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星の織りなす物語 ACHERON  作者: 白絹 羨
第四章 灰の海の母

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第三十話 海の王、病む

 海の底から呻きが上がる。耳で聴く音ではなく、胸郭の奥に沈み込んで骨を擦るような低い震えで、砂の一粒一粒が反応し、(みなと)(くい)がうすく鳴り、倉庫の壁に吊られた鉄具が触れもせず微かに揺れる。私の掌に伝わるのは、潮が変質した合図。塩の角が丸くならず、舌の上で鉛のように重く張り付く。腹の鱗が虹を返し、空の青をはじく。水の匂いに焦げた甘さが混ざる。黒は影ではなく、病の色。海の呼吸が浅い。浅い呼吸は、王の苦痛。

 漁民が舟縁にもたれ、吐瀉(としゃ)の音を波に落とす。吐いた者の背をさする手が震え、指先に白い塩が粉のようにつく。皮膚は湿って冷たいのに、目だけが赤く熱を帯びる。舟揚げ場に立つ私の足元を、小魚が数匹、波の寄せとともに打ち上げられ、目を開けたまま腹を見せる。腹の鱗が虹色に反射し、空の青を拒む。水の匂いに焦げたような甘さが混ざる。腐敗の匂い。潮の拍が遅れ、鳴る橋の音階が外れ、低いレの下に黒い音が沈む。音はまだ人の耳には不調和として届かない。届かぬうちに、世界の理解が先に変わる。

 海底でタラッソスが身をよじる気配。鱗の一枚一枚が黒く濁り、(ふち)に白い粉をふく。巨大な尾が砂を巻き上げ、巻き上がった砂はすぐに落ちず、水中にとどまって雲のような層を作る。層の境界で光が歪み、王の輪郭が波打つ。

 私の胸の中心で、昔の沼の匂いが立ち上がる。古の竜の体から立ちのぼった濁気が、森の地表を湿らせ、子らの咳を連れて歩いたあの季。あの沼で私は竜の心臓に触れ、脈を止めた。贈与の代償という言葉が最初に私へ刻まれた日。今、同じ湿りが海の裏側から押し寄せる。病と呼ぶより、概念の崩れと呼ぶほうが近い。形ある毒ではなく、海そのものの意味が別の言葉へ書き換わっていく感触。

 波頭の向こうで、風が笑う。笑いは乾いて軽い。名前を持たない合唱。シルフィが空の目に息を吹き込み、音の(ふち)を削る。水中では別の声が響き、言語にならぬ冷たい宣告が広がる。ウンディーネ。脈と脈の隙間に潜り込み、海そのものを説得しようとする気配。竜の存在は自然の腐敗、という考え方が、水の分子に織り込まれる。宣言は誰の耳にも届かない。届かぬまま、潮の定義を変える力として根を張る。潮の昇降は同じなのに、その上下(じょうげ)に込められた意味が別のものに置き換わる。海はもう、赦していない。

 港の外では、帆の列が予定の風を掴めずに止まり、舵のわずかな角度が効かなくなる。水に抗い、縄を張る手が痺れ、指の節に針を刺したような痛みが走る。岸に上がった漁師のひとりが、膝をつく。膝小僧の皮が濡れた木の目に擦れて薄く剥け、そこから流れた血が、直ちに黒ずんだ縁取りを作る。海の毒が皮膜に張りつき、治癒の速度を遅らせる。手当をする女の袖に、界面の匂いが移る。油膜の光は美しい。その美が、死をやわらげて見せる。

 私は波止場から一歩進み、海へ膝まで入る。冷たさが骨に絡み、布の繊維の間を毒が這う。掌を水へ。皮膚の上で水が動かず、面で留まる。留まる水は呼吸をしない。沈めた指が見えなくなり、見えないところで鱗の擦れる音がする。タラッソスの痛み。王の声は言葉にならない。彼の声は、海の律動そのもの。律が歪む今、声は呻きとしてしか伝わらない。私は胸で拍を刻み、自分の呼吸で海の拍を呼び戻そうとする。呼吸が浅い。浅さは恐怖ではなく、共鳴の失敗。


「……母上、聴こえる?」


 小さく息を飲む気配。私の袖口を、ためらいがちに摘む。声は細いが、芯が通る。彼女の瞳が海を吸い込み、底のない青が私の横顔に滲む。私は頷き、目を閉じる。舌に鉄の味。指の爪の間に黒い砂。砂は砂であって砂ではない。意味が変わる最中の物質は、名付けを拒む。


