「ねえ、あなた」


「はい」


「その三つ編み、少し緩んでるわよ。だらしないわね」


(……五年経っても、変わらないのね)


私は微笑んだ。


「ご指摘ありがとうございます。直しておきますわ」


その時、ミレーヌの目が大きく見開かれた。


「……今の言い方」


「はい?」


「いえ……何でもないわ」


彼女は首を振り、カップを手に取った。


一口。


その瞬間、ミレーヌの動きが止まった。


「……この、香り」


翡翠の瞳が揺れる。


「昔、誰かが淹れてくれた紅茶と……似ている……」


私は何も答えず、背を向けた。


カウンターに戻ると、蓮司が静かに立ち上がった。


「大丈夫ですか」


小声で問われ、私は頷いた。


「平気よ」


「顔色が悪い」


「……お節介な人ね」


「貴女のことになると、そうなるようです」


真面目な顔で言われて、不覚にも胸が跳ねた。


(何を言っているのよ、この人は)


「席に戻って。まだコーヒーが残っているでしょう」


「冷めました」


「淹れ直すわ」


「……ありがとうございます」


彼が微かに笑った。初めて見る、柔らかな表情だった。


◇◇◇


閉店後。


ミレーヌたちが去った店内で、私はひとり、カップを洗っていた。


セラフィーナは奥で片付け。蓮司は——。


「まだいたの」


振り返ると、彼は窓際の席から動いていなかった。


「雨が降り始めたので」


確かに、窓の外には雨粒が滴っている。


「あの二人は」


蓮司が静かに言った。


「貴女を陥れた者たちですね」


手が止まった。


「……どうしてわかるの」


「貴女の手が震えていた」


観察していたのか、と思った。けれど不思議と、嫌ではなかった。


「兄の仕業です」


蓮司の声が低くなる。


「五年前の婚約破棄——すべてを仕組んだのは、僕の兄、レイナードです」


「……知っているわ」


「知って——」


「噂で聞いたの。没落した後になって、ようやく」


私はカップを拭きながら、淡々と続けた。


「クレスティア伯爵家の財政難につけ込んで、領地を狙った策略。婚約者を唆し、あの女を使って悪評を広め、私を追い落とした」


「——申し訳ありません」


「あなたが謝ることではないわ」


「でも、僕は何もできなかった」


蓮司の声には、深い苦悩が滲んでいた。


「気づいていたら——止められたかもしれない。貴女を、守れたかもしれない」


「守る?」


私は振り返った。


「私は、守られたいわけじゃないわ」


「わかっています」


彼は静かに頷いた。


「だから、僕は『隣に立ちたい』と思う」


「……どういう意味」


「そのままの意味です」


蓮司は立ち上がり、窓際から歩み寄ってきた。


「五年前から、貴女のことを想っていた。探し続けて、ようやく見つけた」


碧眼が、真っ直ぐに私を見つめる。


「僕には力がある。金も、人脈も。それを使って、貴女の復讐を手伝うこともできる」


「私は復讐なんて——」


「ええ、貴女は望んでいない。知っています」


彼は微かに笑った。


「だからこそ、僕は隣にいたい。貴女が自分の価値を証明していく姿を、一番近くで見ていたい」


胸の奥が、熱くなった。


五年間。誰にも頼らず、ひとりで立ってきた。


『助けて』と言う資格もないと思っていた。


けれど——。


「……一杯、淹れるわ」


私は背を向けた。顔を見られたくなかった。


「今度は、あなたのためだけに」


「——ありがとうございます」


彼の声が、優しく響いた。


窓の外、雨は止み始めていた。


雲の切れ間から、月明かりが差し込んでくる。


『月灯り』の名に相応しい、静かな夜だった。


◇◇◇


「蓮司様がまた来ないんですって?」


その噂は、瞬く間に社交界を駆け巡ったらしい。


——と、セラフィーナが仕入れてきた情報によると。


「市場でオルステッド公爵家の使用人さんが話してたんです!次男様が毎晩どこかに出かけて、朝方まで戻らないって!」


「……盗み聞きはよくないわよ」


「盗み聞きじゃないです!たまたま聞こえただけで!」


セラフィーナは頬を膨らませた。


私は溜息をついた。


蓮司が『月灯り』に通い始めて、二週間。


最初は深夜だけだった彼の来訪は、今では閉店作業を手伝うまでになっている。曰く、『何もしないでいると落ち着かない』とのこと。


(公爵家の次男に、皿洗いをさせるわけにはいかないのだけれど)


