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星の織りなす物語 ACHERON  作者: 白絹 羨
第五章 再織

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第三十七話 再潜行

 夜と朝の境がまだ動かない。調査船の甲板は潮の冷気をまとい、金具が吸い上げた海水を小さな雫に変える。波は浅い呼吸のように船体を持ち上げ、降ろす。舷側のリベットが低く鳴り、眠っていた鋼が目を覚ます気配。空は薄い青灰、東の端に光の筋。今日が潜行の日という事実だけが、空気の密度を少し重くする。

 アシェルは船首でカメラを構え、露出を指先で調整する。シャッターが一枚ずつ(おと)を残す。粘りのある早朝の静けさに、連続する微かな切断の音。彼の視線は専門家のそれで、構図より証拠を選ぶ。水平線、波頭、空の層、船団の配置。数年前まで伝説と笑われた王国が、いまは写真の中で測量可能な輪郭を持つ。彼はその事実に何度も焦点を合わせ、確認のごとくもう一度切る。


「……よし。光量(こうりょう)オッケー。撮る、いくよ」


 低く独り言がこぼれ、胸ポケットのメモに短い線が走る。甲板の奥では補助班が酸素タンクを運び、マストから下がる旗索(はたづな)が乾いた音で揺れる。段取りの音が、儀式の前の手順になる。

 リアナは中央甲板で器材の最終点検。タンクのバルブを開き、圧の針を目で追い、手首で微妙な振動を読む。ウェットスーツの袖を少し上げ、塩気を含んだ(かぜ)で腕の体温を整える。香りは冷たく、鉄と昆布と陽に焼けた木。視線は北東の雲の(ふち)へ。薄い光が雲の裏を流れ、今日の潮が今まさに向きを変える合図を送る。


「潮が変わる」


 独り言にアシェルが頷き、ファインダーから目を離す。


「想定より早いな。南の断層まわるなら、むしろ追い(かぜ)。……うん、いい日になる」


 言葉が終わる前に彼はまたシャッターを切る。反復と集中の中で、彼はいつも少しだけ早口になる。

 反対側ではダリウスが潜水服と格闘中。ゴムのグローブを右手に二枚重ねで通し、親指がどこか迷子。飾り気のない顔に汗がにじみ、眼鏡の内側が曇る。初潜行の緊張は明らかだが、本人は学者らしく平静を装う。


「あれ? なんで入らない……リアナ、これ逆?」


「逆」


 リアナが笑いを忍ばせて近づき、手を取る。手袋をいったん外し、左右を入れ替え、親指に道を示す。


「ここ。親指、こっちの曲がり。貝の継ぎ目と同じ。無理やり押すと破れるよ」


 ダリウスはわずかに赤くなり、咳払いで照れを流す。


「……なるほど。ああ、助かった。ありがとう」


 アシェルのカメラがこちらを向く。レンズが光を集め、にやけた表情のままのダリウスを捉える。


「はい、初ダイブ記念。ピースとかどう?」


「遠慮したい」


 ダリウスは視線を外し、肩で息を整える。


「撮るのは遺構だけでいい」


「固いなあ。じゃあ後ろ姿で研究者っぽく撮るから」


「それはそれで困る」


 リアナが肩で笑い、手早くフードの(ふち)を整える。笑いが甲板の塩気をやわらげ、今日という日の重みをほどく。

 船底がふっと震える。波でも(かぜ)でもない。深いところから伝わる、低い拍の連なり。三人の視線が自然と海面に落ちる。リアナは足裏で震えの周期を数える。心拍より遅く、鐘より柔らかい。岩盤の奥で誰かがゆっくり呼吸しているように、間隔が一定に続く。


「来たね」


 声は小さく、確か。アシェルはすぐに方位磁針を見て、カメラを舷側へ向け直す。ファインダー越しに波頭が一瞬だけ立ち、陽がわずかに跳ね返る。シャッターがもう二枚、海に落ちる。

