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8元気の芽生

「おい。岩瀬。葵。片付けが終わったら職員室に二人で来てくれるか?」


監督はそう言い残して、コートの端を横切り、シューズのキュッという音を響かせながら出ていった。

体育館の天井から声が遅れて返ってくる。監督の背中だけがやけに小さく見えた。


――あー。あれだ。

気まずい話ね。


岩瀬が俺の方へ近づいてきた。汗で濡れた前髪を指で払って、いつもの笑顔を作ろうとしてるのに、目が笑ってない。表情が「気まずい」って書いてある。


「葵。ちゃんとした話だ。俺も今の気持ちはそこで話す。……とりあえず、あとでな。」


そう言って岩瀬は、軽く俺の肩を叩いた。

叩かれたところが、冷たいのに、熱い。変な感覚。


「おうっ!お前よ、そんな顔すんなって。別にキャプテンとか、俺はこだわってねぇからよ。」

口は勝手に回る。

“こだわってない”って言葉ほど、嘘くさい言葉もないのに。

でも言わないと、喉の奥が潰れそうだった。


「俺たちが強くなれるって選択が、お前だっただけだろ。俺はついてく。全国目指すんだろ?一緒に頑張ろうぜ!」

言い切って、俺は自分の声の明るさに少しだけ驚いた。

俺、こんなに元気な声出せるんだな。

悔しいのに。


岩瀬は少し眉を寄せて、息を吐いた。


「だから、職員室で俺の意見話すって。ここでお前の意見とか聞いても、俺も話せねぇの。……早く片付け終わらせようぜ」


「おうっ!!わかった!」

俺は勢いで返しながら、視線を床に落とした。


……気を使われてる。

俺に。

分かる。分かるから余計にキツい。


ふと顔を上げると、一年の部員や同級生たちが、チラチラとこっちを見ていた。

露骨じゃない。だから余計に分かる。

「葵、どうするんだろ」

「大丈夫なのか」

「怒ってないのか」

そんな目だ。


俺は何もなかったみたいに、ネットを畳んだ。

ボールカゴを押した。

ラインテープを剥がして丸めた。

指先に松ヤニが絡んで、べたっとした感触が残る。いくら汗を拭いても取れない、嫌な粘りだ。


はは。

笑える。



片付けが一段落すると、俺は松ヤニを落とすために外へ出た。

体育館裏の水道。コンクリの床は日中の熱を抱えたままで、近づくとむわっとした空気が上がってくる。


蛇口を捻ると、水が勢いよく落ちて、金属の音が響いた。

夏の水道水は冷たすぎない。ぬるいのに、それでも気持ちいい。

俺はタオルを濡らして、指先を拭いた。松ヤニが少しずつ溶けて、黒っぽい筋になって流れていく。


そのとき――影が落ちた。


「あれ?葵じゃん。部活か?休憩?それとも終わったの?」


顔を上げると、そこにいたのは鮎野楓。

先日、俺の家に初めて来た女。

制服姿で、日差しの中に立ってるだけで、やたら目立つ。髪が光を拾って、汗ひとつない顔をしてる。こいつだけ別の季節を生きてんのか。


「あ?なんでお前もいるの?夏休みだろ」


「は?補修だけど。ビリなんだから。当然でしょ?」

言い切って、楓は胸を張った。

自慢げに“ビリ”を誇るやつ初めて見た。

高岡伏木高校のカースト上位が、堂々と馬鹿をひけらかしている。


「そ、そうだな。しっかり勉強しろよ?留年とか勘弁しろ」


「なにー?心配してくれてんの?」

楓はニヤっと笑って、すぐに距離を詰めてくる。


「じゃ、いつ勉強教えてもらおっかな。次は?いつ葵の家に行けるの?」


……こいつ。

“次”って言った。

もう約束が決まってるみたいな言い方をするな。

今の俺のメンタルに、それは結構くる。普通に返せる気がしない。


「なんで俺の家なんだよ」


「じゃあ私の家でいいならいいけど」


……行けるわけねぇだろ。

でも。このメンタルヘルス。

そこに行ったら治る気もする。いや、治るというより――崩壊するか。


「い、行かねぇっつうの」


「なんだよー。どうせ女の子の家に入ったことないんだろ?いいじゃん。そういうの、今のうちに経験しとけよ」

できるもんならしてぇよ。その経験。今すぐ!


「大体、今練習忙しいし。国体も控えてるから。そんな暇ねぇの」


口ではそう言いながら、頭の中は別のことを考えてる。

暇?作る。

国体?もちろん大事。

でも“女子の家に入る初体験”って響き、破壊力強すぎだろ。


「あっそ。そりゃ仕方ないか」

楓は少し唇を尖らせて、すぐに切り替えた。


「んで国体って?そんなのあったっけ?」


「選抜だよ。今年、選ばれたのよ。」


俺はタオルを思いっきり絞った。水が細い滝みたいに落ちる。

そのまま、話を終わらせるつもりで身体を反転させる。


「えっ!葵って選抜なのっ!?選ばれた選手なの!?」


楓の声が一段跳ねた。

目が一気に光る。

こいつ、こういうときだけリアクションが大型犬みたいだ。


「そーだよーっと」


俺はぶっきらぼうに返す。

褒められ慣れてないから、返し方が分からない。


「凄いっ!!凄い凄い凄いっ!!」

楓は本気で喜んでる。

別にお前にメリットなんかないだろうに。

でも、その“ない”喜びが、胸の奥にじわっと染みた。


「どこでやるの!?」


「……金沢」


「近っ!!応援しに行っていいの!?」

――え?応援?お前が?

頭の中で、楓が体育館で手を振ってる絵が浮かんで、すぐに消した。

恥ずかしいから。


「いや、多分平日だぞ。授業あるだろ」


「馬鹿だねー葵は。休むんだよ。そういう時は。欠席って知ってる?」


欠席。

そうか。

そんな選択肢が、この世にあったのか。


「いやお前さ。成績悪いんだから欠席してる暇ねぇだろ」


「いいや?これから頑張れば成績上がるでしょ。頑張っても成績上がらないことなんかあるの?」

くそぉ。

この女、理屈がいつも“勢い”で正解に寄ってくる。

リズムが狂う。


「……そうだな。頑張れば成績は上がる。お前の言う通りだ」


よく分かんねぇけど。

でも、こいつの言葉は、妙に真っ直ぐだ。


「来れるもんなら、来てみろ」


「わかった。じゃあちゃんと教えろよ?帰るわ。じゃあねっ!」


楓は手をひらひら振って、あっさり背中を向けた。

暑いのに、足取りが軽い。

補修帰りのくせに、妙に元気だ。


「おう!またな!」


――教えろよ?


俺、今なんて返事した?


おう、って言った。

反射で。

条件反射で。

負けた直後の男に、そんな約束を取り付けるな。


なんなんだ、あいつ。


俺は蛇口を閉めて、濡れた手をズボンで拭いた。

外の熱気はまだ重い。

でも胸の奥は、さっきより少しだけ軽い。


ふぅ。


……あれ?


俺、元気出てきたかも。

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