深夜二時の喫茶店で、五年前に私を陥れた公爵家の方々が常連になっていますが、私のコーヒーの虜になっているとは知らないようです
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この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
午前二時。
閉館を告げるベルの余韻が、喫茶『月灯り』の薄暗い店内に溶けていく。
私——雫・フォン・クレスティアは、最後の客が残したカップを下げながら、窓の外に視線を向けた。街灯に照らされた石畳は濡れている。いつの間にか、小雨が降り始めていたらしい。
「お姉様、今日もあの人、来ませんでしたね」
セラフィーナが残念そうに呟く。亜麻色の髪を揺らしながら、テーブルを拭く手を止めた彼女の視線は、窓際の席——いつも空けてある、あの席に向けられている。
「……そうね」
私は曖昧に頷いた。
『あの人』。
三週間前から、毎晩のように現れる奇妙な客のことだ。
閉店間際に来て、何も注文せず、ただ窓際の席に座って私を見つめている。声をかけても「……すみません」と呟くだけで、閉館のベルが鳴ると静かに去っていく。
不審者、と言ってしまえばそれまでだ。
(けれど)
あの瞳。深い碧色の、どこか寂しげな瞳。まるで、何かを必死に探しているような——。
「お姉様?」
「なんでもないわ。さ、そろそろ閉めましょう」
私は首を振り、カウンターへ戻ろうとした。
その時だった。
カラン、と。
入口のドアベルが鳴った。
「申し訳ありません、もう閉店——」
振り返った私の言葉は、途中で止まった。
雨に濡れた漆黒の髪。蒼白な頬。そして、私を真っ直ぐに見つめる深い碧眼。
『あの人』だった。
「……また、来てしまいました」
彼は掠れた声でそう言って、力なく微笑んだ。
(この人、熱があるんじゃないかしら)
職業的な観察眼が、彼の様子を捉える。足元がふらついている。唇は乾き、目の下には隈。明らかに、健康な状態ではない。
「……セラフィーナ、毛布を」
「は、はいっ!」
私は自分でも驚くほど自然に、彼の腕を取っていた。
「座って。今、温かいものを淹れるから」
「でも、閉店——」
「『月灯り』は、帰る場所のない人のための店よ」
老マスター・ゲオルグの言葉を、私は自然と口にしていた。
彼は——その青年は、一瞬目を見開いた後、ゆっくりと窓際の席に腰を下ろした。
「……ありがとう、ございます」
その声は震えていた。
雨のせいだけではない何かが、彼を追い詰めている。
私はカウンターに戻り、豆を選んだ。今夜は、深煎りのマンデリン。苦みの奥に甘さが隠れた、疲れた心を解きほぐす一杯。
(……どうして私は、この人のことが気になるのかしら)
ミルを回しながら、私は自問する。
五年前。婚約者に裏切られ、実家から勘当され、社交界から消えた私。『暁の銀百合』と呼ばれた令嬢は死に、今はただの喫茶店員——雫として生きている。
他人に深入りする余裕など、とうにないはずなのに。
湯を注ぐ。立ち上る香りが、店内を満たしていく。
「——っ」
小さく息を呑む音が聞こえた。
振り返ると、青年は目を見開いて私を見つめていた。
「この香り……」
「マンデリンよ。苦いのが苦手なら、他のものに——」
「いえ」
彼は首を振った。碧眼が、微かに潤んでいるように見えた。
「覚えて、いるんです」
カップを彼の前に置く。彼は両手でそれを包み込むように持ち、深く香りを吸い込んだ。
「五年前の、ある夜会で。誰もいない庭園で、貴女がこの香りの紅茶を淹れていた」
心臓が、跳ねた。
「……何を」
「月明かりの下で、貴女は泣いていた」
彼の声は、静かだった。
「誰も気づかなかった涙を——僕だけが、見ていました」
私の手が、わずかに震えた。
五年前のあの夜。婚約破棄を告げられた直後、誰にも見られない場所でひとり涙を流した、あの夜。
(誰かが、見ていた……?)
「貴女を探していました。ずっと」
青年は顔を上げた。碧眼が、真っ直ぐに私を捉える。
「五年間、ずっと——」
「……あなたは、誰?」
声が掠れた。
彼は一瞬、苦しげに目を伏せた。それから、意を決したように口を開く。
「蓮司・ヴァン・オルステッド」
世界が、凍りついた。
オルステッド。
公爵家。私の人生を狂わせた、あの策略の——。
「——っ」
私は一歩、後ずさった。
「待ってください」
彼が——蓮司が、立ち上がろうとする。
「僕は、兄とは違う。兄が何をしたのか、僕は知らなかった。知っていたら、止めていた。だから——」
「帰って」
冷たく言い放つ。
五年間かけて築いた、穏やかな日常。それを壊しに来たのだとしたら——。
「帰ってください、オルステッド様」
「蓮司と呼んでください」
「……は?」
思わず、間抜けな声が出た。
彼は——蓮司は、真剣な顔で続けた。
「オルステッドと呼ばれると、兄と同じに思われているようで」
(……この人、天然なのかしら)
緊張感が、ほんの少しだけ緩んだ。
それを見逃さなかったのか、セラフィーナが割り込んできた。
「あの、お姉様。この人、目が優しいです。悪い人じゃないと思います」
「セラフィーナ」
「だって本当に!それに、雨の中ふらふらで来るなんて、よっぽどじゃないですか」
正論だった。
私は深く息を吐いた。
「……一杯だけよ」
「え」
「その一杯を飲んだら、帰って。そして——」
言葉を切り、彼を見据える。
「あなたの話を聞くかどうかは、その一杯で決めるわ」
コーヒーは正直だ。淹れる者の心も、飲む者の心も、すべてを映し出す。
蓮司は静かに頷き、カップを口に運んだ。
一口。
二口。
彼の表情が、ゆっくりと変わっていく。強張っていた肩の力が抜け、深い息が漏れる。
「……美味しい」
掠れた声で、彼は言った。
「五年前に見た貴女は、とても悲しそうだった。でも今は——」
碧眼が、私を映す。
「強くなった。けれど、まだ泣いているように見える」
心臓が、痛いほど脈打った。
(この人には、何が見えているの——?)
