10女神と全て
帰り道
今日は疲れた。
肉体じゃなくて、感情の方が。
監督と楓のせいで、一日中ジェットコースターに乗ってるみたいだった。上がって、落ちて、また上がって。
最後に変な覚悟を持たされて。
しかも、明後日から状況が変わる。
ほぼ毎日、氷見に通う。
選抜の練習。勝ち残れば十月まで“毎日”だ。
高岡で授業が終わったら、校門の外で母さんと待ち合わせ。
汗の残るシャツのまま車に乗り込み、窓の外に流れる田んぼと住宅地を眺めながら、三十分。
氷見ふれあいスポーツセンター。
体育館の匂い。床のきしみ。ボールの弾む乾いた音。
あの場所が、俺の日常の後半戦になる。
妹の憧れの氷見に、毎日いるのは“お兄ちゃん”の方だ。
……で。
この状況で?
冬の期末を十位以内。
楓の勉強の先生。
小太郎の定期通院。
小太郎の世話。
妹のラノベの感想交換。
妹のジャズ話に付き合う時間。
え?
この状況で?
キャプテンとか言ってられねぇじゃん。
でも、そういうことだ。
監督が俺をキャプテンにしなかった理由、ようやく腹の底で理解した。
俺はたぶん、毎日“チームを回す役”に固定されるより、外で戦って、戻って、また戦って——そういう運命になってる。
……まぁ、いいか。
そう思ってるうちに、家に着いてしまった。
「ただいまー。」
声を投げる。
その瞬間——
「おかえりっ!!葵くんっ!久々ーーっ!!」
ドアの向こうから、爆発みたいな声が返ってきた。
聞いたことのないテンション。
いや、ある。あるけど、うちの家でこのテンションは珍しい。
目の前に立っていたのは——
……まさか。
女神。
芦名ユウさん。
芦名ユウ。妹の友達。
会うたびに思う。人間のデザインって、こんなに盛っていいのか?
栗色の髪は、軽いウェーブがかかっていて、光を拾うたびに柔らかく揺れる。
眉はしっかりしていて、俺より太いのに、形が綺麗に整っている。
そして——瞳は。
右目は深い碧色。
左目は真珠みたいな淡い色。
その奥に、オレンジ色の虹彩が細かく散っているのが、遠目でも分かる。
瞬きひとつで、視界が持っていかれる。
多分だけど、ハーフの女の子。
肌は白くて、陶器みたいに滑らかで——触れたら罰が当たりそうな種類の白さだ。
力が抜けた。
膝の関節が「ここで終わりです」って言ってくる。
凄すぎる。
人外魔境かよ。
「た、ただいま……。どうしてユウさんが、俺の家に?」
声が、情けないくらい弱い。
俺が弱いんじゃない。相手が強すぎる。
ユウさんは満面の笑顔で、真っ直ぐ言った。
「遊びに来ましたーっ!晩ごはん食べて帰るから!それまでよろしくっ!!」
元気。まぶしい。
キラキラしてる。
この人、太陽と仲良いだろ。絶対。
チートだ。
もう死んでもいい、とさえ思えてくる。
楓。
うん。あいつは可愛い。美人だ。スタイルも良い。
できることなら付き合いたい。正直。
でも。
目の前にいる“神”は——
付き合うとかじゃない。
拝みたい。
「ははーー……」
俺は膝をついた。
床の冷たさが、ズボン越しに伝わる。
視界に、ユウさんの足元だけが入る。
「え?なんで?」
ユウさんの声が降ってくる。
でも俺は、今、拝んでるから顔が見えない。
見上げるのが怖い。眩しすぎる。
チョンチョン。
肩に、柔らかい感触が触れた。
小さくて、温かくて、癒しみたいな重み。
【お兄ちゃん。おかえり。】
そう。
俺の全て。
声は出さない。
でも手話と口形と、表情で言葉をくれる。
俺の脳と心は、その言葉をちゃんと受け取れる。
香椎ねむ。
俺の愛する妹だ。
顔を上げると、ねむが少しだけ首を傾けて笑っていた。
その笑顔があるだけで、さっきまでの疲れが、嘘みたいに薄まっていく。
キャプテンになれなくたっていい。
こいつが元気でいてくれれば。
それだけで、俺は何回だって立ち直れる。
……なんか、泣ける。
俺は鼻の奥がツンとするのを誤魔化すみたいに、息を吸った。
玄関の空気が、夕方の匂いと、家の匂いで、やけに優しかった。