けれど彼は、私が何を言っても聞かなかった。


「お姉様。ぶっちゃけ、蓮司様のこと、どう思ってるんですか?」


「どう、とは」


「好きとか、嫌いとか」


直球すぎる質問に、私は言葉に詰まった。


「……嫌いではないわ」


「それって好きってことですよね!?」


「違うわよ」


「えー」


不満そうなセラフィーナを無視して、私は仕込みを続けた。


好き、嫌い。そんな単純な言葉で表せるほど、私の感情は整理されていない。


蓮司は確かに、不思議な安心感を与えてくれる存在だ。


彼がいると、かつての傷が少しだけ軽くなる気がする。


けれど——。


(オルステッド公爵家の人間、という事実は変わらない)


彼を信じたいと思う自分と、信じてはいけないと警告する自分。その狭間で、私はまだ揺れている。


◇◇◇


その夜、蓮司は珍しく遅刻した。


「すみません、遅くなりました」


午前一時半。閉店まであと三十分というところで、彼は息を切らせながら現れた。


「……走ってきたの?」


「少し。家を出るのに手間取りまして」


彼の表情が、どこか硬い。


「何かあったの」


「——兄に会いました」


蓮司は窓際の席に座り、深い息をついた。


「久しぶりに、話をした」


私の手が、コーヒーミルの上で止まった。


「レイナード・ヴァン・オルステッド」


彼の名を口にするだけで、胸の奥が冷たくなる。


「兄は……貴女の店に興味を持っているようです」


「……何ですって」


「最近、深夜営業の喫茶店が評判だと。『どんな客層が来るのか、調べてみろ』と」


(まさか)