私は無言で背を向けた。
「閉店よ。帰って」
「また来ます」
「……好きにすればいいわ」
扉が閉まる音。
雨音だけが残された店内で、私は自分の手を見下ろした。
まだ、震えている。
「お姉様」
セラフィーナの心配そうな声が聞こえた。
「……大丈夫よ」
大丈夫。大丈夫なはず。
五年間、誰にも見せなかった涙を知っている人間が現れたくらいで、私の日常は壊れない。
——壊れては、いけないのだ。
窓の外、雨はまだ降り続いていた。
◇◇◇
それから三日間、蓮司は約束通り毎晩やってきた。
「ブレンドを」
「……今日はコロンビアがいいわ。胃に優しいから」
「では、それを」
相変わらず、多くを語らない男だった。
窓際の席に座り、私が淹れたコーヒーを飲み、時折何かを書きつけている。手帳だろうか、それとも仕事の書類か。
(公爵家の次男が、こんな場末の喫茶店で何をしているのやら)
内心で呆れながらも、私は彼を追い出さなかった。
理由は——自分でもわからない。
「お姉様、またあの人のカップだけ特別な淹れ方してません?」
セラフィーナが、にやにやしながら囁いた。
「してないわよ」
「嘘ー。湯の温度、二度下げてましたよね。酸味を引き出すために」
「……客に合わせて調整するのは当然のことよ」
「他のお客さんには、そこまでしないのに」
「うるさいわね」
頬が熱くなるのを感じて、私は背を向けた。
◇◇◇
四日目の夜、事件は起きた。
閉店まであと一時間。店内には蓮司の他に、初めて見る客が二人。
フードを深く被った男女が、奥のテーブルに座っている。
「ご注文は」
近づいた私に、女性の方が顔を上げた。
蜂蜜色の巻き毛。翡翠の瞳。人形のように整った顔立ち。
——知っている。この顔を、私は知っている。
「あら、素敵な香りね。評判通りだわ」
甘い声が響く。
ミレーヌ・フォン・カルヴィン。
五年前、『お姉様』と慕うふりをしながら、私の婚約者を奪い、悪評を広めた女。
(……まさか、気づいていない?)
私の姿を見ても、彼女の顔には何の反応もなかった。当然かもしれない。銀灰色の髪を質素な三つ編みにまとめ、地味なエプロンを身につけた今の私は、『暁の銀百合』とは別人だ。
「深煎りのブレンドを二つ。それと——」
ミレーヌは隣の男を見た。
「あなた、何か食べる?」
「……好きにしろ」
男が低く答えた。フードの奥、見覚えのある顔が覗く。
カルヴィン子爵。私のかつての婚約者。
(二人揃って、よくもまあ)
胸の奥で、冷たい何かが渦を巻く。
「かしこまりました」
私は無表情を保ったまま、カウンターへ戻った。
視線を感じた。蓮司だ。彼は何も言わず、ただ私を見つめていた。まるで、私の動揺を見透かすように。
(大丈夫)
私は自分に言い聞かせながら、豆を挽いた。
深煎りのブレンド。苦味が強く、香りは控えめ。彼らにはお似合いだ。
「——だから言ったじゃない。あの土地の収益が落ちてるのは、管理人のせいよ」
奥のテーブルから、ミレーヌの声が聞こえてきた。
「管理人を変えても同じだ。そもそも、あの土地の経営方針自体が——」
「方針?私に難しいことを言われても困るわ。そういうのは、あなたの仕事でしょう?」
「お前が『できる』と言ったから任せたんだろう!クレスティアの令嬢がやっていたように——」
私の手が、一瞬止まった。
「まだあの女のことを言うの!?」
ミレーヌの声が甲高くなる。
「私がいなければ、あなたは今でもあの女に縛られてたのよ!?感謝してほしいくらいだわ!」
「感謝?破綻しかけた領地を押し付けられて、感謝しろと?」
「それは——」
言い争う声が、店内に響く。
私は黙々とコーヒーを淹れた。
(あの土地の経営が破綻しかけている、か)
皮肉だ。私が五年かけて立て直した領地経営を、彼らはたった五年で食い潰した。
「お待たせしました」
カップを二つ、テーブルに置く。
「——ええ、ありがとう」
ミレーヌが不機嫌そうに答えた。彼女の視線が、私の手元に向けられる。
「ねえ、あなた」
「はい」
「その三つ編み、少し緩んでるわよ。だらしないわね」
(……五年経っても、変わらないのね)
私は微笑んだ。
「ご指摘ありがとうございます。直しておきますわ」
その時、ミレーヌの目が大きく見開かれた。
「……今の言い方」
「はい?」
「いえ……何でもないわ」
彼女は首を振り、カップを手に取った。
一口。
その瞬間、ミレーヌの動きが止まった。
「……この、香り」
翡翠の瞳が揺れる。
「昔、誰かが淹れてくれた紅茶と……似ている……」
私は何も答えず、背を向けた。
カウンターに戻ると、蓮司が静かに立ち上がった。
「大丈夫ですか」
小声で問われ、私は頷いた。
「平気よ」
「顔色が悪い」
「……お節介な人ね」
「貴女のことになると、そうなるようです」
真面目な顔で言われて、不覚にも胸が跳ねた。
(何を言っているのよ、この人は)
「席に戻って。まだコーヒーが残っているでしょう」
「冷めました」
「淹れ直すわ」
「……ありがとうございます」
彼が微かに笑った。初めて見る、柔らかな表情だった。
◇◇◇
閉店後。
ミレーヌたちが去った店内で、私はひとり、カップを洗っていた。
セラフィーナは奥で片付け。蓮司は——。
「まだいたの」
振り返ると、彼は窓際の席から動いていなかった。
「雨が降り始めたので」
