5玄関に風音
俺と楓は家の敷地に入ると、自転車を適当に停めて、玄関に向かう。
砂利がタイヤの下で小さく鳴り、夏の夕方の湿気が足元から立ち上ってくる。
家の前は静かだ。近所の家のエアコンの室外機の音と、遠くで鳴くセミの声だけがある。
駐車場に目をやると、車が二台並んでいた。
一台は仕事用の車。
後部座席は車椅子がそのまま入るように改造されていて、床も低く、スロープ用の金具が見える。
もう一台は、白いベンツ――と呼びたいところだが、実態はホンダのフィット。
コンパクトで、無駄がなくて、よく走る。香椎家らしい選択だ。
(あれ?母さん、もう帰ってきてるのか?)
胸の奥が少しだけざわつく。
「へー。綺麗な家じゃんー!頑張ったねー。」
楓は首を軽く傾けて、家全体を見上げていた。
外壁も庭も派手じゃない。ただ、きちんと手入れされているのが分かる。
生活の匂いがする家だ。
「賃貸だぞ?」
俺がそう言うと、楓は一瞬きょとんとして、それからはっとしたように目を伏せた。
「え!!ごめん。」
肩を落とし、声のトーンまで下がる。
謝るんじゃねぇ。
……とは思ったが、口には出さない。
楓がどうして謝ったのか、俺には分かる。
富山は持ち家率74%超えの異常地域だ。
家を建てて一人前。
ローンを背負って一族の一員。
富山県民は、だいたいそんな価値観で生きている。
でも香椎家は違う。
金がないわけじゃない。
ただ、妹の障害の関係で、病院も学校も、場所を転々とする可能性があった。
だったら買うより借りた方がいい。
そういう判断を、うちの親はした。
それで良い。俺の全ては家族だ。一人も抜けて貰っちゃ困る。
ちなみに父さんは、今でも諦めてないらしいけど。
でも俺はもう高校生。
ねむは中学生だ。
……もう、よくね?
この家で。
そんなことを考えながら、俺は早々に鍵を差し込んだ。
「ただいまー。」
玄関に声を投げると、すぐに家の奥から返事が来た。
「おかえりー!!遅かったねー!」
母さんの声。
張りがあって、元気で、少しうるさい。
生きてる家の音だ。
あ。
……待て。
これ、楓のこと母さんに紹介しなきゃならねぇってことじゃね?
一気に胃の奥が重くなる。
チラリと楓を見ると、いつの間にか手鏡を取り出して、前髪を整えていた。
さっきまでの余裕はどこに行ったんだ。
肩が少し内側に入って、立ち方までよそ行きになってる。
やべぇな。
母さんが玄関に迎えに来ない。
いや、別にいつも来るわけじゃないけど。
でも俺が友達――しかも女――を連れてきたって分かったら、心臓止まるんじゃね?
そうじゃなくても、最近の母さんは情緒が不安定だ。
妹の体調が良くなってきて、嬉しくて、怖くて、感情が追いついてない。
「あれー?葵ー?どしたのー?」
ようやくリビングの方から、母さんが顔を覗かせた。
次の瞬間だった。
「おっ!おっ!おっ!おっ!オンナっーーーー!!」
家中に反響する叫び声。
壁が、天井が、床が、全部その単語を跳ね返す。
「えっ!えぇ……」
さすがの楓も完全に固まった。
目を見開いて、俺を見る。
「母さんっ!待ってくれ!」
「オンナっ!オンナっ!!葵が!オンナっ!」
違う。
俺は女じゃない。
「母さんっ!同じクラスの鮎野だ!自転車乗ってきてくれたんだ!」
必死に説明する俺を無視して、母さんのテンションは天井知らずだ。
「葵がっ!!二人乗りっ!!オンナとっ!!」
「違うっ!俺が高岡に自転車忘れたのに、母さんの自転車で取りに行っちゃって!それで鮎野が一緒に乗って家まで来てくれたんだよっ!!」
一息で言い切る。
息が苦しい。
「はーー。なるほどね。」
母さんは腕を組み、少し考えるような顔をしたあと、すっと落ち着いた。
「葵って、そんなバカだったっけ?」
うるさい。
大事な息子がグレてもいいのか。
空気が、ようやく普通に戻る。
「はっ!初めまして!鮎野楓と申しますっ!よろしくお願いしますっ!」
楓は背筋をぴんと伸ばし、深々と頭を下げた。
声も、表情も、完璧な“初対面モード”。
「はいっ!こちらこそっ!香椎麻奈です!」
母さんは一瞬で母親スマイルに切り替わる。
「上がってくでしょ!?おやつ出してあげるー!」
……切り替え早すぎだろ。
香椎麻奈。
俺の母親だ。
顔は俺と結構似ているし、身長も高い。
170センチ。
父さんより高い。
休日はたまにジムで俺と時間が被って、一緒に筋トレする。
要は、距離感バグった仲の良い家族だ。
「楓。上がるぞ。ここで突っ立っててもしょうがねぇし。」
「う、うん。おじゃま、します……」
声が小さい。
さっきまで俺を煽ってた奴とは思えない。
なんだよ。
急に。
玄関に足を踏み入れる二人の影が、夕方の光に少しだけ長く伸びた。