背筋に、冷たいものが走った。


「彼は、私がここにいることを——」


「いいえ。まだ知りません」


蓮司は首を振った。


「店の名前も、場所も教えていない。けれど——」


彼は私を見つめた。碧眼に、苦悩の色が浮かんでいる。


「兄のことです。遅かれ早かれ、嗅ぎつけるでしょう」


沈黙が落ちた。


私は静かにコーヒーを淹れ始めた。手は震えていなかった。


「そう」


驚くほど平坦な声が出た。


「なら、その時はその時ね」


「雫さん」


「逃げないわ。もう、逃げる場所もないもの」


カップを彼の前に置く。


「それに——」


私は微かに笑った。


「私のコーヒーを飲んだ客は、みんな虜になるの。たとえそれが、私を陥れた張本人でもね」


蓮司は目を見開いた。


それから、ゆっくりと表情を緩めた。


「……強いですね、貴女は」


「強くなるしかなかったの」


私はカウンターに戻った。


「五年前の私は、泣いていただけだった。誰かに助けてほしかった。でも誰も来なかった」


「——僕は」


「ええ、あなたは見ていてくれた。それだけで、少し救われたわ」


振り返り、彼を見つめる。


「だから、ありがとう」


蓮司は——泣きそうな顔で、微笑んだ。


「僕は」


彼はカップを両手で包み、呟いた。


「僕も、ずっと孤独でした」


「……え?」


「兄に比べて、才能がないと言われ続けた。母には無視され、父には期待されなかった」


碧眼が、遠くを見つめる。


「唯一、僕を見てくれたのは祖母だけでした。でも三年前に亡くなって——」


彼は息をついた。


「それから、ずっと独りだった」


私は何も言えなかった。


公爵家の次男。華やかな家柄。何不自由ない暮らし。


その内側に、こんな孤独があったなんて。


「五年前、庭園で貴女を見た時——」


蓮司は顔を上げた。


「同じだと思った。孤独で、誰にも理解されなくて、でも泣くことしかできない」


「……」


「だから、探した。貴女に会いたかった」


碧眼が、まっすぐに私を見つめる。


「貴女といると、独りじゃないと思える」


胸の奥で、何かが弾けた。


涙が、頬を伝っていた。


「……泣かないでください」


「あなたのせいよ」


私は袖で目元を拭った。


「こんなこと言われたら、泣くに決まってるでしょう」


「すみません」


「謝らないで」


深呼吸をする。


「……私も」


「え?」


「私も、あなたといると——」


言葉が続かなかった。


代わりに、私は新しいカップを手に取った。


「もう一杯、淹れるわ」


「……はい」


蓮司が、柔らかく微笑んだ。


その時、入口のドアベルが鳴った。


「すみません、まだやってますか?」


振り返った私は、息を呑んだ。


白髪に深い皺。だが背筋は真っ直ぐ。


老マスター・ゲオルグが、杖をつきながら立っていた。


「マスター……」


「夜更かしは体に悪いと言っただろう、雫」


彼は穏やかに笑った。


「だが——お前には、話しておかねばならんことがある」


視線が、蓮司へ向けられる。


「オルステッドの坊やも、聞いておくといい」


「……僕を、ご存じなのですか」


「お前の祖母と、古い知り合いでな」


蓮司の顔に、驚きが広がった。


ゲオルグは窓際の席へ歩み寄り、腰を下ろした。


「雫。お前の祖父——クレスティア先代伯爵を、覚えているか」


「祖父を……?」


私は戸惑った。祖父は、私が幼い頃に亡くなっている。ほとんど記憶がない。


「彼とは、宮廷で共に働いた仲だ。そして——」


ゲオルグは私を見つめた。深い皺の奥に、優しい光が宿っている。


「お前を助けたのは、彼との約束を果たすためだった」


「約束……」


「『もし、わしの孫が困っていたら、助けてやってくれ』——そう頼まれていた」


胸が、熱くなった。


「お前は一人じゃない、雫」


ゲオルグは穏やかに言った。


「お前の知らないところで、お前を見守っている者がいる。忘れるな」


涙が、また溢れた。


二度も泣くなんて、私らしくない。


けれど——。


「ありがとう、ございます」


掠れた声で、私は頭を下げた。


ゲオルグは満足そうに頷き、蓮司を見た。


「坊や。この娘を、よろしく頼むぞ」


「——はい」


蓮司が、力強く答えた。


「必ず」


深夜二時。閉館のベルが鳴り響く。


けれど今夜は、誰も帰ろうとしなかった。


月明かりが、三人の姿を優しく照らしていた。


◇◇◇


ミレーヌは、眠れない夜を過ごしていた。


「……あの香り」


寝台の上で、彼女は呟いた。


あの深夜の喫茶店で飲んだコーヒー。苦いはずなのに、どこか甘い余韻が残る、不思議な一杯。


そして——あの店員の、話し方。


『ご指摘ありがとうございます。直しておきますわ』


丁寧で、穏やかで、けれどどこか皮肉を含んだ、あの言い回し。


(似ている……誰かに……)


記憶の底を、何かが引っ掻いている。けれど、それが何なのかわからない。


「ミレーヌ」


不機嫌な声が聞こえた。隣の寝室から、夫が顔を覗かせている。


「何度も言わせるな。明日、領地に行く」


「……行ってらっしゃい」


私はついていかない。そう告げると、夫は冷たく鼻を鳴らした。


「どうせお前が来ても役に立たん」


扉が乱暴に閉まる。


残されたミレーヌは、暗い天井を見つめた。


五年前。あの女——雫を追い落とした時、私は勝者になったはずだった。


婚約者を奪い、社交界から追放し、伯爵家を没落させた。すべてが思い通りだった。


なのに——。


(なぜ、こんなに空しいの)


夫は私を愛していない。子どもはできない。領地経営は破綻しかけている。


『お姉様』と呼んで慕っていた彼女が担っていた役割を、私は何一つ果たせていない。


「……あの女さえ、いなければ」


呟いて、はっとした。


あの女はもういない。社交界から消えた。それなのに、まだ彼女の影に怯えている自分がいる。


(馬鹿みたい)


ミレーヌは寝台から起き上がった。


眠れないなら、眠らなければいい。


あの店に、また行こう。あの香りを——あの、心が落ち着く香りを、もう一度。


◇◇◇


午前一時。


ミレーヌは『月灯り』の前に立っていた。


雨が降っている。フードを深く被り、誰にも気づかれないようにして。


(惨めね、子爵夫人ともあろうものが)


けれど、足は止まらなかった。


ドアを開ける。ベルが鳴る。


「いらっしゃいませ——」


柔らかな声。銀灰色の三つ編み。深い紫水晶の瞳。


ミレーヌの心臓が、跳ねた。


(この瞳——知っている)


「窓際のお席でよろしいですか」


店員は穏やかに微笑んだ。


ミレーヌは無言で頷き、席についた。


「ご注文は」


「……前と、同じものを」


「かしこまりました」


店員が背を向ける。その後ろ姿を、ミレーヌは食い入るように見つめた。


(あの歩き方。あの姿勢。まるで……)