確かに、窓の外には雨粒が滴っている。
「あの二人は」
蓮司が静かに言った。
「貴女を陥れた者たちですね」
手が止まった。
「……どうしてわかるの」
「貴女の手が震えていた」
観察していたのか、と思った。けれど不思議と、嫌ではなかった。
「兄の仕業です」
蓮司の声が低くなる。
「五年前の婚約破棄——すべてを仕組んだのは、僕の兄、レイナードです」
「……知っているわ」
「知って——」
「噂で聞いたの。没落した後になって、ようやく」
私はカップを拭きながら、淡々と続けた。
「クレスティア伯爵家の財政難につけ込んで、領地を狙った策略。婚約者を唆し、あの女を使って悪評を広め、私を追い落とした」
「——申し訳ありません」
「あなたが謝ることではないわ」
「でも、僕は何もできなかった」
蓮司の声には、深い苦悩が滲んでいた。
「気づいていたら——止められたかもしれない。貴女を、守れたかもしれない」
「守る?」
私は振り返った。
「私は、守られたいわけじゃないわ」
「わかっています」
彼は静かに頷いた。
「だから、僕は『隣に立ちたい』と思う」
「……どういう意味」
「そのままの意味です」
蓮司は立ち上がり、窓際から歩み寄ってきた。
「五年前から、貴女のことを想っていた。探し続けて、ようやく見つけた」
碧眼が、真っ直ぐに私を見つめる。
「僕には力がある。金も、人脈も。それを使って、貴女の復讐を手伝うこともできる」
「私は復讐なんて——」
「ええ、貴女は望んでいない。知っています」
彼は微かに笑った。
「だからこそ、僕は隣にいたい。貴女が自分の価値を証明していく姿を、一番近くで見ていたい」
胸の奥が、熱くなった。
五年間。誰にも頼らず、ひとりで立ってきた。
『助けて』と言う資格もないと思っていた。
けれど——。
「……一杯、淹れるわ」
私は背を向けた。顔を見られたくなかった。
「今度は、あなたのためだけに」
「——ありがとうございます」
彼の声が、優しく響いた。
窓の外、雨は止み始めていた。
雲の切れ間から、月明かりが差し込んでくる。
『月灯り』の名に相応しい、静かな夜だった。
◇◇◇
「蓮司様がまた来ないんですって?」
その噂は、瞬く間に社交界を駆け巡ったらしい。
——と、セラフィーナが仕入れてきた情報によると。
「市場でオルステッド公爵家の使用人さんが話してたんです!次男様が毎晩どこかに出かけて、朝方まで戻らないって!」
「……盗み聞きはよくないわよ」
「盗み聞きじゃないです!たまたま聞こえただけで!」
セラフィーナは頬を膨らませた。
私は溜息をついた。
蓮司が『月灯り』に通い始めて、二週間。
最初は深夜だけだった彼の来訪は、今では閉店作業を手伝うまでになっている。曰く、『何もしないでいると落ち着かない』とのこと。
(公爵家の次男に、皿洗いをさせるわけにはいかないのだけれど)
けれど彼は、私が何を言っても聞かなかった。
「お姉様。ぶっちゃけ、蓮司様のこと、どう思ってるんですか?」
「どう、とは」
「好きとか、嫌いとか」
直球すぎる質問に、私は言葉に詰まった。
「……嫌いではないわ」
「それって好きってことですよね!?」
「違うわよ」
「えー」
不満そうなセラフィーナを無視して、私は仕込みを続けた。
好き、嫌い。そんな単純な言葉で表せるほど、私の感情は整理されていない。
蓮司は確かに、不思議な安心感を与えてくれる存在だ。
彼がいると、かつての傷が少しだけ軽くなる気がする。
けれど——。
(オルステッド公爵家の人間、という事実は変わらない)
彼を信じたいと思う自分と、信じてはいけないと警告する自分。その狭間で、私はまだ揺れている。
◇◇◇
その夜、蓮司は珍しく遅刻した。
「すみません、遅くなりました」
午前一時半。閉店まであと三十分というところで、彼は息を切らせながら現れた。
「……走ってきたの?」
「少し。家を出るのに手間取りまして」
彼の表情が、どこか硬い。
「何かあったの」
「——兄に会いました」
蓮司は窓際の席に座り、深い息をついた。
「久しぶりに、話をした」
私の手が、コーヒーミルの上で止まった。
「レイナード・ヴァン・オルステッド」
彼の名を口にするだけで、胸の奥が冷たくなる。
「兄は……貴女の店に興味を持っているようです」
「……何ですって」
「最近、深夜営業の喫茶店が評判だと。『どんな客層が来るのか、調べてみろ』と」
(まさか)
背筋に、冷たいものが走った。
「彼は、私がここにいることを——」
「いいえ。まだ知りません」
蓮司は首を振った。
「店の名前も、場所も教えていない。けれど——」
彼は私を見つめた。碧眼に、苦悩の色が浮かんでいる。
「兄のことです。遅かれ早かれ、嗅ぎつけるでしょう」
沈黙が落ちた。
私は静かにコーヒーを淹れ始めた。手は震えていなかった。
「そう」
驚くほど平坦な声が出た。
「なら、その時はその時ね」
「雫さん」
「逃げないわ。もう、逃げる場所もないもの」
カップを彼の前に置く。
「それに——」
私は微かに笑った。
「私のコーヒーを飲んだ客は、みんな虜になるの。たとえそれが、私を陥れた張本人でもね」
蓮司は目を見開いた。
それから、ゆっくりと表情を緩めた。
「……強いですね、貴女は」
「強くなるしかなかったの」
私はカウンターに戻った。
