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星の織りなす物語 ACHERON  作者: 白絹 羨
第五章 再織

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第四十一話 浮上の地鳴り

 空の色が変わっていた。夜とも昼ともつかぬ曙光が、水平線の向こうで波の皮膜を照らす。アステリアは神殿の外縁、白い石の階段に膝をつき、両の掌を海に向けていた。鱗の鎧が拍に合わせて微かに鳴る。潮の匂いが濃く、風は塩と鉄の気配を運んでくる。胸の奥で、母の鼓動が確かに響いていた。それはもう記憶ではない。海の底から届く、目覚めの合図。

 アステリアは目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。息を吸うたびに空気が青く変わり、吐くたびに波が小刻みに震える。掌を海面にかざし、(ひたい)()れる。祈りの言葉はなかった。ただ、拍があった。母から受け継いだ鼓動の言語が、体内で鳴り始める。胸骨が共鳴し、海と脈を合わせる。――拍、三度。

 その瞬間、海が応えた。湾の中央に泡柱が立ち、白い渦が広がる。渦の底で、何かがゆっくりと動き始めていた。海底が揺れ、低い音が空を震わせる。地鳴りが海を渡り、陸を揺らす。神殿の柱が唸りを上げ、砂が崩れる。アステリアの瞳が開かれた。そこには恐怖ではなく、歓喜が宿っていた。


「――帰ってくる」


 その言葉が風に乗ると、海が裂けた。光の帯が海面を貫き、泡の壁を破って上昇する。海底の奥から、ひとつの大陸が息を吹き返したかのように隆起していく。砂が宙を舞い、魚群(ぎょぐん)が逃げ、波が逆巻く。海水が吸い上げられ、空を撫でるように渦を描く。地上の人々はただその光景を眺め、祈りと恐怖の区別もつかないまま膝を折った。

 一方、沖合。アシェルの船は海流に翻弄されていた。海底の隆起が押し上げた水塊が波となり、船体を持ち上げ、沖へ押し流していく。舵も効かず、機材が軋み、甲板を潮が覆う。クルーたちは転覆を防ぐためロープを握り、叫び合う。

 アシェルはその混乱の中、双眼鏡を手に取った。泡の間に、ひとつの影が見えた。心臓が跳ねる。


「……人だ!」


 アシェルは叫び、クルーにロープを投げる。海中から引き上げられたのは、ダリウスだった。顔は蒼白で、スーツは破れ、酸素残量はゼロ。だがまだ意識があった。彼の腕には、ボンベとカメラ、そしてリアナのスーツの抜け殻が抱えられている。カメラのランプが一瞬だけ光り、消えた。


「ダリウス! おい、リアナは⁉ リアナはどこだ!」


 怒鳴り声が海の音にかき消される。アシェルはダリウスの肩を掴み、濡れた顔を覗き込む。


「答えろ! 彼女は――!」


 ダリウスは荒い息の合間に、かすれた声で言った。


「……見た……彼女は……海になった……」


 アシェルの目が見開かれる。波しぶきが頬を叩き、彼の叫びは再び海に飲まれた。その言葉が途切れるのと同時に、海底の隆起が直撃した。船体が浮き上がり、激しい傾斜の中で舵が(くう)を切る。


「波が来るぞ!」


 クルーの叫びが轟き、誰もが持ち場を離れ、甲板を駆ける。機材が転がり、カメラが滑り落ちる。アシェルは拾おうとしたが、波に奪われた。記録する余裕など、誰にもなかった。 前方では、湾の中央が盛り上がっていく――。巨大な泡の山が裂け、光の柱が天を貫く。津波が押し寄せていた。アシェルは短く息を吸い込み、叫んだ。


「船首を立てろ! 横倒しになるぞ!」


 恐怖と興奮の境で声が震える。クルーたちは必死に舵を取るが、(なみ)の力は船を完全に飲み込み、沖へ押し出していく。泡の壁が船体を包み、視界が白に埋まる。海が天と地の境を失い、ただ光の渦の中で揺れていた。その霧の中心で、何かが光っていた。


「……あれを、見ろ……!」


 誰かが指を差す。光柱(こうちゅう)の中、影が浮かんでいた。ゆっくりと、優雅に、空へと昇るひとりの女。長い髪が光をまとう。身体(からだ)の輪郭は銀青(ぎんせい)に輝き、鱗が陽光を返す。(つの)を持ち、瞼を開き、海と空を見渡すその姿は――ドラゴン女王。伝説に記された、竜の娘であり、王国の母だった。

 彼女の周囲に無数の光の糸が走り、海と空を繋ぐ。糸の一つひとつに、小さな泡が結ばれている。それは消えていった命、忘れられた記憶、失われた声。女王はそれらを抱くように腕を広げ、拍を鳴らした。

 その音が、地上にも届いた。大地が共鳴し、山が唸る。潮が引き、海鳥が一斉に飛び立つ。湾の両岸にいた(もの)たちは、ただ立ち尽くすしかなかった。神話が現実を侵食する。海が言葉を取り戻し、世界が再び書き換えられていく。

 アステリアは波の向こうにその姿を見た。母が、空と海の境から現実の光の中に立っている。目と目が合った瞬間、拍がひとつ。海が、再び息をした。


「母上……」


 声が震えた。涙が頬を伝い、鎧の鱗の隙間で光った。その拍が呼応し、海上の光柱(こうちゅう)が静かに沈み始める。波は収まり、風が凪いでいく。だが世界はもう、(もと)の形ではなかった。海底の王国が姿を取り戻し、珊瑚の塔が陽光を受けて輝いている。人々は言葉を失い、ただ見つめる。

 アシェルは震える手でカメラを拾い上げたが、レンズは割れ、塩水(しおみず)に満たされていた。彼はシャッターに指を置きかけて、やめた。もう記録するまでもない。この光景そのものが、神話の証だった。

 光が海面に散り、波に反射して空を照らす。世界は新しい光で満ちていた。

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