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星の織りなす物語 ACHERON  作者: 白絹 羨
第四章 灰の海の母

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第三十一話 燃える髪

 百年の拍が街に沈み、鼓と螺の音が同じ深さで往復する。広場の石は潮で磨かれ、塩と蜜と焦げた樹脂の匂いが夜明けの冷気の中でゆっくり混じる。中央に据えられた座に私は裾を正し、膝の上へ髪を集める。髪は海草のように重く、百年に積もった祝福と別れの匂いを抱え、光を帯びて脈を打つ。鳴る橋は今朝、低いレを長く保ち、塔の上では夜の名残の光が薄い膜となって階段に残り、群衆のざわめきが膜の上を波のように擦っていく。

 バルグリムの刻印が側面に走る宝剣を、私は両手で受け取る。隕石鉄は星屑(ほしくず)を抱いたまま地へ堕ち、その冷たさを芯に残す金属で、鍛え上げられた刃の肌には細かな凹みが星図のように散り、あの夜から私はこの一本だけで髪を断ち、十二の娘を紡いできた。柄の石突きに溜まった塩の白が百年分の儀の回数を物理で記録し、握り皮のすり減りが祈りの長さを語る。

 アステリアは私の右に膝を揃え、掌を膝上に重ね、呼吸を私に合わせる。彼女の瞳は海そのものの色で静まり、鳴る橋の音階を眼の中で受け止め、音の輪郭をかすかにきらめかせる。人々は目を閉じ、若い者は胸に手を置き、年老いた者は膝へ両掌を伏せる。百年に一度の静けさが、都市全体の鼓動をひとつに重ねる。

 刃を灯火へかざすと、隕石鉄は熱を吸わず、むしろ周囲の熱を刃先へ鋭く集めるように光を曲げる。私は髪の根元を指で整え、最初の束を持ち上げ、刃の背で軽く撫で、()の流れを寝かせ、息を整える。切断の瞬間は祈りの開始であり、都市の拍を次の百年へ渡す第一声。群衆の息がわずかに止まり、鳴る橋の低音が一拍だけ深く潜る。

 そのとき、刃が最初の()に触れた瞬間、火の気配が灯火の皿ではなく髪の内部から立ち上がる。油を注いだ覚えのない湿度が一息で乾き、束の芯に細い橙が走り、切断の前に髪が内側から照ってふくらむ。燃焼は空気の端で起こらず、意味の芯で起こる。イフリータがいる。姿はなく、儀の言葉の隙へ入り、髪という媒介を「燃えるべきもの」と再定義し、循環の糸を「消費される灯芯」へと向ける。

 刃の上で熱が歌い、星屑(ほしくず)の凹みが赤く目を開け、私の指に熱の微振動が集まる。髪に含まれていた娘たちの名が、火の舌で一つずつ嘗められ、()の輪郭が薄れる。儀は止まる。止まった一拍が人々の胸に空洞を作り、焦げの匂いが蜜の甘さにぶつかり、広場の上空で別の匂いが立つ。私は刃をわずかに引き、髪を持つ手の角度を変え、熱の流れを読み、呼吸の長さを調律する。火は言葉の方角から吹き、実際の空気とは逆を向く。

 イフリータはこの循環を止めたい。止めるという語で世界を固定したい。炎は私の皮膚を焼かず、名だけを焼く。痛みは熱の痛みではなく、呼び続けてきた名の一画が失われる痛みで、喉の奥が乾き、(ひたい)の皮膚がすっと冷える。

 アステリアの指が私の髪を掴む。動きは乱暴ではない。掌の温度で火の歌を短く分割し、燃える束の根元をゆっくり絞る。彼女は私の呼吸に自分の拍を重ね、鳴る橋の低音にもう一つ低い拍を重ね、声が出る前の静かな空洞を大きく開く。彼女は竜と人の子で、精霊の血を持たない。だからこそ精霊の定義の外に立てる。

 海で学んだ呼吸、橋の「低いレ」で学んだ音、私の儀で学んだ「間」を織り合わせ、呼吸と名と物理の三層を束ね直す編み歌になる。喉の奥に生まれた音が低く、次に高く、また低く、橋の音階と干渉しながら、意味の芯をゆっくり撫でていく。彼女は髪を握り直し、(ひたい)を私の肩甲に当て、息の長さを確定させ、声を放つ。