「……ウンディーネが来ているわ」


 息をゆっくり吐き、声を落として彼女の耳へ寄せる。


「水が言葉を覚えはじめたの。……お父様のことを、腐敗って呼ぼうとしてるみたい」


 アステリアの眉がかすかに寄る。驚きよりも、悲しみに近い皺だった。アステリアは視線を落とし、波間に浮いた小さな魚の腹を見つめる。魚の眼が空を映し、空の雲が魚の眼に閉じ込められる。


「海が……違って見えるの。透きとおってるのに遠い。手を入れても、触れた感じがしない」


 彼女の指先が水面の冷たさに怯え、すぐ私の手の甲へ戻る。


「届かないように、海が自分を守ってるのね。形を保つために、お父様を外へ押し出してる……痛いはずよ、あの人」


 私は足を進め、さらに一歩、冷たい重みを抱え込む。


「タラッソスが内側から押し返されている。鱗が黒く濁るのは、海の言葉が彼の皮膚に書き込まれていくから」


「ねえ母上……助けられる?」


 アステリアが半歩だけ波へ寄る。私は袖を軽く引き、手のひらを重ねる。


「今は『助ける』じゃなくてね」


 彼女が息を止める。言葉を奪われた子供のように。


「息を合わせるだけ。お父様の呼吸を途切れさせないように」


 私は彼女の胸に手をあて、私と同じ拍で吸って吐くよう示す。


「海はいま、書き換えを受け入れかけてるの。ここで強い言葉を重ねると紙が裂けるでしょう? 縫えても、布の記憶は戻らない。だから呼吸を揃える。お父様の拍と海の拍に、そっと間を作るだけ」


 沖で、巨大な影が仰向けに体を捻る。水柱は立たない。立たないのに、空の光が一段暗くなる。影の(ふち)が白い泡をまとい、その泡が油の色に変わる。光と油が出会い、七色が走る。美は罠。安らぎを真似る。港の少年がその色に見とれ、舟の(ふち)から手を伸ばし、近くの女が急いで手首を掴む。掴んだ手の間で、風が笑う。笑いの音程が半音だけ上がり、橋の鳴りと干渉する。干渉の波で、私の鼓膜が撫でられる。嫌悪の震え。美しいものほど、冷たい。

 私はアステリアの手を取り、岸へ引き戻る。海に背を向ける時だけ、胸の疼きが増す。視線を外すことは裏切りの始まりに近い。いまはその形だけ借りて、彼女を冷気から遠ざける。桟橋の端に座り、裾から滴る水の筋を眺める。滴は板の目を走り、釘の頭で丸く集まり、落ちる。板の目の古傷に黒が残る。黒は落ちにくい。落ちにくいものは、時間を奪う。


「……昔の沼を思い出すの」


私は掌を見つめる。あの冷たさが皮膚の奥でまだ生きている。


「あのときも竜が苦しんでた。体よりも、世界のほうが痛がっていたの。私が心臓に触れた瞬間、森が深く息をした……あれが、代償の始まりだった」


 アステリアは黙って聴く。掌の上で波がほどけていくのを見ている。


「じゃあ今、海も同じことを望んでるの? ……お父様の息を、止めてって?」


 彼女の声が細り、私の指を探す。私は強くは握らない、離れないだけ。


「いいえ、まだ求めてはいないわ。海の中に『選べる』って言葉が残ってる。残っているうちは、終わらせない」


 彼女の頬へ落ちた髪を耳にかける。指先の塩で、現実を確かめる。


「海は自分で自分を癒やそうとしてる。その途中で、お父様を『異物』って見なす。だから拒む。罰じゃない、防衛。精霊はその防衛に名を貼る――『竜は腐敗』。名は現実になる。だから私は、もう一度、無名まで連れ戻すだけ」


 波止場の端で、倒れていた漁民が立ち上がる。足取りはふらつくが、目に意志が戻る。妻が肩を貸し、二人で家路へ歩く。歩幅がそろわず、腕の中で小さな喧嘩が生まれ、すぐに笑いで消える。笑いが風に削られずに残る。残った笑いは細いが、強い。私はその細さを覚えておく。薄い糸ほど、張れば遠くへ届く。