「五年前の私は、泣いていただけだった。誰かに助けてほしかった。でも誰も来なかった」
「——僕は」
「ええ、あなたは見ていてくれた。それだけで、少し救われたわ」
振り返り、彼を見つめる。
「だから、ありがとう」
蓮司は——泣きそうな顔で、微笑んだ。
「僕は」
彼はカップを両手で包み、呟いた。
「僕も、ずっと孤独でした」
「……え?」
「兄に比べて、才能がないと言われ続けた。母には無視され、父には期待されなかった」
碧眼が、遠くを見つめる。
「唯一、僕を見てくれたのは祖母だけでした。でも三年前に亡くなって——」
彼は息をついた。
「それから、ずっと独りだった」
私は何も言えなかった。
公爵家の次男。華やかな家柄。何不自由ない暮らし。
その内側に、こんな孤独があったなんて。
「五年前、庭園で貴女を見た時——」
蓮司は顔を上げた。
「同じだと思った。孤独で、誰にも理解されなくて、でも泣くことしかできない」
「……」
「だから、探した。貴女に会いたかった」
碧眼が、まっすぐに私を見つめる。
「貴女といると、独りじゃないと思える」
胸の奥で、何かが弾けた。
涙が、頬を伝っていた。
「……泣かないでください」
「あなたのせいよ」
私は袖で目元を拭った。
「こんなこと言われたら、泣くに決まってるでしょう」
「すみません」
「謝らないで」
深呼吸をする。
「……私も」
「え?」
「私も、あなたといると——」
言葉が続かなかった。
代わりに、私は新しいカップを手に取った。
「もう一杯、淹れるわ」
「……はい」
蓮司が、柔らかく微笑んだ。
その時、入口のドアベルが鳴った。
「すみません、まだやってますか?」
振り返った私は、息を呑んだ。
白髪に深い皺。だが背筋は真っ直ぐ。
老マスター・ゲオルグが、杖をつきながら立っていた。
「マスター……」
「夜更かしは体に悪いと言っただろう、雫」
彼は穏やかに笑った。
「だが——お前には、話しておかねばならんことがある」
視線が、蓮司へ向けられる。
「オルステッドの坊やも、聞いておくといい」
「……僕を、ご存じなのですか」
「お前の祖母と、古い知り合いでな」
蓮司の顔に、驚きが広がった。
ゲオルグは窓際の席へ歩み寄り、腰を下ろした。
「雫。お前の祖父——クレスティア先代伯爵を、覚えているか」
「祖父を……?」
私は戸惑った。祖父は、私が幼い頃に亡くなっている。ほとんど記憶がない。
「彼とは、宮廷で共に働いた仲だ。そして——」
ゲオルグは私を見つめた。深い皺の奥に、優しい光が宿っている。
「お前を助けたのは、彼との約束を果たすためだった」
「約束……」
「『もし、わしの孫が困っていたら、助けてやってくれ』——そう頼まれていた」
胸が、熱くなった。
「お前は一人じゃない、雫」
ゲオルグは穏やかに言った。
「お前の知らないところで、お前を見守っている者がいる。忘れるな」
涙が、また溢れた。
二度も泣くなんて、私らしくない。
けれど——。
「ありがとう、ございます」
掠れた声で、私は頭を下げた。
ゲオルグは満足そうに頷き、蓮司を見た。
「坊や。この娘を、よろしく頼むぞ」
「——はい」
蓮司が、力強く答えた。
「必ず」
深夜二時。閉館のベルが鳴り響く。
けれど今夜は、誰も帰ろうとしなかった。
月明かりが、三人の姿を優しく照らしていた。
◇◇◇
ミレーヌは、眠れない夜を過ごしていた。
「……あの香り」
寝台の上で、彼女は呟いた。
あの深夜の喫茶店で飲んだコーヒー。苦いはずなのに、どこか甘い余韻が残る、不思議な一杯。
そして——あの店員の、話し方。
『ご指摘ありがとうございます。直しておきますわ』
丁寧で、穏やかで、けれどどこか皮肉を含んだ、あの言い回し。
(似ている……誰かに……)
記憶の底を、何かが引っ掻いている。けれど、それが何なのかわからない。
「ミレーヌ」
不機嫌な声が聞こえた。隣の寝室から、夫が顔を覗かせている。
「何度も言わせるな。明日、領地に行く」
「……行ってらっしゃい」
私はついていかない。そう告げると、夫は冷たく鼻を鳴らした。
「どうせお前が来ても役に立たん」
扉が乱暴に閉まる。
残されたミレーヌは、暗い天井を見つめた。
五年前。あの女——雫を追い落とした時、私は勝者になったはずだった。
婚約者を奪い、社交界から追放し、伯爵家を没落させた。すべてが思い通りだった。
なのに——。
(なぜ、こんなに空しいの)
夫は私を愛していない。子どもはできない。領地経営は破綻しかけている。
『お姉様』と呼んで慕っていた彼女が担っていた役割を、私は何一つ果たせていない。
「……あの女さえ、いなければ」
呟いて、はっとした。
あの女はもういない。社交界から消えた。それなのに、まだ彼女の影に怯えている自分がいる。
(馬鹿みたい)
ミレーヌは寝台から起き上がった。
眠れないなら、眠らなければいい。
あの店に、また行こう。あの香りを——あの、心が落ち着く香りを、もう一度。
◇◇◇
午前一時。
ミレーヌは『月灯り』の前に立っていた。
雨が降っている。フードを深く被り、誰にも気づかれないようにして。
(惨めね、子爵夫人ともあろうものが)
けれど、足は止まらなかった。
ドアを開ける。ベルが鳴る。
「いらっしゃいませ——」
柔らかな声。銀灰色の三つ編み。深い紫水晶の瞳。
