第三話 竜の伝承
焚き火は小屋の外の石囲いで静かに燃えていた。炎は薪を舐め、ぱちりと音を立てては、夜の森に淡い光を投げかけている。
鍋は空になり、串に刺した川魚の骨だけが焚き火の脇に残っていた。小川で捕まえた小さな魚を塩で揉み、火でじっくり炙ったのだ。皮はぱりぱりと香ばしく、白身はほろりと崩れる。普段は草と豆ばかりの食卓に、魚の脂が広がった瞬間、リアナの胸にまで温かさが満ちた。茸や根菜を煮込んだ鍋の素朴な味と重なり、今夜の食卓は忘れられぬほど豊かだった。カイルは腹いっぱいになり、ほのかな甘みのある薬草茶を飲むと、縁側の藁布団に倒れ込むように眠った。
「咳も……止まったみたい」
リアナは胸をなで下ろした。痩せた弟の顔には、久しく見ていなかった安らかな寝顔が広がっていた。唇にわずかな笑みさえ浮かび、幸せそうに寝息を立てている。茶碗の香りはまだ辺りに漂っていた。フィオラが山野の薬草を焚き火の脇で丁寧に煎じてくれたのだ。
金色の液体から立つ湯気は、ほのかな甘苦さを帯び、飲めば体の芯までじんわり温まる。「これなら夜は咳も出にくいはず」フィオラはそう言ってカイルに茶碗を差し出したのだった。リアナは弟の寝顔から目を離せずにいた。父を失って以来、痩せ細る弟をただ見守ることしかできなかった。
だが今夜だけは違う――腹を満たし、咳にも煩わされず、安らぎの中で眠る。弟の頬にかすかな赤みが差しているのを見て、リアナの胸は満たされると同時に締め付けられた。幸福はこんなにも儚いのか、と。まるで、明日には失われてしまうものを前借りしているような気さえした。リアナはしばらくカイルの寝顔を見つめ、ようやく目を焚き火へ戻した。
「……ねえ、フィオラ」
声は自然と小さくなった。
「その薬草茶、どうやって作ったの? 教えてほしい。カイルのために、自分でもできるようになりたいの」
フィオラは耳を揺らし、笑みを浮かべた。
「森の中には全部あるんだよ。薬も食べ物も、答えも。私の村ではね、病に効く草や樹皮を子どもでも覚えてる。慣れれば見つけるのは簡単さ」
焚き火の明かりで赤く染まった横顔が、ふと真剣になる。
「私の村に来たらいい。カイルのことは皆で預かれるし、あなたは草や獲物の見分け方を学べる。ここでふたりで踏ん張るより、ずっと楽になるよ」
優しい声だった。だがリアナの心は揺れた。弟を託すことは安心に繋がるはずなのに、どこかで自分の役目を奪われるような気もして、素直に頷けない。
香ばしい香りがふいに漂った。振り返ると、アシェルが金属の器を手にしていた。帝国風の彫金が施された小さな茶器に湯を注ぎ、丁寧に葉を沈めている。立ち上る湯気は、わずかに甘みを帯びた香りを含み、リアナの鼻腔をくすぐった。
「……いい匂い」
湯気が頬に触れる。蜂蜜の影みたいな甘さ、土に還る前の葉の匂い。思わず声が漏れる。
「アシェルのお茶はいつもいい香りがするな」
ダリウスが低い声で言った。片膝を立て、火に照らされた顔に柔らかな影を落としている。
「長い旅でも、この香りを嗅ぐと疲れが少し癒える」
アシェルは肩をすくめた。
「大げさだな。でも、ありがとう」
茶器を傾けながら、彼は一人ずつ器を渡していった。銀の髪が炎に揺れ、どこか芝居がかった仕草に見えるのに、不思議と嫌味はない。
「アークレインの家では、どれほど忙しくても、茶の儀だけは外さない」
リアナに器を手渡しながら、彼は続ける。
「父の口癖さ。『一杯の香りが、人の心を結ぶ』。——大人になって、ようやく意味が少しわかってきた気がする」
リアナは器を両手で包み込んだ。温もりが掌から体へ染みていく。香りは甘く、ほんのりと苦い。父が病に伏す前、冬の夜に小さな鍋で煮出したお茶の記憶がよみがえった。胸の奥に、懐かしさと痛みが同時に広がる。
そのとき、フィオラが獣耳を揺らして口を開いた。
