第四十二話 母と王女
夜の底にあった海が、光の衣をまとっていた。朝日が昇り、波間から立ちのぼる蒸気が金に染まる。浮上したばかりの王国は霧の中で息をし、珊瑚と石の塔が海の皮膜を破って顔を出す。崩れかけた街路に光が走り、ぬかるんだ大地が静かに呼吸していた。足元の海泥はまだ温かく、踏みしめるたびに音を立て、潮と鉄と新しい命の匂いが混じり合う。
アステリアはその光景の前で立ち尽くしていた。かつて海底に沈んだ王国が、今、朝の光の中にある。信じがたい現実。胸の奥で拍が共鳴し、鎧の鱗が微かに鳴く。風が吹き抜け、波が割れた。黄金の光が王宮の中央を照らし、そこに――彼女がいた。
母、エイラ。
全身が淡く光を帯び、髪が流れるたびに潮が震える。身体はまだ定まらず、輪郭が揺らめいている。背後では巨大な竜がとぐろを巻き、女王の傍らに頭を垂れていた。その瞳は海を映し、世界の記録者のように動かない。エイラの全身からは無数の透明な糸が伸び、王国の塔や街路、空や風にまで繋がっていた。まるでこの国すべてが、彼女の呼吸とともに鼓動しているようだった。
アステリアは歩き出す。足元の泥がぐじりと鳴り、鎧の裾がぬかるみに沈む。彼女の後ろには、髪から生まれた騎士たちが従っていた。銀青の髪をなびかせ、光を纏った者たち。アステリアはその中を抜け、王宮の階段を登る。
「アステリア……」
その声は潮の奥から届くようだった。エイラが手を差し出す。アステリアは駆け寄り、その手を取る。触れた瞬間、光が二人の間を満たし、母と娘の鼓動がひとつに重なる。
「あなたは、よく耐えた。長い孤独を、よく越えてきたね」
アステリアは涙をこらえきれず、嗄れた声で笑った。
「百回、髪を切ったわ。母上に届くようにって。」
涙が頬を伝い、地に落ちる前に蒸気となって消える。
そのとき、港の方から足音が響いた。泥と海水にまみれた二つの影が、光の中を駆けてくる。アシェルとダリウスだった。
「リアナはどこだ!」
アシェルの叫びが風に裂けた。
「陛下、リアナはどこです! あの子を返してくれ!」
ダリウスの声は震え、怒りと絶望が交じる。騎士たちが二人を制するが、アシェルはなおも抗った。
「なぜだ! 彼女はここに導いたはずだ!」
エイラは静かに二人を見つめた。
「……リアナは、もういない」
その声は海よりも深く、誰の心にも届くほどに静かだった。アシェルが膝をつき、ダリウスが崩れ落ちる。
「なぜ……どうしてだ……」
「彼女は糸となり、私の一部に還った」
エイラは胸に手を当て、拍を打つ。光がその掌の奥で脈打った。
「悲しむことはない。彼女の記憶はここにある。あなたたちと笑った記憶。孤独に泣いた記憶。人を愛した記憶。すべてはこの拍の中に生きている。見なさい――すべては循環の中にある。我らには永遠の別れなどない」
アステリアは涙を拭い、母の前に跪いた。
「母上……私からも、お願いがあります」
エイラは優しく微笑み、娘の腰の宝剣に目を向けた。
「それを、私に」
アステリアは頷き、両手で剣を差し出す。エイラは左手で鞘を、右手で柄を取り、ゆっくりと刀身を抜いた。刃が朝日を受け、七色に光る。鞘を娘に返すと、胸の前で髪を一束集めた。
「見よ、これが私たちの力――そして、約束の証」
刀が滑る。銀青の髪が切り落とされ、空気の中で揺らめく。地に落ちるより早く、髪が光を帯びて脈動を始めた。一本一本の糸が生き物のように動き、形をつくる。波がひとつ寄せ、風が鳴く。それは、ひとりの少女の形を取った。光が収まり、少女が息を吸い込む。
「リアナ!」
アシェルとダリウスの声が重なった。二人は駆け寄り、光の中に膝をつく。少女はゆっくりと目を開いた。銀青の瞳が朝の海を映す。頬に光の雫が伝い、唇がかすかに動いた。
「……ただいま。アシェル。ダリウス。言ったでしょ――必ず戻るって」
アシェルは言葉を失い、ただ笑って上着を脱いで彼女の肩にかけた。
「でも……お前、背がでかくなってないか?」
リアナが微笑む。その笑みは確かに、彼女だった。エイラは剣を下ろし、リアナに微笑んだ。
「あなたは、アンドリア。私の一番目の娘よ。命は失われない。ただ形を変え、世界を織り続けるの」
朝の光が海を満たした。風が吹き抜け、王国の旗がはためく。竜が低く鳴き、海が応えた。女王と王女、そして新たな命が並び立つ。世界は再び、拍を刻み始めていた。