——まるで、社交界の令嬢のようだ。


胸がざわつく。


コーヒーが運ばれてきた。立ち上る香りが、鼻腔をくすぐる。


一口、飲んだ。


「っ——」


涙が、溢れた。


なぜ。なぜ泣いているのか、自分でもわからない。


ただ、この味が。この香りが。


(『お姉様、今日も紅茶を淹れてくださいませんか?』)


遠い記憶が、蘇った。


五年前。クレスティア伯爵邸で、彼女が淹れてくれた紅茶。


優しくて、温かくて、心が満たされる味。


『ミレーヌ、あなたには才能があるわ。もっと自信を持って』


彼女は、そう言ってくれた。田舎から出てきた自分を、対等に扱ってくれた。


(私が……奪ったのは……)


「お客様」


顔を上げると、店員が心配そうに見下ろしていた。


「大丈夫ですか」


「……大丈夫、よ」


ミレーヌは袖で涙を拭った。


「ただ、この味が……昔、誰かに淹れてもらった飲み物を思い出して……」


「そうですか」


店員は静かに微笑んだ。


「良い思い出だったのですね」


「——違うの」


ミレーヌは首を振った。


「良い思い出、なんかじゃない。私は——」


言葉が詰まった。


私は、その人を裏切った。


奪った。追い落とした。傷つけた。


「……ごめんなさい」


気づけば、そう呟いていた。


「え?」


「何でもないわ。独り言よ」


ミレーヌは立ち上がり、代金を置いた。


「また、来ていい?」


「もちろんです。『月灯り』は、帰る場所のない人のための店ですから」


店員の言葉に、ミレーヌは小さく笑った。


「帰る場所、か」


私には、もうそんなものはない。


けれど——この店だけは、受け入れてくれるような気がした。


「おやすみなさい」


「おやすみなさいませ。お気をつけて」


ドアを開け、雨の中に出る。


振り返ると、店の窓から温かな光が漏れていた。


(また、来よう)


そう思った瞬間——。


「あら、ミレーヌじゃない」


背筋が凍った。


振り返ると、傘を差した女性が立っていた。


金茶の髪に、華やかなドレス。オルステッド公爵家の紋章が入った馬車が、すぐ後ろに停まっている。


「こんな時間に、こんな場所で何をしているの?」


レイナードの婚約者——クラリス侯爵令嬢が、嘲笑うように言った。


「まさか、没落令嬢みたいに場末の喫茶店通い?」


「っ——」


「まあいいわ。レイナード様に報告しておくわね。『カルヴィン子爵夫人が、深夜に怪しい店に出入りしている』って」


クラリスは笑いながら馬車に乗り込んだ。


残されたミレーヌは、震えながら立ち尽くしていた。


これで、また噂になる。


社交界での立場が、さらに危うくなる。


(……もう、どうでもいい)


ふと、そう思った。


失うものなど、もう何もない。


雨に打たれながら、ミレーヌは家路についた。


背後で、『月灯り』の看板が、静かに揺れていた。


◇◇◇


「深夜営業の喫茶店、ねえ」


レイナード・ヴァン・オルステッドは、執務室で報告書に目を通していた。


「評判がいいらしいな」


「はい。社交界の方々も、お忍びで通っているとか」


執事の言葉に、レイナードは冷たく笑った。


「面白い。一度、行ってみるか」


「御自ら、ですか」


「気になることがあってな」


書類を置き、窓の外を見つめる。


弟の蓮司が、最近毎晩外出している。行き先は不明。


そして——クラリスからの報告。カルヴィン子爵夫人が、深夜の喫茶店に出入りしていると。


(蓮司とミレーヌ。接点はないはずだ。けれど——)


何かが、引っかかる。


五年前、クレスティア伯爵家を没落させた策略。あの時、すべては計画通りに進んだ。


領地は手に入れた。邪魔な令嬢は消えた。完璧な勝利。


だが——。


(あの女は、どこに消えた)


