第三十八話 竜の導き
水の層が濃くなり、光が遠ざかる。呼吸の音だけが、世界の境界を形づくっていた。泡が頬をかすめ、上へ逃げるたび、時間の皮膚が一枚ずつ剥がれていくようだった。リアナはロープの先を離れ、ダリウスの影と並んで進む。灯りは二人のヘッドライトだけ。白い粒子が光に浮かび、漂う微生物の群れが銀砂のように流れる。
やがて神殿外郭の壁面が見えてくる。最初はただの岩肌に思えたが、近づくほど、そこが人工の線で構築されているとわかる。湾曲する壁には浮彫のような文様が走り、魚にも花にも見えない有機的な形を描いていた。ダリウスが水中カメラを向ける。赤いランプが点滅し、シャッターの閃光が水の奥に吸い込まれる。
「……模様が、動いている」
マスク越しの声が水に溶ける。リアナが顔を寄せると、文様の線がかすかに光を帯び、心臓の拍に似た速さで脈打っていた。明滅は彼女の心拍よりわずかに遅く、規則正しい呼吸のようだ。青でも緑でもない、深海の血管の色。壁の奥に、巨大な心臓が埋まっているような錯覚。リアナの胸がそのリズムに同調する。呼吸がずれるたびに、肺の奥で波の拍が重なった。
ダリウスがカメラの位置を変え、記録を続ける。彼の手つきは慎重だが、指先に微かな震えがある。壁面の光が強まった。暗闇の中で、模様が形を変える。渦を描くように広がり、やがて中心に黒い裂け目が生まれた。裂け目の向こうから、霧のような海流が吹き出す。冷たくも温かくもない、感情のような水流。
その奥に、確かに「何か」がいた。霧の中で、ゆっくりと輪郭が形を取っていく。巨大な塊が霧の中で動くたびに、砂が舞い上がり、珊瑚の破片が光を反射する。それは岩にも見え、生き物にも見えた。表面には珊瑚が層をなして張り付き、枝の先に小さな魚が眠るように漂っていた。鱗に見える部分は、金属のような光沢を放ち、そこに微細な生命が息づいている。
その姿は、沈んだ時間そのものだった。リアナの胸の奥で、拍が重なる。それは音ではない。骨の内側で響く低い震え――「声」と呼ぶには静かすぎ、近すぎた。体内の水が応えるように震える。聞こえたのは――言葉ではなく、感覚だった。
――お前の役目は奥にある
その拍が伝える意味を、リアナは理解していた。説明も翻訳もいらない。ただ、心臓の底で「それが真実だ」と思えるだけ。ダリウスが振り向く。ヘッドライトの光が揺れ、マスクの向こうの目が見開かれる。
「リアナ……待て、危険だ。もう十分撮れた、戻るぞ」
リアナは答えない。指先でロープを離し、胸のカメラを軽く押さえた。水圧がわずかに増す。耳の奥で低い鼓動が続く。竜の拍動が、彼女の心拍に重なる。
「リアナ!」
ダリウスの声が少し荒くなる。彼は腕を伸ばして制止しようとするが、リアナは静かに頷く。その仕草に、恐れも迷いもなかった。長いあいだ失われていたものを、ついに見つけた人の顔だった。ヘッドライトの光が彼女の頬を撫で、銀青の髪が水にほどける。
竜の影が動く。ゆっくりと尾が持ち上がり、海そのものが息を吹き返す。珊瑚の破片が舞い、海水が光を帯びる。その光は、導きの道のように神殿の奥へ伸びていく。リアナはその流れに逆らわず、身体を前へ傾けた。
「リアナ、行くな!」
ダリウスが追いすがる。だが水流が彼を押し返す。ロープが張り詰め、金属音を鳴らす。リアナの姿が光の中に溶けていく。竜の瞳が一瞬、彼を見た。そこには敵意も慈悲もなかった。ただ、何千年の眠りを超えてなお残る「記憶の色」が宿っていた。ダリウスは息を呑む。呼吸が乱れ、泡が乱反射する。「彼女が選んだ」と、その瞳が告げているように見えた。リアナは流れの中で両手を広げた。光の粒が集まり、髪が波のように揺れる。
竜の拍が再び鳴る。遠い昔、まだこの海が王国だった頃、誰かが同じ拍を聞いていた。その誰かの記憶が、いま彼女の中で息を吹き返す。神殿の奥は闇に沈んでいる。だがその闇の中心で、確かに光が呼んでいる。リアナは一度だけ振り返る。ダリウスの姿が遠くに揺れ、伸ばされた手が水に溶ける。彼女は小さく手を上げ、それが合図であるかのように竜が動く。珊瑚の尾が海流を巻き上げ、道が開く。光が脈打つたび、壁の文様が呼吸し、海の記憶が目を覚ます。
リアナはその光の奥へと進む。彼女の影が消える直前、竜の身体の表面が淡く輝き、まるで彼女の名前を刻むように波紋を描いた。――竜の拍が、静かに止んだ。ダリウスはひとつ深呼吸し、震える手でカメラを構える。レンズの奥に、空になった海の通路が映る。リアナのいた場所には、微かに光る泡がひとつだけ残っていた。泡がゆっくりと上昇し、消える。海の拍が遠のき、残るのは静寂だけ。――けれどそれは、終わりではなく始まりの静寂だった。
――Voice of the Deep.
海が、次の名を呼ぶ。