ミレーヌの心臓が、跳ねた。
(この瞳——知っている)
「窓際のお席でよろしいですか」
店員は穏やかに微笑んだ。
ミレーヌは無言で頷き、席についた。
「ご注文は」
「……前と、同じものを」
「かしこまりました」
店員が背を向ける。その後ろ姿を、ミレーヌは食い入るように見つめた。
(あの歩き方。あの姿勢。まるで……)
——まるで、社交界の令嬢のようだ。
胸がざわつく。
コーヒーが運ばれてきた。立ち上る香りが、鼻腔をくすぐる。
一口、飲んだ。
「っ——」
涙が、溢れた。
なぜ。なぜ泣いているのか、自分でもわからない。
ただ、この味が。この香りが。
(『お姉様、今日も紅茶を淹れてくださいませんか?』)
遠い記憶が、蘇った。
五年前。クレスティア伯爵邸で、彼女が淹れてくれた紅茶。
優しくて、温かくて、心が満たされる味。
『ミレーヌ、あなたには才能があるわ。もっと自信を持って』
彼女は、そう言ってくれた。田舎から出てきた自分を、対等に扱ってくれた。
(私が……奪ったのは……)
「お客様」
顔を上げると、店員が心配そうに見下ろしていた。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫、よ」
ミレーヌは袖で涙を拭った。
「ただ、この味が……昔、誰かに淹れてもらった飲み物を思い出して……」
「そうですか」
店員は静かに微笑んだ。
「良い思い出だったのですね」
「——違うの」
ミレーヌは首を振った。
「良い思い出、なんかじゃない。私は——」
言葉が詰まった。
私は、その人を裏切った。
奪った。追い落とした。傷つけた。
「……ごめんなさい」
気づけば、そう呟いていた。
「え?」
「何でもないわ。独り言よ」
ミレーヌは立ち上がり、代金を置いた。
「また、来ていい?」
「もちろんです。『月灯り』は、帰る場所のない人のための店ですから」
店員の言葉に、ミレーヌは小さく笑った。
「帰る場所、か」
私には、もうそんなものはない。
けれど——この店だけは、受け入れてくれるような気がした。
「おやすみなさい」
「おやすみなさいませ。お気をつけて」
ドアを開け、雨の中に出る。
振り返ると、店の窓から温かな光が漏れていた。
(また、来よう)
そう思った瞬間——。
「あら、ミレーヌじゃない」
背筋が凍った。
振り返ると、傘を差した女性が立っていた。
金茶の髪に、華やかなドレス。オルステッド公爵家の紋章が入った馬車が、すぐ後ろに停まっている。
「こんな時間に、こんな場所で何をしているの?」
レイナードの婚約者——クラリス侯爵令嬢が、嘲笑うように言った。
「まさか、没落令嬢みたいに場末の喫茶店通い?」
「っ——」
「まあいいわ。レイナード様に報告しておくわね。『カルヴィン子爵夫人が、深夜に怪しい店に出入りしている』って」
クラリスは笑いながら馬車に乗り込んだ。
残されたミレーヌは、震えながら立ち尽くしていた。
これで、また噂になる。
社交界での立場が、さらに危うくなる。
(……もう、どうでもいい)
ふと、そう思った。
失うものなど、もう何もない。
雨に打たれながら、ミレーヌは家路についた。
背後で、『月灯り』の看板が、静かに揺れていた。
◇◇◇
「深夜営業の喫茶店、ねえ」
レイナード・ヴァン・オルステッドは、執務室で報告書に目を通していた。
「評判がいいらしいな」
「はい。社交界の方々も、お忍びで通っているとか」
執事の言葉に、レイナードは冷たく笑った。
「面白い。一度、行ってみるか」
「御自ら、ですか」
「気になることがあってな」
書類を置き、窓の外を見つめる。
弟の蓮司が、最近毎晩外出している。行き先は不明。
そして——クラリスからの報告。カルヴィン子爵夫人が、深夜の喫茶店に出入りしていると。
(蓮司とミレーヌ。接点はないはずだ。けれど——)
何かが、引っかかる。
五年前、クレスティア伯爵家を没落させた策略。あの時、すべては計画通りに進んだ。
領地は手に入れた。邪魔な令嬢は消えた。完璧な勝利。
だが——。
(あの女は、どこに消えた)
雫・フォン・クレスティア。社交界で『暁の銀百合』と呼ばれた令嬢。
彼女の行方を、レイナードは追っていなかった。興味がなかったからだ。没落した令嬢など、路傍の石に等しい。
けれど——。
「蓮司は、五年前から誰かを探していたな」
「はい。女性を、とのことでしたが……」
「相手の名は」
「存じ上げません。蓮司様は、誰にも明かされませんでしたので」
レイナードは目を細めた。
五年前。あの夜会で、蓮司が一人の令嬢を見つめていたことを、彼は覚えている。
あれは——。
「馬車を用意しろ」
「今からですか」
「今夜、その喫茶店に行く」
◇◇◇
同じ頃。
『月灯り』では、いつもの夜が始まっていた。
「お姉様、今日は蓮司様、早く来ましたね」
「そうね」
私は苦笑しながら、蓮司の前にコーヒーを置いた。
「今日は、ゲイシャを。華やかな香りが特徴よ」
「ありがとうございます」
蓮司が微笑む。最近、彼の表情は随分柔らかくなった。
(出会った頃は、まるで影のようだったのに)
変化は、私にも訪れていた。
彼がいると、自然と口角が上がる。会話が弾む。閉店後の時間が、待ち遠しくなった。
(これは……何なのかしら)
名前をつけるのが、まだ怖い。