雫・フォン・クレスティア。社交界で『暁の銀百合』と呼ばれた令嬢。


彼女の行方を、レイナードは追っていなかった。興味がなかったからだ。没落した令嬢など、路傍の石に等しい。


けれど——。


「蓮司は、五年前から誰かを探していたな」


「はい。女性を、とのことでしたが……」


「相手の名は」


「存じ上げません。蓮司様は、誰にも明かされませんでしたので」


レイナードは目を細めた。


五年前。あの夜会で、蓮司が一人の令嬢を見つめていたことを、彼は覚えている。


あれは——。


「馬車を用意しろ」


「今からですか」


「今夜、その喫茶店に行く」


◇◇◇


同じ頃。


『月灯り』では、いつもの夜が始まっていた。


「お姉様、今日は蓮司様、早く来ましたね」


「そうね」


私は苦笑しながら、蓮司の前にコーヒーを置いた。


「今日は、ゲイシャを。華やかな香りが特徴よ」


「ありがとうございます」


蓮司が微笑む。最近、彼の表情は随分柔らかくなった。


(出会った頃は、まるで影のようだったのに)


変化は、私にも訪れていた。


彼がいると、自然と口角が上がる。会話が弾む。閉店後の時間が、待ち遠しくなった。


(これは……何なのかしら)


名前をつけるのが、まだ怖い。


「雫さん」


「何?」


「今日は、月が綺麗です」


窓の外を見ると、確かに満月が輝いていた。


「……そうね」


「こういう夜は、貴女の髪がよく映える」


「っ——」


不意打ちの言葉に、顔が熱くなった。


「何を言っているの、急に」


「思ったことを言っただけです」


「……お世辞なら結構よ」


「お世辞ではありません」


蓮司は真剣な顔で言った。


「僕は——」


その時、ドアベルが鳴った。


「いらっしゃいませ——」


振り返った私は、凍りついた。


金茶の髪。冷たい灰色の瞳。彫刻のような美貌。


レイナード・ヴァン・オルステッドが、店の入口に立っていた。


「ほう」


彼は店内を見回し、ゆっくりと笑みを浮かべた。


「噂通りの、良い雰囲気だな」


「兄さん——」


蓮司が立ち上がった。声に、緊張が滲んでいる。


「なぜ、ここに」


「なぜ?弟がこそこそと通っている店を、見に来ただけだ。それとも——隠さねばならない理由でもあるのか?」


「……そういう意味では」


「店員。コーヒーを一杯——」


言葉が、途中で止まった。


灰色の瞳が、わずかに見開かれる。


「……待て」


「はい、何かございましたでしょうか」


私は動けなかった。


五年前、私の人生を壊した男が、目の前にいる。


「お前……その髪。その瞳。どこかで見た覚えがある」


「初めてのご来店ですね。窓際のお席は生憎埋まっております。カウンターでよろしいですか」


(動揺を見せるな。この男の前では、決して)


レイナードの目が、鋭く細まった。


「質問に答えろ。お前、名前は」


「……雫と申します。ただの喫茶店員でございます」


「雫——クレスティア、か」


心臓が、凍りついた。


「あ、あの、お客様!ご注文をお伺いしても——」


セラフィーナが割り込もうとした。


「黙れ、小娘」


「セラフィーナ、下がっていなさい」


私は静かに言った。


「五年前に消えた、あの令嬢。まさか、こんな場末の店に身を窶していたとはな。『暁の銀百合』も、随分と落ちぶれたものだ」


「兄さん……!彼女に何の用ですか」


蓮司が前に出た。


「何の用?決まっている。五年前、俺が追い落とした女が、弟に取り入っているんだ。放っておけるか」


「取り入る——?僕が自分の意思で通っているだけだ。彼女は何も——」


「お前は黙っていろ。昔から、女に騙されやすい性格だからな」


「……っ」


蓮司の拳が、震えている。


「やめてください」


私は静かに言った。


「ほう?口を挟むのか、元令嬢」


「蓮司、座って。……大丈夫よ」


「でも——」


「大丈夫」


私は彼を見つめた。


(五年前の私なら、震えて声も出なかった。けれど今は——)


「オルステッド公爵様。一杯、お淹れしましょうか。当店自慢のブレンドを」


「……何のつもりだ。媚びを売るつもりか」


「いいえ。ただのおもてなしです」


私はカウンターに立ち、豆を選んだ。


「『月灯り』は、すべてのお客様を歓迎いたします」


ゆっくりと、コーヒーを淹れ始める。


「——たとえそれが、私の人生を壊した方であっても」


「……ふん」


レイナードは鼻を鳴らした。


「いいだろう。その減らず口、どこまで続くか見せてもらおう」


「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」


(深煎りのブレンド。苦みの奥に、ほんの少しの甘さを。……この男に、私の味がわかるかしら)


