第四十話 糸の帰還
海は、呼吸を取り戻していた。祭壇を包んでいた光はゆっくりと広がり、珊瑚の枝のひとつひとつに新しい鼓動を与えている。光は糸となり、流れとなり、やがて神殿の壁面へと染み渡った。古い石の文様が再び脈動を始め、その拍が海全体へ伝わっていく。リアナの身体がほどけていった場所から、銀青の糸が幾重にも伸び、まるで織り機のように空間を結び直していた。光はもうひとつの呼吸の形となり、海そのものが息をしているようだった。
ダリウスは祭壇の傍らで、浮遊する残骸を見つめていた。リアナが着ていたスーツ、浮力ベルト、ボンベ、そして防水カメラ。どれも海の流れにゆるやかに揺れている。彼はそれらをひとつずつ抱き寄せた。金属の冷たさが手袋越しに伝わり、胸の奥の空洞に重みが戻る。ヘッドライトの光が機材に反射し、短い光の粒が漂う。それはまるで、リアナがまだそこにいるかのようだった。彼は喉の奥で名を呼ぼうとしたが、声は出ない。泡が喉から上がり、頬を伝って消える。
そのとき、海が震えた。深く、ゆるやかに。海底から上昇する光の帯が、祭壇を中心に円を描く。珊瑚の女の身体が、ゆっくりと息を吹き返していた。閉じられていた瞼が開き、銀青の鱗が光を返す。髪が揺れ、無数の泡がその中に漂う。唇が動き、声なき声が水を震わせた。
――あなたは、最初の海の記憶。
その言葉が響いた瞬間、ダリウスの全身に電流のような感覚が走った。リアナの言葉が、反転して海を渡ってきたのだ。あの母の声と同じ響き、けれど今度は人間の口からではなく、海そのものから発せられている。女はゆっくりと体を起こし、光の糸を手に取る。その糸はリアナの髪だった。海水の流れに沿って揺れ、彼女の指先に絡まる。指がわずかに震えると、糸が応えるように光り、拍が再び鳴り始めた。海の心臓が再起動したのだ。
神殿の外では、巨大な地鳴りが起きていた。砂の層が崩れ、珊瑚礁が立ち上がり、王国の輪郭がゆっくりと再構築されていく。崩壊ではなく、結び直しの音。海底の裂け目からは光の流れが噴き上がり、それが糸となって海の表層へと昇っていく。まるで、千の織り糸が海と空を縫い合わせているようだった。
遠く離れた海上の神殿では、アステリアが祈りの姿勢で立っていた。甲冑の表面が淡く光り、鱗が拍に合わせて鳴る。彼女は目を閉じ、何かを感じ取った。胸の奥が熱くなり、喉が震える。風が変わった。潮が逆巻く。そのすべてが告げている――母が、目を覚ましたのだ。アステリアの瞳から一粒の涙が浮かび、頬を滑り落ちる。それは海へと還り、波に飲まれて消えた。
ダリウスは、目の前の光景をただ見つめていた。恐れも悲しみも、もはや彼の中にはなかった。ただ、理解があった。リアナは消えたのではない。還ったのだ。糸となり、光となり、拍としてこの海に織り込まれた。彼は腕の中のカメラを見つめる。レンズの奥には、何も映っていない。それでも、心のどこかで分かっていた。記録はすでに行われたのだと。海そのものが、すべてを記録している。彼の役目は終わったわけではない。まだ伝えることが残っている。
ゆっくりと、ダリウスは浮上を始めた。抱えた機材の重みが、逆に彼を上へ押し上げていく。海の圧が緩み、光が近づく。水面が鏡のように揺れ、彼の姿を返す。そこに映るのは、もはや学者ではなかった。ひとりの証人、海に選ばれた語り部だった。泡が途切れ、音が戻る。空気の層が顔を包み、風が鳴る。彼は深く息を吸った。それは再び世界に戻るための呼吸――リアナが最後に残した、拍の続きだった。
海の下では、エイラが静かに立ち上がっていた。彼女の髪は銀青に輝き、空へと伸びる無数の糸と繋がっている。光の波が身体の輪郭を包み、海全体がひとつの呼吸のように動く。彼女は目を閉じ、海の底から空の端までを見渡すように意識を広げた。そこに確かにあった――リアナの拍。優しく、強く、途切れない。
――ありがとう。
彼女の唇がそう動いたとき、海流が柔らかく返した。それは言葉ではなく、光のゆらぎ。まるで娘が笑っているかのように。エイラはその光を胸に抱き、ゆっくりと頭を上げた。彼女の髪の糸が動き、王国全体の珊瑚と繋がっていく。沈んでいた街が持ち上がり、塔が立ち、石橋が光を帯びる。すべての糸が結び直され、再び「織り」が始まった。王国が、呼吸を取り戻したのだ。
海は静かだった。だが、その静寂の奥で拍が続いていた。リアナの拍。エイラの拍。アステリアの拍。そして、海そのものの鼓動。すべてが重なり、ひとつのリズムを奏でている。それは祈りのようでもあり、記録のようでもあった。ダリウスは海の上で空を見上げた。白金の光が雲を割り、海面を照らす。彼は目を細め、胸の奥で拍を聞いた。
――世界は、いま、再び織り始めている。