 ここへ来る前、アステリアの謁見は簡潔だった。甲冑の鱗は生き物のように光を滑らせ、言葉は無駄がない。封印は解かれた。調査を許可する。中央神殿まで導く。ただし、母が目覚める契機は海が選ぶ——その一言が心に残り、船と一緒に今も揺れる。

 リアナはその記憶を胸の深いところへ押し、視線を前に戻す。今日、海が選ぶかどうかは海の仕事。自分の役目は、呼吸を守り、結び目をほどき、記録と命を共に連れて戻ること。

 補助班がロープをまとめ、潜行ルートのフロートが順に水へ落ちる。白い球が淡いうねりに乗り、規則正しく並ぶ。リアナはマスクの曇り止めを指で伸ばし、ストラップのテンションを微調整。耳抜きの準備で顎を動かす。ダリウスの背中のタンクに手を当て、ベルトの緩みを締め直す。


「肩、痛くない?」


「少し重いけど、いける」


「怖さは」


「ないと言えば嘘になる」


「それならオッケー」


 軽い会話が続き、呼吸のリズムが揃う。緊張の表面に薄い笑いを浮かべるこの数分が、潜行前いちばん()きな時間だとリアナは思う。恐れと覚悟が均衡する刹那。人の身体(からだ)が海の言葉へ翻訳されつつある境目。アシェルが近づく。防水ケースに収めた水中カメラをリアナへ渡し、別の機体をダリウスに手渡す。


「リアナがR-2、ダリウスがD-1。基本は同じ。三枚ワンセットで切って、ピントはマニュアル固定。ライト一段上げ。戻ったらすぐバックアップ。はい復唱」


「R-2、静止画、三枚、マニュアル、ライト+1、戻ったらバックアップ」


 リアナは必要最低限だけ返す。ダリウスも続ける。


「D-1、同じ。戻ったら、まず記録」


「そう、まず記録。あと——」


 アシェルがダリウスの肩に軽く手を置く。


「緊張してるの、わかる。でも大丈夫。ゆっくり息して、見えた順に言葉にしてみて。頭で考えるより、声に出した方が落ち着く」


「わかってる。ありがとう」


 短い会話のあと、アシェルは甲板の端へ戻り、再びファインダーを覗く。船上からの記録もまた彼の仕事。地上に残る者が神話を現実にする唯一の方法が、光学と紙だと彼は信じる。

 海面がしずかに広がる。フロートの列の向こうで、小さな渦が生まれ、消える。(かぜ)は北東から南東へじわりと向きを変え、白い布のような薄雲がゆっくり折れる。リアナはロープのカラビナをハーネスに通し、手のひらで海を一度撫でる。水の温度は想像より柔らかい。指にまとわりつく塩の感触に、古い家の井戸の記憶がよみがえる。父と弟、(いし)に刻まれた名、夏の光。すべては海に繋がる細い糸。今、その糸を手繰る役目が自分に回ってくる。


「行ってくる」


 リアナが言う。


「行ってらっしゃい。ちゃんと撮ってこいよ。帰ったら全部見せてもらう」


 アシェルは二人をファインダーから見て、シャッターを一枚切る。次の瞬間にはもうメモに目を落とし、時間と風向を短い符号で記す。その几帳面さにリアナの胸が少しだけ軽くなる。地上に残る手があるという事実が、海の深さを浅くする。

 ロープが水面に伸び、船縁の梯子が静かに降りる。リアナは一段目に足を置く。ゴム底が金属に吸いつき、潮の匂いが顔に近くなる。二段目、三段目。海面が視界の中央へ上がってくる。ダリウスがすぐ背後で息を整え、金具の触れる音を小さく重ねる。

 水に膝を入れると、世界がやわらかくなる。音が丸くなり、色が濃くなる。胸元で浮力が軽く押し返し、ロープが腰で揺れる。リアナはマスクを押さえ、最後の一息で肺を満たす。