セラフィーナが、怯えた顔で私を見ている。


(お姉様……あの人、目が全然笑ってない。怖い……)


私は彼女に小さく頷き、カップをレイナードの前に置いた。


「お待たせいたしました。どうぞ」


レイナードは疑わしそうに私を見た。それから、カップを手に取った。


一口。


彼の表情が、微かに変わった。


「……悪くない」


「恐れ入ります」


「いや——悪くない、どころではないな」


レイナードはカップを置き、私を見つめた。


灰色の瞳に、奇妙な光が宿る。


「この味……俺は、どこかで——」


「お気に召しましたら、幸いです」


私は一礼し、背を向けた。


(……覚えているはずがない。この男に、私のコーヒーを出したことはないのだから)


けれど——。


五年前の夜会で、私は確かに紅茶を淹れていた。あの庭園で。一人で。


蓮司だけが見ていたと思っていた。


(まさか——)


振り返ると、レイナードは複雑な表情でカップを見つめていた。


「……また来る」


彼は立ち上がり、代金を置いた。


「いい店だ。弟の趣味も、たまには悪くないらしい」


蓮司を一瞥し、レイナードは店を出ようとした。


「——だが、覚えておけ。元クレスティア令嬢」


「……」


「お前がどこに隠れようと、俺の手の届かない場所などない」


「ええ、存じております」


私は微笑んだ。


「——けれど私は、もう逃げませんわ」


レイナードの目が、わずかに見開かれた。


「……面白い女だ」


彼は低く笑い、店を出ていった。


残された店内に、沈黙が落ちる。


「雫さん……!大丈夫ですか」


蓮司が駆け寄ってきた。


「……ええ。思っていたより、大丈夫だったわ」


「お姉様……手、震えてます」


セラフィーナが、涙目で私の手を握った。


「あら、本当ね。……困ったわ」


私は苦笑した。


「怖かったです。貴女が、連れていかれるんじゃないかと」


蓮司の声が、震えている。


「……大袈裟ね」


「大袈裟ではありません。僕は——」


「蓮司」


「……はい」


「私はもう、逃げないわ。五年前とは違う。だから——」


私は彼を見つめた。


「あなたも、そんな顔をしないで」


蓮司の碧眼が、潤んでいた。


「……僕も、ここにいます」


彼の手が、私の手を包んだ。


「何があっても。貴女の隣に」


胸が、熱くなった。


「……ありがとう」


セラフィーナが、後ろで何か言っている。


(わあ……これ、絶対いい雰囲気だ……!でも今は黙ってよう……)


私は思わず笑ってしまった。


「さあ、閉店の準備をしましょう。もう二時よ」


「手伝います」


「公爵家の次男に、皿洗いをさせるわけにはいかないと、何度言ったかしら」


「何度言われても、聞きません」


「……頑固ね」


「貴女には言われたくありません」


「あはは!蓮司様、お姉様に言い返せるようになりましたね!」


セラフィーナが笑った。


「セラフィーナ、あなたは奥の片付けを」


「はーい!……ふふ、お幸せにー」


「……あの子は」


私は溜息をついた。


「良い子ですね」


蓮司が、柔らかく笑った。


「ええ。……ええ、本当に」


私は窓の外を見つめた。


満月は雲に隠れ、やがてまた顔を覗かせた。


(嵐が来る。けれど——私は、もう独りではない)


◇◇◇


それから一週間。


レイナードは、宣言通り毎晩店に現れた。


「今日も、同じものを」


「かしこまりました」


私は淡々とコーヒーを淹れる。


不思議なことに、彼は私を追い詰めるような言動をしなかった。ただ静かにコーヒーを飲み、時折私を観察するような視線を向けるだけ。


「兄さんの様子が、おかしい」


蓮司が、困惑した顔で言った。


「家でも、ずっと何か考え込んでいる。婚約者のクラリスを無視することも増えたと」


「……そう」


私は無表情を保った。


(この男が、何を考えているのかわからない)


