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星の織りなす物語 ACHERON  作者: 白絹 羨
第四章 灰の海の母

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第三十二話 沈む王

 海が鳴らない。鳴る橋の低いレが止まり、潮の出入りは世界の呼吸の隙間へ吸い取られる。風は伏せ、波は立たず、海は光を退ける。水面は黒でも青でもなく、塩を溶かした鉄の色。舌に置いた言葉が薄い金属板になり、その重みが喉を沈ませる。

 私は波打ち際に立ち、裾を濡らす。足の甲にまとわりつく温度は、もう海ではない。血に近いぬるさ。吸う息ごとに胸の奥へ甘い焦げの匂いが染み、舌の(ふち)に鉄が残る。タラッソスが苦しんでいる。名は出さない。唇の裏で形だけをなぞる。

 水平線の向こうで光が揺らめく。朝でも夜でもない、燃えもしない光。重たく垂れた海膜の下で鱗がひとつずつ剝がれ、落ちるたび海は低くうめき、沈黙の底へ沈む。やがて、その暗さの中から、彼が現れる。

 タラッソス――かつて山を割り、風の道を変えた王。今は病んだ海そのもののように、巨大な影だけを曳いて私の前に横たわる。背の鱗は黒く、(ふち)が灰のように砕け、眼の奥にあった光は、もう形を保てない。私は一歩、波の中に進む。海は私の膝を越えても押し返さない。ただ私を受け入れる。沈むことを許しているかのように。

 タラッソスは低く息を吐いた。海底の砂がその呼吸で舞い上がり、泡がいくつも水面に浮かぶ。泡は(はじ)けず、光のない球のまま空気の層に留まる。そこに言葉があった。泡の中の震えが声になる。


 ――赦しの名の下に、(われ)は永く在りすぎた。

   だが、お前に触れた時、時間が血になった。

   それが、(われ)の罪だ。


 声は波のように私の胸を打ち、脈とぶつかって静まる。私はその言葉を心の奥で何度も反芻する。赦しという語の温度を探すように。けれど、もうその音には暖かさがなかった。私は手を伸ばす。彼の(ひたい)に触れる。硬い。冷たい。だが、その下で確かに何かが震えていた。命ではない。概念の名残。永遠の命という、歪んだ恩寵の残響。


 「終わらせよう」


 私の声は海に吸われていく。彼の瞳がゆっくりと私を見た。その中に映る私の姿は、まるで他人のように静かだった。


「ある竜が永遠をくれた。けれど、それは呪いになった。今度は私が、あなたに終わりを渡す」


 タラッソスの喉がわずかに動いた。拒まない。受け入れる。海の王が、ひとりの女の手にすべてを預けるように首を()れる。私は剣を抜く。隕石鉄の刃は、光を吸う。炎を拒み、夜の冷たさだけを孕んでいる。あの夜からずっと使ってきた剣。娘たちの誕生にも、別れにも、すべてこの刃があった。刃を彼の胸元に当てる。波が小さくざわめく。塩の匂いが濃くなり、舌の奥に鉄の味が広がる。


「死は罰じゃない。救いよ」


 その言葉を自分自身に向けるように、私は呟く。タラッソスは目を閉じ、唇の端で笑ったように見えた。


「……ならば、救ってくれ」


 私はうなずき、刃をゆっくり押し込む。海が一度だけ深く息をし、足元から潮が抜け、砂が沈み、光が消える。音も風も声もない。彼の体が沈む。鱗はひとつ、またひとつ、光を手放しながら落ちる。波は立たず、形だけが崩れる。私は立ち尽くす。涙は出ない。海がそれを受けつけない。頬に触れるのは(かぜ)でなく、海が吐いた最後の泡。泡の内側で、小さな声が遠くへ薄れる。


 ――愛した。


 私は目を閉じ、掌を海に沈める。冷えが骨の隙へ入り、血の温度と混ざる。指の先で祈りを編む。祈りは、届かないものに形を残す行為。言葉は使わない。呼吸の拍だけで海に渡す。波のない面がわずかに震え、背でアステリアの足音が砂を刻む。


「母上……お父様は、海に帰ったの?」


 私は答えない。声を出した瞬間、涙が崩れてしまうとわかっていた。沈黙の方が、彼の死を守る。私はただ、海に掌を残したまま、指の先で光の消えた水を撫でる。


「海は……静かね」


 アステリアが呟く。私はうなずく。静か、という言葉の意味を、今の海ほど正確に示すものはない。音がない。風もない。匂いだけが残る。塩と血と、焦げた鱗の匂い。私はゆっくりと顔を上げる。空はもう夜と昼の境を失い、すべてが灰色の薄膜で覆われている。遠くで鳥が一羽だけ鳴く。その声が水に落ち、広がらず、すぐに沈む。胸の中で、何かが静かに崩れた。痛みではない。空洞。息をしても、その空洞が埋まらない。


 ――タラッソスのいない世界を生きるのか。


 その問いが、自分の声なのか、海の声なのか、わからない。私は立ち上がる。波打ち際に残った足跡が、水に消えずに残る。海が動かないから。動かない海の前で、私は祈りの姿勢を崩さない。

 永遠という言葉が、喉の奥で苦くなる。永遠は終わらない時間ではなく、終われない痛みのこと。私はそれを、ようやく理解した。アステリアが私の袖を掴む。指が冷たい。私はその手を包み、抱き寄せる。彼女の頬が私の胸に触れ、彼女の涙が私の衣に染みる。私は涙を出せない代わりに、彼女の涙の温度を自分のものにする。


「……アステリア、ここから先は、あなたが歩く場所よ」


「母上は?」


「私は、しばらく海の縁で息をする。あなたの明日が昇るたび、潮の匂いでわかるから」


「じゃあ、呼べば届くの?」


「ええ。海が答える。風が、あなたの声を私へ運ぶ」


 その言葉は嘘ではない。ここ――海の境、沈黙の中。私はここに留まる。まぶたの裏に塩が薄く結び、拍が静かに間延びする。眠りはまだ名を持たないが、用意だけは始まっている。波が、ほんの少しだけ動いた。まるで王の最後の息が、海を押し上げたように。水面に小さな円が広がり、すぐ消える。私はその波紋を目で追いながら、祈りの最後の一拍を海に沈めた。海は静かだ。静けさの底で、彼の声の残響だけが遅れて届く。


 ――精霊は(われ)を赦さぬ。だが、(われ)はお前を愛した。


 私はその言葉を胸の奥で抱く。塩の匂いが深くなる。風がようやく動く。潮の匂いは薄く、代わりに冷えた静けさが頬を撫でる。私は目を閉じる。波の音のない世界で、彼の名をもう一度、唇の裏で呼ぶ。その名は私の呼吸とともに沈み、数え始めた拍の中へ溶けていく。

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