「最初は深度五。中継で十。合図三回」


「了解。三回、受け取る」


 ダリウスの声が少し硬い。リアナは振り向かず、右手を後ろへ伸ばして親指を立てる。手袋越しにダリウスの指が触れ、すぐ離れる。充分。

 海の底から、また拍が届く。周期がわずかに短くなり、心拍と(かさ)なりそうな近さ。胸の内側で別の鼓動が加わる。不安ではない、新しい名前を呼ばれたときのような高鳴り。リアナは梯子から身を離す。身体(からだ)が水平へ移り、海が抱き上げる。視界の端でアシェルのカメラが小さな閃きを残し、船上の世界がゆっくり遠ざかる。

 顔を水に沈める。水中の(ひかり)が粒になって流れ、フロートの白が揺れる。レギュレーターから出る泡が頬に触れ、耳の内側に静かな圧。ロープを左手でつかみ、右手のカメラを胸の近くに収める。ダリウスが続き、ぎこちなさの残るフィンの動きが水の感触を乱す。

 リアナは軽く足を打ち、彼の動きに自分のリズムを重ねる。二人の泡が合流して、ひとつの帯になる。緊張はまだ残るが、呼吸は揃う。海に入った者は、最初に呼吸を共有する生き物になる。

 水は透明というより深い青の層。下へ行くほど青が暗く、冷たさが増す。遠くで小さな銀の群れが反転し、(ふち)だけを光らせる。ドーム状の影がゆっくり現れ、かつて天蓋だった石の輪郭が見える。柱の根元に白い生き物が揺れ、古い装飾が珊瑚の枝に変わる。

 リアナはカメラを構え、最初の写真を撮る。石のアーチ、珊瑚の影、泡の筋。光と時間の(かさ)なりが、シャッターの一瞬に閉じ込められる。ダリウスも続けて数枚。視線は科学者の探究でありながら、今はどこか少年の驚きに近い。


「……すごいな」


 マスク越しの声がかすかに届く。リアナは短く手で合図を返す。彼のフィンの蹴りが整い、身体(からだ)の緊張がほどける。学者の肩から力が抜け、海の言葉を少しずつ理解する動き。

 拍が近い。神殿の入口にあたる暗がりの(ふち)で、水がかすかに引き、戻る。壁の模様が脈動に合わせて濃淡を変え、苔の間から銀青(ぎんせい)の糸が見える。リアナはもう一枚撮る。レンズ越しに光が細く揺れ、糸が呼吸をまねる。

 そのとき、視界の端で大きな影。ゆっくり、慎重に、海そのものの速度で現れる。珊瑚と貝に飾られた巨大な輪郭。鱗に似た甲殻に微細な生き物が寄りつき、古い金属のような光沢が青の底で軋む。

 目がある。琥珀の深みに泥の色。まばたきは遅く、そこに時間の厚みが宿る。竜という語が頭の中へ浮かび、別の古い言葉が同時に沈む。リアナはロープを離し、ダリウスの腕に触れて合図。


「……いる」


 彼の呼吸が少し早くなり、すぐ整う。学者の目が見開き、レンズが震えながらも一枚を刻む。影は近づく。音は来ない。代わりに胸骨の裏で低い震え。語が形になる前の拍。竜がこちらを見る。海が名を呼ぶ。リアナの鼓動が応え、身体(からだ)の温度がわずかに上がる。奥へ来い、と告げる気配。言葉ではなく、海の合図。


「リアナ、待て! 一人で行くのは危険だ!」


 ダリウスの手がリアナの腕をとらえ、短い制止の合図。顔は前、()は真剣、恐れではなく護りの意思。


「平気。戻る」


「必ずだ」


「約束。必ず」


 リアナは彼の手を軽く叩き、ゆっくり離す。ロープからも手を離し、影の指し示す方向へ身体(からだ)を向ける。ここから先は海の明滅だけが光。リアナはひと呼吸分だけ振り返る。ダリウスの姿が泡の帯の向こうで揺れ、頷きが返る。

 海の拍が深まる。神殿の暗がりが口を開き、銀青(ぎんせい)の糸が闇の中で微かに光る。リアナはフィンをひと打ち。影の導きへ身を預ける。潜行、継続。


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