レイナードは、私を陥れた張本人だ。今さら何を企んでいるのか。


けれど——。


「……この味は」


ある夜、レイナードが呟いた。


「何か、思い出すものがある。けれど、それが何か——」


彼は眉根を寄せた。


「五年前の夜会で、庭園から香りが漂ってきた。誰かが、紅茶を淹れていた」


私の手が、止まった。


「あの香りと、同じだ」


レイナードは私を見た。灰色の瞳に、複雑な感情が渦巻いている。


「あの時、俺は——」


彼は言葉を切った。


「……いや、何でもない」


カップを空にして、代金を置く。


「また来る」


「お待ちしております」


彼が去った後、蓮司が私の傍に来た。


「雫さん」


「……何かしら」


「兄は——五年前の夜会で、貴女を見ていたのかもしれない」


「……どういうこと」


「あの夜、兄も庭園の近くにいた。僕が貴女を見つけた時、兄が反対側から歩いてくるのが見えた」


私は息を呑んだ。


「まさか——」


「確証はありません。けれど——」


蓮司は複雑な表情で続けた。


「兄が貴女に執着する理由が、それなら説明がつく」


私は窓の外を見た。


夜空には、雲間から月が顔を覗かせている。


(あの夜、私を見ていたのは蓮司だけではなかった——?)


答えは、まだ見えない。


◇◇◇


転機は、一ヶ月後に訪れた。


「雫」


その夜、ゲオルグが店を訪れた。


「客が来る。大切な話があると」


「客、ですか」


「ああ。——お前の、母上だ」


私の世界が、揺れた。


「母が——」


「勘当を解く気はないと言っているが、話を聞いてほしいと」


ゲオルグは穏やかに言った。


「お前が決めることだ。会いたくなければ、断ってもいい」


私は深く息を吸った。


五年間、一度も連絡をくれなかった母。私を見捨てた家族。


会いたくない。会う理由がない。


けれど——。


「……会います」


「雫さん」


蓮司が、心配そうに私を見た。


「大丈夫。もう、逃げないって決めたから」


私は微笑んだ。


「過去と、向き合う時が来たのよ」


◇◇◇


翌日の深夜。


店には、見慣れない女性が座っていた。


銀灰色の髪——私と同じ色。けれど、今は白髪が混じっている。深い皺が刻まれた顔。痩せ細った体。


「……雫」


母は、震える声で私の名を呼んだ。


「お久しぶりです、母上」


私は感情を押し殺して答えた。


「五年ぶりですね」


「雫、私は——」


「コーヒーをお淹れしますか。それとも、紅茶がよろしいですか」


「……雫」


母の目から、涙が溢れた。


「ごめんなさい」


私の手が、止まった。


「あの時、お前を守れなかった。父上の決定に、逆らえなかった」


「……」


「お前が家を出た後、私はずっと——」


母は嗚咽を漏らした。


「お前を探していた。けれど、見つからなくて——」


「探していた?」


私は冷たく言った。


「では、なぜ五年間も連絡をくださらなかったのです」


「お前の居場所が、わからなかったの。それに——」


母は俯いた。


「父上が、お前の話をすることを禁じていた。お前の名を口にすることさえ——」


「……父上が」


「先月、父上が亡くなった」


私は息を呑んだ。


「伯爵家は、もう終わりよ。領地は売られ、屋敷は没収された。私に残されたのは、この体ひとつ」


母は顔を上げた。


「お前に、会いたかった。ただ、それだけ——」


私は何も言えなかった。


怒りも、悲しみも、入り混じって、形にならない。


「……お姉様」


セラフィーナが、そっと私の背中に手を当てた。


「お姉様の気持ちは、お姉様が決めていいんです」


蓮司も、静かに頷いた。


私は深く息を吸った。


「母上」


「……はい」


「一杯、お淹れします」


私はカウンターに立った。


「私の答えは、その一杯で伝えます」


母は、静かに頷いた。


ゆっくりと、コーヒーを淹れる。


五年間の孤独。五年間の苦しみ。五年間の——。


(けれど、五年間の成長もあった)