「雫さん」
「何?」
「今日は、月が綺麗です」
窓の外を見ると、確かに満月が輝いていた。
「……そうね」
「こういう夜は、貴女の髪がよく映える」
「っ——」
不意打ちの言葉に、顔が熱くなった。
「何を言っているの、急に」
「思ったことを言っただけです」
「……お世辞なら結構よ」
「お世辞ではありません」
蓮司は真剣な顔で言った。
「僕は——」
その時、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ——」
振り返った私は、凍りついた。
金茶の髪。冷たい灰色の瞳。彫刻のような美貌。
レイナード・ヴァン・オルステッドが、店の入口に立っていた。
「ほう」
彼は店内を見回し、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「噂通りの、良い雰囲気だな」
「兄さん——」
蓮司が立ち上がった。声に、緊張が滲んでいる。
「なぜ、ここに」
「なぜ?弟がこそこそと通っている店を、見に来ただけだ。それとも——隠さねばならない理由でもあるのか?」
「……そういう意味では」
「店員。コーヒーを一杯——」
言葉が、途中で止まった。
灰色の瞳が、わずかに見開かれる。
「……待て」
「はい、何かございましたでしょうか」
私は動けなかった。
五年前、私の人生を壊した男が、目の前にいる。
「お前……その髪。その瞳。どこかで見た覚えがある」
「初めてのご来店ですね。窓際のお席は生憎埋まっております。カウンターでよろしいですか」
(動揺を見せるな。この男の前では、決して)
レイナードの目が、鋭く細まった。
「質問に答えろ。お前、名前は」
「……雫と申します。ただの喫茶店員でございます」
「雫——クレスティア、か」
心臓が、凍りついた。
「あ、あの、お客様!ご注文をお伺いしても——」
セラフィーナが割り込もうとした。
「黙れ、小娘」
「セラフィーナ、下がっていなさい」
私は静かに言った。
「五年前に消えた、あの令嬢。まさか、こんな場末の店に身を窶していたとはな。『暁の銀百合』も、随分と落ちぶれたものだ」
「兄さん……!彼女に何の用ですか」
蓮司が前に出た。
「何の用?決まっている。五年前、俺が追い落とした女が、弟に取り入っているんだ。放っておけるか」
「取り入る——?僕が自分の意思で通っているだけだ。彼女は何も——」
「お前は黙っていろ。昔から、女に騙されやすい性格だからな」
「……っ」
蓮司の拳が、震えている。
「やめてください」
私は静かに言った。
「ほう?口を挟むのか、元令嬢」
「蓮司、座って。……大丈夫よ」
「でも——」
「大丈夫」
私は彼を見つめた。
(五年前の私なら、震えて声も出なかった。けれど今は——)
「オルステッド公爵様。一杯、お淹れしましょうか。当店自慢のブレンドを」
「……何のつもりだ。媚びを売るつもりか」
「いいえ。ただのおもてなしです」
私はカウンターに立ち、豆を選んだ。
「『月灯り』は、すべてのお客様を歓迎いたします」
ゆっくりと、コーヒーを淹れ始める。
「——たとえそれが、私の人生を壊した方であっても」
「……ふん」
レイナードは鼻を鳴らした。
「いいだろう。その減らず口、どこまで続くか見せてもらおう」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
(深煎りのブレンド。苦みの奥に、ほんの少しの甘さを。……この男に、私の味がわかるかしら)
セラフィーナが、怯えた顔で私を見ている。
(お姉様……あの人、目が全然笑ってない。怖い……)
私は彼女に小さく頷き、カップをレイナードの前に置いた。
「お待たせいたしました。どうぞ」
レイナードは疑わしそうに私を見た。それから、カップを手に取った。
一口。
彼の表情が、微かに変わった。
「……悪くない」
「恐れ入ります」
「いや——悪くない、どころではないな」
レイナードはカップを置き、私を見つめた。
灰色の瞳に、奇妙な光が宿る。
「この味……俺は、どこかで——」
「お気に召しましたら、幸いです」
私は一礼し、背を向けた。
(……覚えているはずがない。この男に、私のコーヒーを出したことはないのだから)
けれど——。
五年前の夜会で、私は確かに紅茶を淹れていた。あの庭園で。一人で。
蓮司だけが見ていたと思っていた。
(まさか——)
振り返ると、レイナードは複雑な表情でカップを見つめていた。
「……また来る」
彼は立ち上がり、代金を置いた。
「いい店だ。弟の趣味も、たまには悪くないらしい」
蓮司を一瞥し、レイナードは店を出ようとした。
「——だが、覚えておけ。元クレスティア令嬢」
「……」
「お前がどこに隠れようと、俺の手の届かない場所などない」
「ええ、存じております」
私は微笑んだ。
「——けれど私は、もう逃げませんわ」
レイナードの目が、わずかに見開かれた。
「……面白い女だ」
彼は低く笑い、店を出ていった。
残された店内に、沈黙が落ちる。
「雫さん……!大丈夫ですか」
蓮司が駆け寄ってきた。
「……ええ。思っていたより、大丈夫だったわ」
「お姉様……手、震えてます」
セラフィーナが、涙目で私の手を握った。
「あら、本当ね。……困ったわ」
私は苦笑した。
