2二台の虚無
2二台の虚無
くそ。
自分の自転車取りに行くのに、自転車乗ってきちまった。
今、俺の目の前には――母さんの自転車と、俺の自転車が虚しく向き合っている。
どっちも黙ってるくせに、「お前が馬鹿だろ」って言ってる気がする。
いや、実際馬鹿なのは俺だ。
片方は買い物カゴがやたらデカい、母さん仕様の実用車。サドルは低めで、俺が乗ると膝が窮屈になる。
もう片方は俺の相棒。グリップの擦れ具合も、チェーンの鳴き方も、全部“俺の癖”に馴染んでるやつだ。
……で、その二台が並んで、俺だけが真ん中で棒立ち。
ほんと虚しい。
「おーい!葵ー!」
俺の耳に、聞き慣れた女の声が飛び込んできた。
駅の雑音――電車の到着ベル、車の走行音――その上から、やけに通る声。
振り向く前に、誰だか分かる。
おっと、その前に俺の自己紹介だ。
香椎葵。
高岡伏木高校二年。探求科。
ハンドボール部、次期キャプテン。のはず。
前月の期末試験は、なんと13位。あと少しで一桁だ。
すげぇだろ。
……いや、今の状況と釣り合ってねぇのは分かってる。
“次期キャプテン”が“自転車を取りに来て自転車で来る”って、だいぶ終わってる。
でも人間、数字を持ってると心が保てるんだよ。13位って数字が。
「おー!楓どしたの?」
「うんっ!今パスポート入手してたっ!」
パタパタとこっちへ歩いてくるのは、鮎野楓。
同級生で、同じクラスの女子。
名前の由来は富山県民なら絶対知ってる“あいの風とやま鉄道”から取られたらしい。
んまぁ。人それぞれだわな。
近づいてくるだけで分かる。楓は今日も元気だ。
背中まで伸びた艶のあるサラサラヘアーは、光を拾ってやけにきれいに揺れる。ヘアモデルかよってくらい、毛先まで整ってる。
目は猫目っぽいのに鋭さはなくて、黒目が大きい。幼猫みたいな、警戒心が薄い顔。
身長は……160くらいか?俺の肩より少し下。ちょうど、視界の中に収まる高さ。
「何?楓、海外とか行くの?旅行?」
「んーにゃ?いかないよ?カッコよくない!?パスポートっ!」
楓は頬の横に、赤いパスポートをぴたっと当てた。
それだけで“アイテム装備”みたいに見せるの、才能だろ。
しかも何故か、俺に向かって決めポーズまでしてくる。手首の角度が無駄にプロい。
「カッコよくねぇだろ。」
俺は肩を落として、素で呆れた。
駅前でパスポートをドヤ顔で掲げる女子高生。平和すぎて涙出る。
「なーんでよっ!身分証にもなるんだからっ!見る!?写真っ!!超盛ったの!1万円くらい使ったんだけど!」
「は?1万円!?」
声が裏返った。
俺の頭の中では、1万円=シューズ一足、プロテイン数袋、参考書数冊、みたいな換算が勝手に始まってる。
「そーっ!バイト代おかげですっからかんだよぉ!あははは!」
楓は笑いながら、赤いパスポートをわざと俺の視界ギリギリで揺らす。
見せる気あるのかないのか分かんねぇ煽り。
え?パスポートの写真ってそんな高ぇの!?
そもそも写真で1万円って何!?背景に金粉でも撒いたのか!?
「ちょ、見せてみろよ!」
俺は思わず一歩近づいて、カゴの縁に手をついた。
興味半分、ツッコミ半分。いや、正直ちょっとだけ“見たい”が勝ってる。
「いやだよぉー!!」
「なんでだよ。今見る?っつったろ!」
「葵!今からご飯食べに行こ。そしたら見せてやるよ!」
楓はパスポートを背中に隠した。
その動きがやたらスムーズで、まるで手品だ。
しかも前屈みになって、俺の目を覗き込む。飯の誘い方が妙に上手い。犬のしつけかよ。
くそ。こいつ、こんなおっぱい大きかったか?
一年前はそこまでだった気がする……いや、俺が見てなかっただけか?
自転車二台の虚無から、急に現実に引き戻される。
「いやさ。俺、自転車取りに来たんだけどよ。母さんの自転車乗って取りに来ちまったのよ。だから一回家に帰らねぇと…」
……って、適当な理由をつけて断ろうとする俺。
いや、適当じゃない。事実なんだけど、言い訳っぽいのが腹立つ。
ってか女子とご飯なんか行けるかよ。
デートだろ。そんなもん。
「ええー!葵ってもしかして天然?オモローっ!」
楓は笑って、俺の状況を面白がってる。
恥ずかしさが喉元まで上がってきて、俺は咳払いで誤魔化した。
「じゃあさっ!ご飯一緒に食べてくれたら、一緒に乗って帰ってあげるよっ!葵はママの自転車乗って帰る。私は葵の自転車に乗って着いていく。これで一石二鳥。」
楓は指を二本立てて、勝手に“作戦会議の勝利ポーズ”を決めた。
頭の回転が妙に早い。こういう時だけ。
「お前は帰りどおすんだよ。」
「そりゃ夜道は危ないから駅まで送ってよ。」
「今昼だぞ?」
「家にお邪魔するんだからそれくらいになるでしょ。」
……はぁー?だるぅー………。
口ではそう言ってるのに。
俺の胸の奥のどっかが、ほんの少しだけ跳ねた。
心臓が“それ、アリじゃね?”って囁いてる気がする。
くそ。
暑さのせいだ。
8月の北陸の湿気が、俺の判断力を溶かしてるだけだ。
たぶん。