私は今、ここに立っている。


誰にも頼らず、自分の足で。


カップを母の前に置いた。


「どうぞ」


母は震える手でカップを持ち、一口飲んだ。


「——っ」


彼女の目から、新たな涙が溢れた。


「この味……お前がまだ家にいた頃、淹れてくれた紅茶と同じ……」


「覚えていますか」


「忘れたことなど、一度もないわ」


母は泣きながら笑った。


「お前は、こんなに立派になって——」


「母上」


私は静かに言った。


「許す、とは言えません。まだ」


「……ええ」


「けれど——」


私は微笑んだ。


「また、来てください。『月灯り』は、帰る場所のない人のための店ですから」


母は、声を上げて泣いた。


私の頬にも、涙が伝っていた。


窓の外、夜明けの光が差し込み始めていた。


◇◇◇


一年後。


『月灯り』は、街で一番の評判の店になっていた。


深夜だけの営業は変わらない。けれど、客足は絶えない。


「お姉様、今日も満席です!」


セラフィーナが嬉しそうに報告する。


「そうね。ありがたいことだわ」


私はカウンターに立ち、コーヒーを淹れ続ける。


店の隅には、見慣れた顔がある。


蓮司。私の——婚約者。


一年前、彼は公爵家を出た。家督も、財産も捨てて。


『貴女の隣に立つために、俺は何も要らない』


そう言って、彼は私の傍に来た。


今では、店の経営を手伝ってくれている。相変わらず皿洗いも厭わない、不思議な男だ。


「雫さん」


「何?」


「今日の月も、綺麗ですね」


「……相変わらず、唐突ね」


「貴女といると、そうなるようです」


私は笑った。


一年前とは違う、自然な笑みが浮かぶ。


ドアベルが鳴った。


「いらっしゃいませ——」


振り返ると、見覚えのある顔があった。


ミレーヌ。


一年間、彼女は毎週のように店に通ってきた。最初は気まずそうに、けれど次第に——。


「雫様」


彼女は私を、『様』付けで呼ぶようになっていた。


「いつもの席でいいわ」


「……ありがとうございます」


ミレーヌは窓際の席に座った。


半年前、彼女は離縁した。カルヴィン子爵との結婚生活は、完全に破綻していた。


今は、小さな仕立て屋で働いている。かつての華やかな令嬢の面影はない。けれど——。


「雫様。今日も、美味しいです」


コーヒーを飲んだ彼女は、穏やかに微笑んだ。


「……よかった」


私も、微笑み返した。


許したわけではない。許せるはずがない。


けれど——彼女もまた、傷つき、学び、変わろうとしている。


それを見守ることは、できる。


「お姉様」


セラフィーナが、私の袖を引いた。


「あの人、また来ましたよ」


入口に、レイナードが立っていた。


一年前と変わらない、冷たい美貌。けれど、その瞳には——。


「いつもの席を」


「かしこまりました」


私は淡々と答えた。


レイナードは、半年前から態度が変わっていた。


私を陥れたことへの——後悔、とまでは言わない。けれど、何か、複雑な感情を抱えているようだった。


「今日も、同じものを」


「はい」


コーヒーを淹れながら、私は思う。


この男を許すことは、一生ないだろう。


けれど——私は、もう囚われていない。


過去の傷は消えない。けれど、それを抱えたまま、前に進むことはできる。


「——雫」


レイナードが、珍しく私の名を呼んだ。


「何でしょうか」


「……いや」


彼は言葉を呑み込んだ。


「また来る」


「お待ちしております」


彼が去った後、蓮司が傍に来た。


「大丈夫ですか」


「ええ」


私は微笑んだ。


「もう、大丈夫よ」


◇◇◇


午前二時。


閉館のベルが鳴り響く。


最後の客が帰り、店内には私と蓮司、セラフィーナだけが残された。


「今日もお疲れ様でした、お姉様」


「あなたもね、セラフィーナ」


「えへへ」


彼女は奥の部屋へ消えていった。


残された私たちは、窓際の席に並んで座った。


「雫さん」


「何?」


「幸せですか」


唐突な質問に、私は目を瞬かせた。


「……どうして、そんなことを聞くの」


「知りたいからです」


蓮司は真剣な顔で私を見つめた。


「五年前、貴女は泣いていた。誰にも気づかれない涙を」


「……ええ」


「今は、どうですか」


私は窓の外を見た。


夜空には、満月が輝いている。


五年前のあの夜と、同じ月。


けれど——。


「泣いていないわ」


私は微笑んだ。


「今は、もう」


蓮司の手が、そっと私の手を包んだ。


「……よかった」


彼の声が、優しく響いた。


「僕も、幸せです」


「そう」


私は彼の肩に頭を預けた。


窓の外、月明かりが優しく降り注いでいる。


『月灯り』——帰る場所のない人のための店。


けれど今、私には帰る場所がある。


この店が。この人が。


「蓮司」


「はい」


「ありがとう」


「……こちらこそ」


閉館のベルの余韻が、静かに消えていく。


深夜二時。『月灯り』の夜が終わる。


——そして、私たちの新しい朝が始まる。



【完】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