9高校三冠へ
職員室に入ると、空気が違った。
体育館の汗とゴムの匂いじゃない。コピー用紙の乾いた匂いと、古いワックスと、微妙に苦いコーヒー。
扇風機が「カタ…カタ…」と首を振る音が、やけに大きく聞こえる。
俺と岩瀬は並んで、監督の机の前に立っていた。
立ってるだけなのに、妙に背筋が伸びる。
こういう場所って、体が勝手に“生徒モード”に戻る。
「おい。岩瀬。葵。片付け終わったら職員室に二人で来いよ」
さっきコートで言われた通り。
結局、逃げられない。
監督は椅子に腰を下ろしたまま、机の端を指でコツコツ鳴らしている。
目が合わない。
目が合わないのに、こっちの様子は見てる。
気まずさを隠しきれない顔だ。
「……おう。葵。岩瀬。まぁ、なんだ。さっきの話の続きだ」
まあ。気まずいだろうな。
でも俺はもう大丈夫だ。
一回、落ちるところまで落ちた。だから今はもう、認めてる。
というか——岩瀬のことは前から認めてた。
俺がライトウィング。岩瀬がレフトウィング。
このチームの両翼は、ずっと二人で回してきた。
夏の大会で岩瀬の出番は少なかった。けど、控えの時間も腐らずに、出たらちゃんと結果を残してた。
……ちなみに俺はレギュラーだ。
一年の頃からずっと。
虚しいぜ。
監督が咳払いをひとつして、やたら真面目な声を出した。
「それでだ。俺が葵をキャプテンに選ばなかった理由を話す」
おい。いきなりか。
まあ、そっちの方が楽に死ねる。
来い。
なるべく痛くないように殺してくれ。
監督は、俺の顔をまっすぐ見た。
「葵。お前はキャプテンの素質もある。正直この学校じゃ、お前が一番上手い。三年も含めてな」
……うん。
「それに頭もいい。今回、期末13位だったろ。国体の富山代表にも選ばれてる。俺から言わせりゃ、お前は超人だよ」
超人。最強。
プロレスに転向しようかな。
ハンドボール超人とか。
監督は一呼吸置いて、続けた。
「岩瀬とも何度も話したし、こいつも“キャプテンは葵がいい”って言ってた。立候補したわけじゃない。決めたのは俺とコーチ、それから校長の意見も入ってる」
頭の中で返事が渋滞する。
「じゃあなんで?」って言いたい。
でも言えねぇ。
言った瞬間、俺の負け犬っぽさが確定する。
そもそも俺は、“キャプテンになりたい”ってより——
「どうせ俺だろ」って勝手に思ってただけだ。
肩の荷が降りたのも、正直ある。
岩瀬が言いにくそうに眉を寄せた。
「葵、お前さ……家族のこともあるだろ?」
その瞬間だった。
「それは違う」
俺はすぐに言葉を被せる。
「妹は関係ない。俺は妹のためにハンドボールやってるって言っていい。妹が選んでくれたスポーツがハンドボールだ。家族が理由で集中できないなんてこと、生きてて一度もない。これからもそうだ。」
言い切ってから、息を吸った。
なんで俺、こんなに必死なんだ。
でも、ここだけは譲れない。
岩瀬が両手を握りしめて、なぜか燃えていた。
「葵……お前、カッコよすぎだろ……」
熱い。うるさい。
しかも岩瀬、普段モード用の眼鏡までキラキラ光って、こっちに反射してくる。
なんだその光線。やめろ。
監督も、妙に誇らしげに胸を張った。
「あはは……すげぇな、葵は。そうか。お前はカッコいいわ」
いや、そこで胸をはるな。お前の手柄じゃねぇ。
監督は笑いを引っ込めて、今度こそ真面目な顔に戻った。
机の指叩きも止まる。
「……いいか。もうごまかさない。ちゃんと聞いてくれ」
空気が、少しだけ重くなる。
「これからお前は、選抜に呼ばれて練習が増える。多分だけど、ちょくちょく冰渼ノ江高校にも行くだろ」
監督の声が淡々としている。
淡々としてるから、現実味が増す。
「それに、お前は頭もいい。正直言えば、東大だって狙えるポテンシャルがある」
……飛躍すんなよ。
でも、否定もしづらい温度で言ってくるのが腹立つ。
はっきり言おう。東大は無理だ。
「家族のことで心配してる、ってのも本音だ。今のお前なら大丈夫だと分かってても、“もし”があるのが家族だろ」
監督は、そこだけ少しだけ声が柔らかい。
「そして一番の理由は——お前が高岡伏木のコートに“毎日いる”存在じゃなくなるってことだ。」
言葉が刺さる。
痛いのに、正しい。
「だからこのチームを“毎日”回せる人間に任せたかった。真面目で、実力があって、成績もある程度残してる。岩瀬はそういうやつだ」
監督は岩瀬に視線を向ける。
岩瀬は背筋を固めて、うなずいた。
「お前を外したのは、“落とした”んじゃない。“上に行かせる”ためだ。キャプテンって役は、責任のぶん、縛りが増える」
監督は俺を見る。
「葵には、もっと高いところを目指してほしかった。だから外れてもらった。……これが本音だ。納得してくれるか?」
俺は一度、喉の奥を鳴らした。
悔しいのは残ってる。
でも、理由が分かった今なら——飲める。
「……まあ。別に本当に何とも思ってませんし」
強がりが、口から先に出る。
こういうとき、俺は大人になれない。
「岩瀬のことは認めてます。こいつなら大丈夫です」
岩瀬が、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
監督が大きく息を吐いて、笑った。
「葵。ありがとう。俺が部員の面倒は見る。お前は国体で暴れてこい。レギュラー取れよ、いいか?」
岩瀬も、つられるみたいに拳を握った。
「この国体で優勝したら、冰渼ノ江は高校三冠を2回するってことになる。そんな最強の面子に選ばれてるんだぞ。つまり、お前はプロだって狙える。日本代表だって——」
はいはい。出た。でかい話。
暑苦しい。
でも、悪い気分はしないのが悔しい。
ただ、俺はそこで浮かれない。
プロとか日本代表とか、正直興味ない。
俺のモチベは、別のところにある。
妹が応援に来るか来ないか。
それだけで、俺の心は簡単に上下する。
……きもいとか言わせねぇから。
生まれて初めての言葉が「お兄ちゃん」だったんだ。
その身にもなってみろ。
愛せずにはいられねぇ。
俺は小さく頷いた。
それだけで十分だと思った。
「……はい。国体も頑張ります」
監督が満足そうに笑って、岩瀬の肩をバンと叩いた。
岩瀬も「っす!」って返す。
職員室の扇風機が、相変わらずカタカタ鳴っている。
でもさっきより、その音がうるさく感じない。
——俺の戦いは、まだ終わってない。