 沖合で、タラッソスの尾がゆっくりと降り、砂に沈む。沈む過程が遅い。遅さは苦痛の長さ。私は(ひたい)に触れ、熱の分配を整えるように意識を平らにする。意識が平らになれば、風の言葉が耳から滑り落ちる。滑り落ちた言葉は足元の板目で音もなく砕ける。砕けた破片が空気の中で蒸発し、代わりに海の奥から泡が上がる。泡が弾けず、表面で膠のように留まる。留まりは腐敗の兆し。腐敗は終わりの気配だが、終わりではない。変換の前段。


「……母上」


 彼女が腕に指を絡める。指が震えている。


「夢で、風の歌を聴いたの。『終わりは救い』『有限こそ慈悲』って……歌は綺麗で、綺麗すぎて、怖かった」


「綺麗なものほど、刃を隠すの」


 私は笑う。怯えさせないための笑み。


「光をよく返すせいで、刃の形に気づきにくいのよ」


 彼女の髪を耳にかけ、耳朶の温度で現実を測る。


「私たちは永遠を許された。だから、奪わないって決めてる。この国の人たちは自分の速度で生きてる。風はいま、その意味を変えようとしてる。遅さを安らぎに、終わりを救いに置き換える前に、私たちの歌を渡そう」


「どんな歌を?」


「生きてる音の歌。汗の匂いも、息の乱れも、そのまま入ってる歌。終わりを知った上で、今日を選ぶための歌よ」


「……うん。歌おう」


 彼女がうなずき、私の掌にそっと(ひたい)を寄せる。


「……そんな歌なら、きっと風も聴くわ」


「ええ、きっと」


 会話の間に波がひとつ割れ、静寂が戻る。私は立ち上がり、裾から滴る水を絞る。


「お父様の痛みが深い。今は見守るわ。見守りながら、街の毒を薄める。油膜は火で追わない。布で掬って、塩の床で乾かして、少しずつ剥がす――皆の手で」


 港の人々へ合図を送り、布と桶と棒が集まる。人は働くために立つ。立った背中の角度が、風の言葉に背を向ける。背を向けることが否定ではなく、選択になる。選択は歌。歌は数で強くなる。私は声を出さず、動きで歌う。布を水面へ滑らせ、虹色の皮膜を静かに集め、端を折って桶へ落とす。落とす瞬間、色が一瞬だけ濃くなり、やがて消える。消えた色の記憶が鼻孔の奥に残る。残る匂いを嫌悪ではなく材料として覚える。材料は後で道具に変わる。道具は抵抗の形。

 日が傾き、海の青が鉄に移る。鉄は夜の前触れ。夜の前に、王の呻きが一度だけ静まる。静まりの中で、私は古の沼の竜の瞼を思い出す。重い瞼が最後にわずかに震え、私の指先の温度を記憶したあの瞬間。私はあのとき世界の片方を選び、今も同じ重みで片方を選び続ける。選ぶたびに、別の方角の空が少し暗くなる。暗くなる空の下で、人は火を灯す。灯りが並び、波止場に橙の小さな円が等間に落ちる。橙の円が風に溶けず、海に飲まれず、そこに在る。在るという事実が、書き換えに抗う。

 夜のはじまり、シルフィの笑いが一段高くなる。ウンディーネの宣告が、海の底で重くなる。タラッソスの鱗がさらに黒を増す。私の中の拍が一つ、海の外へ踏み出す。踏み出した拍を戻し、呼吸を整える。整えた呼吸の端で、言葉が生まれる。名を持たない祈り。祈りは命令ではない。命令に似た響きを避け、同じ高みに立たず、同じ低みに沈まず、ただ隣で息を合わせる行為。私はその行為を夜の長さ分、続ける。続ける間、(みなと)の人々は布を滑らせ、桶を運び、子どもが灯りの火を守る。守る小さな手の温度が、私の永遠の中へ静かに沁みる。

 暗緑の海が、深いところで目を細める。呻きはまだ続く。続くという事実が、今夜の答え。終わらせないという選択が、今夜の勝ち筋。精霊はそれをあざ笑う。笑いは(かぜ)に乗り、屋根の棟を撫で、鐘の中空(ちゅうくう)を空振りさせる。鐘は鳴らない。その無音が、都市の心臓を落ち着かせる。落ち着きの上に、疲労が降り積もる。疲労の下で、拍が揃う。拍が揃った場所に、まだ海の余地がある。余地こそが、明日へ渡す橋。私はその橋の音を確かめる。低いレが、かすかに戻る。小さいが、本物。戻りは微かながら、本物。私は息を吐く。塩の味が再び舌に立ち、鉛の重さが少しだけ軽くなる。王の夜がはじまる。私の夜も、ここではじまる。


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