「火よ、名の外から来たものよ、燃えることが終わりではない理をここに置く。

 髪は灯芯ではなく、川。川は燃えず、ただ熱を運ぶ。

 刃は断ち切るための月ではなく、渡すための新月。

 灰は消失ではなく、土の子宮。

 ここで燃えるのは巡りの迷い、ここで残るのは巡りの道。

 私たちの呼吸が橋、(はし)の音が舟、舟の名は薄れず、向こうへ渡る。

 火よ、奪う手を閉じないで、握り直して渡しなさい。

 渡したのち、お前は光のほうへ薄れなさい。

 燃え尽きるという語はここに置かない。

 燃えるは渡す。

 渡して、また生まれる。

 名はここに留まらないで、次の身に移りなさい。

 私の母の髪よ、私のむすぶ手よ、私たちの拍で、もう一度、呼びなさい」


 言葉は彼女の一存で生まれたものではない。これまで私が儀のたびに低く唱え、音に乗せずに地へ押し込んできた語の断片を、彼女が母の寝息と橋のうなりと海の呼吸から拾い集め、一本の長い糸にまとめたもの。声の終わりに彼女は髪を少し強く握り、掌で火の形を輪へ丸める。炎の舌が一度だけ高くなり、次に短くなり、最後は静かに根へ戻る。火は消えない。消えずに細くなる。細くなることで、髪の芯で熱が流体に変わり、燃焼という定義から照明という定義へ軸を移す。

 灰が先に生まれるのではなく、灰へ変わりかけた部分から光が立つ。灰は光の鞘へ役割を替え、鞘の(ふち)から薄い響きが漏れる。鳴る橋の低音に第三の音が加わり、群衆の胸に入った静寂がやわらかく震える。

 私は刃の角度を戻し、燃え残りではなく、光へ変質した束の根を一太刀で断ち、断面から微かな風が上がる。風は火ではなく、息。息の粒が光を抱き、私の膝の上で十二の小さな形へ分かれる。形は最初、光の粒だけで、次に塩の匂いと乳の匂いを足し、やがて髪の色と指の節を得て、目を開く。十二の娘が生まれる。生まれる瞬間、広場の人々は歓声を上げ、その音に蜂蜜と焦げの匂いがさらに甘く混ざり、灯火は風に揺れて光の斑点を石の上に散らす。

 誰かが「奇跡」と口にする。奇跡という語は祝福の蓋で、蓋は中の痛みを外から見えなくする。私は刃を置き、髪を撫で、娘たちの(ひたい)に指を置き、拍を確認する。すべての脈がある。あることは喜び。喜びと同じ深さで痛みがある。私の髪は燃え、()の一画は確かに削られ、イフリータの指はまだ儀の縁に留まり、炎の嗤いは遠くの屋根裏で薄く続く。火は止まったのではなく、向きを変えただけ。循環を止めたい意志は、祭の熱に紛れて場所を変えた。

 アステリアはまだ私の髪を握っている。掌の汗が塩を溶かし、指の内側に薄い塩の線が残る。彼女は息を整え、私の横顔を見上げる。私は彼女の指を一本ずつ外し、掌の中で指を包む。「よく聴いたね」と私は言う。彼女は「聴こえた」とだけ答え、私の肩へ(ひたい)を寄せる。彼女の瞳に灯火が映り、青の底で小さな火が静かに呼吸する。

 人々は生まれた娘に名を求め、祭司は記録の板を用意し、鍛冶場(かじば)からは金の鈴が持ち出され、音が高く鳴る。高い音は甘い。甘い音に酔う前に、私は自分の中の問いを拾い上げる。永遠とは何か。

 今、私はまた百年分の(せい)と死を受け取り、渡し、分配し、見張る。永遠は、止まることではない。止まらないように、止まらずに負い続ける労。終わりを拒むのではなく、終わりを受け渡しへ変え続ける仕事。私の顔に浮いた痛みは、火で焼かれた跡ではない。名の輪郭を守るために、刃を握る手が持つ重みの跡。重みは外から見えず、私の皮膚の下に沈む。沈んだものは、次の百年へ渡すために私の中で静かに保存される。

 群衆の歓声はしばらく続き、やがて波のように低くなり、鳴る橋は再び低いレだけを長く鳴らす。私は十二の娘を抱き上げ、それぞれの耳へ最初の息を送る。息は名になり、名は体温になり、体温は都市の夜気へ混ざる。イフリータの気配はまだ遠くにいる。炎は祭を嫌うのではなく、祭が炎を別の言葉へ呼び直すことを嫌う。今日は退いた。退いたぶん、次は深く来る。灰が石の目に薄く残り、灰の(ふち)から微かな温度が逃げる。

 私は広場の空を見上げ、星のない場所を探し、刃の星図と照らし合わせる。隕石鉄の凹みが夜の光を静かに返し、私の指に微かな冷たさを返す。その冷たさで、私は痛みの輪郭を確かめる。歓声の中心で、私は沈黙する。光と焦げの匂いの中で、祭の甘さの奥にある塩の味を舌で確かめる。永遠とは何か。今夜の答えは、燃え尽きなかった髪の灰の温度、渡された名の呼吸の数、そして娘の掌に残った塩の線。


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