「怖かったです。貴女が、連れていかれるんじゃないかと」
蓮司の声が、震えている。
「……大袈裟ね」
「大袈裟ではありません。僕は——」
「蓮司」
「……はい」
「私はもう、逃げないわ。五年前とは違う。だから——」
私は彼を見つめた。
「あなたも、そんな顔をしないで」
蓮司の碧眼が、潤んでいた。
「……僕も、ここにいます」
彼の手が、私の手を包んだ。
「何があっても。貴女の隣に」
胸が、熱くなった。
「……ありがとう」
セラフィーナが、後ろで何か言っている。
(わあ……これ、絶対いい雰囲気だ……!でも今は黙ってよう……)
私は思わず笑ってしまった。
「さあ、閉店の準備をしましょう。もう二時よ」
「手伝います」
「公爵家の次男に、皿洗いをさせるわけにはいかないと、何度言ったかしら」
「何度言われても、聞きません」
「……頑固ね」
「貴女には言われたくありません」
「あはは!蓮司様、お姉様に言い返せるようになりましたね!」
セラフィーナが笑った。
「セラフィーナ、あなたは奥の片付けを」
「はーい!……ふふ、お幸せにー」
「……あの子は」
私は溜息をついた。
「良い子ですね」
蓮司が、柔らかく笑った。
「ええ。……ええ、本当に」
私は窓の外を見つめた。
満月は雲に隠れ、やがてまた顔を覗かせた。
(嵐が来る。けれど——私は、もう独りではない)
◇◇◇
それから一週間。
レイナードは、宣言通り毎晩店に現れた。
「今日も、同じものを」
「かしこまりました」
私は淡々とコーヒーを淹れる。
不思議なことに、彼は私を追い詰めるような言動をしなかった。ただ静かにコーヒーを飲み、時折私を観察するような視線を向けるだけ。
「兄さんの様子が、おかしい」
蓮司が、困惑した顔で言った。
「家でも、ずっと何か考え込んでいる。婚約者のクラリスを無視することも増えたと」
「……そう」
私は無表情を保った。
(この男が、何を考えているのかわからない)
レイナードは、私を陥れた張本人だ。今さら何を企んでいるのか。
けれど——。
「……この味は」
ある夜、レイナードが呟いた。
「何か、思い出すものがある。けれど、それが何か——」
彼は眉根を寄せた。
「五年前の夜会で、庭園から香りが漂ってきた。誰かが、紅茶を淹れていた」
私の手が、止まった。
「あの香りと、同じだ」
レイナードは私を見た。灰色の瞳に、複雑な感情が渦巻いている。
「あの時、俺は——」
彼は言葉を切った。
「……いや、何でもない」
カップを空にして、代金を置く。
「また来る」
「お待ちしております」
彼が去った後、蓮司が私の傍に来た。
「雫さん」
「……何かしら」
「兄は——五年前の夜会で、貴女を見ていたのかもしれない」
「……どういうこと」
「あの夜、兄も庭園の近くにいた。僕が貴女を見つけた時、兄が反対側から歩いてくるのが見えた」
私は息を呑んだ。
「まさか——」
「確証はありません。けれど——」
蓮司は複雑な表情で続けた。
「兄が貴女に執着する理由が、それなら説明がつく」
私は窓の外を見た。
夜空には、雲間から月が顔を覗かせている。
(あの夜、私を見ていたのは蓮司だけではなかった——?)
答えは、まだ見えない。
◇◇◇
転機は、一ヶ月後に訪れた。
「雫」
その夜、ゲオルグが店を訪れた。
「客が来る。大切な話があると」
「客、ですか」
「ああ。——お前の、母上だ」
私の世界が、揺れた。
「母が——」
「勘当を解く気はないと言っているが、話を聞いてほしいと」
ゲオルグは穏やかに言った。
「お前が決めることだ。会いたくなければ、断ってもいい」
私は深く息を吸った。
五年間、一度も連絡をくれなかった母。私を見捨てた家族。
会いたくない。会う理由がない。
けれど——。
「……会います」
「雫さん」
蓮司が、心配そうに私を見た。
「大丈夫。もう、逃げないって決めたから」
私は微笑んだ。
「過去と、向き合う時が来たのよ」
◇◇◇
翌日の深夜。
店には、見慣れない女性が座っていた。
銀灰色の髪——私と同じ色。けれど、今は白髪が混じっている。深い皺が刻まれた顔。痩せ細った体。
「……雫」
母は、震える声で私の名を呼んだ。
「お久しぶりです、母上」
私は感情を押し殺して答えた。
「五年ぶりですね」
「雫、私は——」
「コーヒーをお淹れしますか。それとも、紅茶がよろしいですか」
「……雫」
母の目から、涙が溢れた。
「ごめんなさい」
私の手が、止まった。
「あの時、お前を守れなかった。父上の決定に、逆らえなかった」
「……」
「お前が家を出た後、私はずっと——」
母は嗚咽を漏らした。
「お前を探していた。けれど、見つからなくて——」
「探していた?」
私は冷たく言った。
「では、なぜ五年間も連絡をくださらなかったのです」
「お前の居場所が、わからなかったの。それに——」
母は俯いた。
「父上が、お前の話をすることを禁じていた。お前の名を口にすることさえ——」
「……父上が」
「先月、父上が亡くなった」
私は息を呑んだ。
「伯爵家は、もう終わりよ。領地は売られ、屋敷は没収された。私に残されたのは、この体ひとつ」
母は顔を上げた。
「お前に、会いたかった。ただ、それだけ——」
私は何も言えなかった。
怒りも、悲しみも、入り混じって、形にならない。
「……お姉様」