「ねえ、リアナ。お父さんから竜の話、よく聞かされてたよね。覚えてる?」
フィオラの耳がぴくりと揺れる。焚き火の火粉が夜気に溶けて、星のように消える。リアナは驚き、視線を落とした。炎の赤が瞳に映り込む。夢見心地の中で、父の声が脳裏に蘇る。
「……うん。覚えてる」
口をついて出た声は、自分でも驚くほど静かだった。リアナは語り始めた。
「――遠い昔、まだ精霊と人と竜が共に地を歩いていた頃のこと。
竜たちは本来、大地に住まう生き物だったけれど、やがて海を住処とした。年老いた竜ほど、背にサンゴを宿し、海そのものの姿となっていったという。
竜は言葉を持たずとも、人の心に直接語りかける術を持っていた。だからこそ、人は竜と盟を結び、互いに力を分かち合うことができた。竜の魔法は強く、嵐も炎も従え、この世の生態を支配するものだった。
けれども、精霊との争いが始まった。水や土や空気、森や炎――世界をかたち作る力そのものが、竜と奪い合いを始めたんだ。竜は生きる場を脅かされ、滅びの影に追いつめられていった。
そのとき、一人の少女が現れた。名も持たぬ彼女は竜に選ばれ、血を授けられた。
鱗はその肌を覆い、瞳は炎を映し、心臓は竜のように燃え、不死の身となった。
彼女はやがて女王と呼ばれるようになり、竜と人とを結び、新しい国を築いた。
女王は冷たく厳しかったと伝えられている。けれど、その力と威光は誰もが恐れ、同時に敬った。彼女は竜と共に戦い、王国は一度は栄華を極めた。
だが、精霊との戦は終わらなかった。幾千の戦が繰り返され、ついに竜の王が討たれると、国は瓦解し、都は炎と波に呑まれた。
女王は最後まで戦い続けたけれど――敗北を悟り、深い絶望のなかで眠りについた。
それが、今もなお続いている永遠の眠り。
……人々はこう歌うんだ。
『竜の女王は夢の底に沈み、世界が再び彼女を呼ぶ日まで目を覚まさない』
だから子どもは祈る。嵐の夜も、病の年も。——『女王よ、どうかまた、私たちを見つけて』と」
リアナの言葉は、民謡の旋律のようにゆるやかに続いた。父が語ったときの声色や仕草を思い出しながら、幼い夜の記憶をそのまま写すように。
「……それが、お父さんが話してくれた昔話」
語り終えると、焚き火の音がひときわ大きく響いた気がした。
「胸が跳ねてる」
その瞳は焚き火よりも明るく、今すぐ続きをねだる子どものようだった。
「歌だね。心臓の裏側で続いてる歌。ねえ、リアナ、本当にお父さんは同じ声で語ったの? 火の揺れも、今と同じだった?」
言いながら、手が焚き火の熱を確かめるように宙を撫でる。
「精霊と竜が並ぶ世界……匂いが違うはず。海の塩、古い石、濡れた鱗。目を閉じたら、少しだけ嗅げた気がする」
ダリウスは息を殺すように手を動かした。革袋から帳面を引き出し、鉛筆を走らせる。だが途中で手を止め、静かに呟いた。
「物語なのに、まるで目の前で見ているようだ」
彼の目は帳面よりも、語り終えたリアナの横顔に吸い寄せられていた。
「本当にそのとおりだ」
アシェルが手の中の茶器を見下ろしたまま、声を落とした。
「子どものころ、帝都の書店で絵本を買ってもらったんだ。竜の女王の話も、その中にあった。でも、あのときは夢物語にしか見えなかった。女王の冠は滑稽で、竜は丸すぎて、子ども騙しだった」
銀髪をかき上げ、火影を瞳に映す。
「君が語ると……まるでその眠りが、紙の上じゃなくて、空気の下にある。今もこの森の奥で続いてるみたいに思える」
言い終え、彼は自分の言葉に苦笑した。
「らしくないことを言ったね。けど、今はそれでいい」
リアナは答えなかった。ただ器を傾け、温い茶を口に含んだ。甘苦い香りが喉をすべり落ち、胸の奥を満たす。その一瞬、父と過ごした夜が戻ってきた気がして、彼女は目を閉じた。