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星の織りなす物語 ACHERON  作者: 白絹 羨
第五章 再織

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第三十九話 珊瑚の間

 回廊を抜けた瞬間、海水が変わった。深海の静けさに、微かに温度を帯びた流れが混じる。光は青ではなく、白金のようなゆらめきで海を満たしていた。リアナはゆっくりとフィンを打ち、前へ進む。岩壁の文様はここではもう形を失い、代わりに無数の珊瑚が絡み合っていた。枝は透きとおり、そこに封じられた泡が光を反射する。まるで時間そのものが、枝の中で呼吸している。

 神殿の中枢。そこには、珊瑚に覆われた祭壇があった。柔らかな光に包まれたその(うえ)で、人の形を留めた何かが静かに横たわっている。全身が珊瑚と鱗に覆われ、髪は長く流れ、海水にほどける糸のよう。肌は銀青(ぎんせい)に輝き、ところどころで竜の鱗が光を返す。(ひたい)には小さな(つの)があり、眠る横顔には人とも竜ともつかぬ静謐が宿っていた。

 リアナはその姿を見つめ、呼吸を忘れた。胸の奥で、あの拍が再び鳴り出す。今度は、海の底ではなく――彼女の内側から。体がわずかに熱を帯び、皮膚の下を光が走る。手を見れば、指先がゆっくりと発光していた。白く、けれど青を含んだ光。血の流れが光そのものに変わっていく。


 ――呼ばれている。


 けれど、それは言葉ではなく、記憶の呼び声だった。あの拍が、彼女の鼓動と重なり、同じリズムを刻み始めた。リアナの髪がふわりと揺れ、水の中で広がる。白銀(しろがね)だった色が、やがて銀青(ぎんせい)へと変わっていく。髪の一本一本が光を吸い上げ、糸のようにほどけていった。

 そのとき、背後から水流が乱れた。ダリウスが追いついたのだ。彼のヘッドライトが闇を裂き、リアナの背を照らす。目に飛び込んできたのは、発光し始めた彼女の身体(からだ)。そしてその前方に眠る、珊瑚の女。ダリウスは言葉を失う。息が乱れ、泡が連なって上昇する。


「……なんだ……これは……? 彫像か? 違う……海の中で息をしてる……そんな、馬鹿な……」


 近づいた瞬間、ヘッドライトが反射した。珊瑚の女の頬が、わずかに光を返した。その光は、リアナの身体(からだ)の発光と同じ波長を帯びている。まるで、互いを認識しているように。

 リアナはダリウスの方を振り向く。マスク越しに目が合う。彼女は何かを伝えようと口を動かしたが、水の中では声にならない。それでも、ダリウスには分かった。「ありがとう」と言っているのだと。

 リアナは静かにマスクを外した。泡が頬を離れ、素肌が海水とひとつになる。息を止めたはずの彼女の胸が、わずかに上下していた。彼女は深く息を吸い込むように顔を上げ、目を閉じた。指先から伸びた光が、糸のように水中を漂い、祭壇の上の女の髪へと結びつく。糸が絡まり、ほどけ、また結び直されていく。まるで見えない手が編み直している。ダリウスは焦り、手を伸ばす。


「リアナ、やめろ! 戻れ!」


 彼は必死に彼女の腕を掴もうとした。しかし触れた瞬間、彼女の輪郭がほどけ、指の間から糸のように流れ出した。まるで、彼女そのものが髪に変わっていくようだった。

 リアナの視界に、かつての仲間たちの顔が浮かぶ。カイル。アシェル。フィオラ。そして、父。最後に、遠くで微笑む母の姿が見えた。声はない。ただ拍が、言葉の代わりに響く。


 ――行きなさい。お前は、最後の海の記憶。


 リアナの周囲に、やわらかな光が広がった。声ではない。母の意識が、潮のように肌を撫でてくる。その響きは懐かしく、けれどどこか遠い。幼いころに夢で聞いた、あの歌声と同じ音だった。


 ――聞こえる。母さん、あなたの奥で、まだ誰かが呼んでる。


 思わず口が動く。水が唇を抜け、音にはならない。それでも、確かに届いた気がした。


 ――お前の拍は、私たちの記憶を運ぶ舟になる。


 光が彼女の胸の内側からあふれ、指先に流れた。そのときリアナは理解する。母の声は、一人の人のものではなかった。はるか昔の潮が、母の形を借りて語っている。その声は海の記憶そのもので、どこまでも優しかった。リアナは目を閉じ、微笑んだ。


 ――うん。わたし、帰るね。


 拍がひとつ、海と重なる。光が髪を伝い、糸のようにほどけていく。糸の先で、珊瑚の女の髪が静かに揺れた。その瞬間、祭壇の周囲に光の泡が立ちのぼり、海全体が呼吸を取り戻す。

 ダリウスは叫んだ。泡が(はじ)け、喉が焼ける。それでも声は届かない。目の前で、リアナの体が糸のようにほぐれ、腕も肩も、指の間からこぼれ落ちていく。けれどその表情は穏やかだった。痛みも恐れもない。ただ、深い安堵と、静かな微笑み。

 光の糸が静かに結ばれると、祭壇の上の女が微かに動いた。閉じた瞼が震え、唇がわずかに開く。珊瑚の殻がひび割れ、銀青(ぎんせい)の鱗が息を吹き返す。その瞳がわずかに開かれ、海の光を映した。竜の娘――アステリアの母。伝説に語られた女王が、今、目を覚まそうとしている。

 リアナの姿は、すでに光となって消えていた。残されたのは、揺れる銀青(ぎんせい)の髪だけ。その髪が珊瑚の間を泳ぐように流れ、祭壇の女の形へと集まっていく。ダリウスは震える手を宙に伸ばした。カメラの存在など、もう頭から消えていた。ただ、リアナを止めたくて――それだけで、何もできなかった。

 光が静まり、海が再び暗くなる。残されたダリウスは、マスクの内側で涙を浮かべた。海水と混じり、誰にも気づかれないまま流れていく。


 ――リアナ。頼む……戻ってこい。


 彼はその名を心の中で呼んだ。返事はなかった。だが、胸の奥で、確かに拍がひとつ響いた。それは彼女の声のようで、海そのものの声のようでもあった。


 ――再び、世界は織り始める。

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