セラフィーナが、そっと私の背中に手を当てた。
「お姉様の気持ちは、お姉様が決めていいんです」
蓮司も、静かに頷いた。
私は深く息を吸った。
「母上」
「……はい」
「一杯、お淹れします」
私はカウンターに立った。
「私の答えは、その一杯で伝えます」
母は、静かに頷いた。
ゆっくりと、コーヒーを淹れる。
五年間の孤独。五年間の苦しみ。五年間の——。
(けれど、五年間の成長もあった)
私は今、ここに立っている。
誰にも頼らず、自分の足で。
カップを母の前に置いた。
「どうぞ」
母は震える手でカップを持ち、一口飲んだ。
「——っ」
彼女の目から、新たな涙が溢れた。
「この味……お前がまだ家にいた頃、淹れてくれた紅茶と同じ……」
「覚えていますか」
「忘れたことなど、一度もないわ」
母は泣きながら笑った。
「お前は、こんなに立派になって——」
「母上」
私は静かに言った。
「許す、とは言えません。まだ」
「……ええ」
「けれど——」
私は微笑んだ。
「また、来てください。『月灯り』は、帰る場所のない人のための店ですから」
母は、声を上げて泣いた。
私の頬にも、涙が伝っていた。
窓の外、夜明けの光が差し込み始めていた。
◇◇◇
一年後。
『月灯り』は、街で一番の評判の店になっていた。
深夜だけの営業は変わらない。けれど、客足は絶えない。
「お姉様、今日も満席です!」
セラフィーナが嬉しそうに報告する。
「そうね。ありがたいことだわ」
私はカウンターに立ち、コーヒーを淹れ続ける。
店の隅には、見慣れた顔がある。
蓮司。私の——婚約者。
一年前、彼は公爵家を出た。家督も、財産も捨てて。
『貴女の隣に立つために、俺は何も要らない』
そう言って、彼は私の傍に来た。
今では、店の経営を手伝ってくれている。相変わらず皿洗いも厭わない、不思議な男だ。
「雫さん」
「何?」
「今日の月も、綺麗ですね」
「……相変わらず、唐突ね」
「貴女といると、そうなるようです」
私は笑った。
一年前とは違う、自然な笑みが浮かぶ。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ——」
振り返ると、見覚えのある顔があった。
ミレーヌ。
一年間、彼女は毎週のように店に通ってきた。最初は気まずそうに、けれど次第に——。
「雫様」
彼女は私を、『様』付けで呼ぶようになっていた。
「いつもの席でいいわ」
「……ありがとうございます」
ミレーヌは窓際の席に座った。
半年前、彼女は離縁した。カルヴィン子爵との結婚生活は、完全に破綻していた。
今は、小さな仕立て屋で働いている。かつての華やかな令嬢の面影はない。けれど——。
「雫様。今日も、美味しいです」
コーヒーを飲んだ彼女は、穏やかに微笑んだ。
「……よかった」
私も、微笑み返した。
許したわけではない。許せるはずがない。
けれど——彼女もまた、傷つき、学び、変わろうとしている。
それを見守ることは、できる。
「お姉様」
セラフィーナが、私の袖を引いた。
「あの人、また来ましたよ」
入口に、レイナードが立っていた。
一年前と変わらない、冷たい美貌。けれど、その瞳には——。
「いつもの席を」
「かしこまりました」
私は淡々と答えた。
レイナードは、半年前から態度が変わっていた。
私を陥れたことへの——後悔、とまでは言わない。けれど、何か、複雑な感情を抱えているようだった。
「今日も、同じものを」
「はい」
コーヒーを淹れながら、私は思う。
この男を許すことは、一生ないだろう。
けれど——私は、もう囚われていない。
過去の傷は消えない。けれど、それを抱えたまま、前に進むことはできる。
「——雫」
レイナードが、珍しく私の名を呼んだ。
「何でしょうか」
「……いや」
彼は言葉を呑み込んだ。
「また来る」
「お待ちしております」
彼が去った後、蓮司が傍に来た。
「大丈夫ですか」
「ええ」
私は微笑んだ。
「もう、大丈夫よ」
◇◇◇
午前二時。
閉館のベルが鳴り響く。
最後の客が帰り、店内には私と蓮司、セラフィーナだけが残された。
「今日もお疲れ様でした、お姉様」
「あなたもね、セラフィーナ」
「えへへ」
彼女は奥の部屋へ消えていった。
残された私たちは、窓際の席に並んで座った。
「雫さん」
「何?」
「幸せですか」
唐突な質問に、私は目を瞬かせた。
「……どうして、そんなことを聞くの」
「知りたいからです」
蓮司は真剣な顔で私を見つめた。
「五年前、貴女は泣いていた。誰にも気づかれない涙を」
「……ええ」
「今は、どうですか」
私は窓の外を見た。
夜空には、満月が輝いている。
五年前のあの夜と、同じ月。
けれど——。
「泣いていないわ」
私は微笑んだ。
「今は、もう」
蓮司の手が、そっと私の手を包んだ。
「……よかった」
彼の声が、優しく響いた。
「僕も、幸せです」
「そう」
私は彼の肩に頭を預けた。
窓の外、月明かりが優しく降り注いでいる。
『月灯り』——帰る場所のない人のための店。
けれど今、私には帰る場所がある。
この店が。この人が。
「蓮司」
「はい」
「ありがとう」
「……こちらこそ」
閉館のベルの余韻が、静かに消えていく。
深夜二時。『月灯り』の夜が終わる。
——そして、私たちの新しい朝が始まる。
【完】




