第二十九話 風に囁く嘲笑
朝が訪れても、王都の鐘はひとつも鳴らなかった。鳴る橋の音も止まり、潮の拍も鈍い。空は晴れているのに、光が地に届く前に風がそれを撫でていく。風の通り道が変わったのだと、職人たちは囁いた。羽車の角度がずれ、羽音の調子が少し高い。けれどそれを気にする者はいなかった。皆、言葉よりも先に、自分の胸の内を確かめることに忙しかった。なぜだか、心のどこかが少し重く、眠い。
海辺の市場では、誰もが同じ夢を見たという噂が流れていた。夢の中で、自分が老いていく。皺が増え、手が細り、やがて砂のように崩れて消える。その最期を見つめる誰かがいて、涙ではなく笑みを浮かべていたという。夢の後、人々はなぜか穏やかな気持ちになるのだと。死を恐れぬ心が生まれるのは祝福だと、祭司たちは言った。けれど、それは祝福ではなかった。
エイラは高塔の上から街を見下ろしていた。風が上昇気流を描きながら、塔の尖端に絡みつく。空気の振動が微かに違う。低い音の中に、乾いた笑い声が混ざる。誰の声でもない。けれど確かに「笑い」の形をしていた。塔の石壁を撫でながら、エイラは呼吸を止める。
──風が笑っている。
それは精霊の囁きだと知っていた。名はシルフィ。形を持たぬ風の主。かつてタラッソスが語った敵。概念を削り、名を浸食し、記憶の意味を変える存在。エイラは風を見つめる。見えないはずのものを、視ようとする。だがその目の奥に映るのは、自分の髪が微かに揺らめく影だけ。
「……静かすぎる」
思わず零した言葉が風にさらわれる。声が、空に届く前に形を失う。まるで言葉そのものが拒まれているようだった。
階段を降りた先の広間では、アステリアが花の冠を編んでいた。指先で糸を撚り、花弁の向きを整える仕草は、まるで小さな光を紡ぐように繊細だった。彼女はふと顔を上げ、母の足音に気づいて微笑む。
「母上、今日は風が違うわ。いつもより、……軽くない」
エイラはその言葉に立ち止まる。
「軽くない?」
「ええ。重たくて、笑ってる。風なのに、息苦しい」
その言葉に、胸の奥が小さく鳴る。娘の感覚は確かだ。精霊は、姿を見せない。けれど風に混じる「意味」が、確実に人々を変えていた。エイラは娘の隣に座り、手のひらを花冠の上に置いた。指先に残る冷たさが、時間の流れを教える。
「人々がね、夢を見るようになったそうだ。老いる夢を」
アステリアは目を瞬かせた。
「老いる……夢?」
「そう。死ぬ夢を、穏やかに見るの。みんな、怖がらない。死を美しいものと思い始めている」
アステリアの手が止まる。花弁がひとつ、指先から落ちた。
「死は……母上のものではないのに、どうして人は怯えなくなったの?」
「私が封じたのではないわ。生まれた時から、あの人たちはそう在るように与えられた。けれど、永く続く命は必ず倦む。風はそこに入り込むの。終わりを美しいものと見せるために」
「じゃあ、風は終わりを贈るつもりなのね」
エイラは娘の横顔を見る。瞳は深い海のように澄んでいるが、その奥で波が立っていた。何かを映して、揺れている。
「……アステリア。風の正体を知っているのね」
「知ってる。シルフィ。お父様が戦っている相手」
「そう。彼らは形を持たない。戦いは刃ではなく、言葉の奥で起きる。世界の意味を塗り替える戦。私たちの声も、やがて届かなくなるかもしれない」
沈黙が落ちる。外では子供たちの笑い声が響く。その笑いも、どこか鈍い。空気が重く、音の輪郭が歪んでいる。アステリアは小さく息を吸った。
「母上……どうして、皆が疲れて見えるの?」
エイラは答えない。答えを持っていない。人々は今、死を「終わり」としてではなく、「解放」として語り始めていた。永遠に続く日々の中で、死だけが未知の救いとなる。美しい死は、完璧な循環の象徴。それは、精霊が植えつけた幻想だった。
「人が苦しみの中で生きる姿を見て、私たちは祈った。せめて痛みを和らげたいと。けれど、痛みが薄まれば、喜びもまた薄れる。だからこそ、彼らは『終わり』の中にもう一度、生の輪郭を探し始めたのかもしれない」
アステリアは首を振る。
「そんなの、間違ってる。痛みがあっても、生きるほうが……」
言葉が詰まる。彼女の声は風に溶けるように薄れ、息だけが残る。エイラはその肩に手を置いた。
「アステリア、風は優しい声で語りかける。人の願いの形を真似て、夢の中で囁くの。終わりは救いだと、有限こそ尊いと。だから人々は信じてしまう。これは戦よ、言葉の奥で行われる静かな戦」
「じゃあ、どうすれば止められるの?」
「止める……ことは、難しい。概念に抗うには、概念で挑むしかない。けれど、私たちの言葉も、もう風に削られ始めている」
外から微かな笑い声がした。遠くで誰かが笑っている。だがそれは人の声ではなかった。空気が震え、壁が微かに鳴る。窓の隙間から吹き込む風が、ふたりの髪を撫でて通り過ぎる。その風に混じって、確かに嘲りがあった。アステリアは顔を上げ、空を見た。
「笑ってる……母上、風が笑ってる」
エイラは目を細める。
「聞こえるわ。……あれは、声を持たぬ精霊たちの合唱。彼らは人の心を覗き、そこに『限り』を見つけて笑うの」
「どうして笑うの?」
「『限り』を知らぬ者を、哀れだと思っているのよ。あの風は死こそ慈悲だと信じている。だから嘲う。だから、あんなにも優しい声で笑うの」
沈黙。エイラは立ち上がり、窓辺に歩み寄る。外の光は青く冷たい。海の面は鏡のように静かで、波ひとつ立たない。彼女は掌を風に差し出す。空気が皮膚をなぞる。熱を奪い、指先を白く染めていく。
「母上は、まだこの国を愛しているの?」
アステリアの声が背後から落ちた。エイラは答えないまま、目を閉じる。
「愛している。けれど、愛すれば愛するほど、この国は私を離れていく。風はそれを知っている。有限の者を抱くことは、永遠に手放すことでもあるから」
アステリアは立ち上がり、母の隣に並んだ。彼女の瞳が風を映す。その青は、海の底を超えて、虚空のように深い。
「ねえ、母上。もしこの風が全部を変えてしまっても、わたしたちは……変わらない?」
エイラは娘の手を取り、指を絡めた。
「変わらないように、生きようとする。それが、抗うということ」
風が二人の間を通り抜けた。髪が揺れ、花冠が床に落ちる。花弁が散り、風に溶ける。風が笑う。嘲るように、優しく、永遠のように長く。その笑いの中で、エイラは気づいた。自分の心の奥に、誰かの言葉が沈んでいる。
――永遠は、罰のように甘いものだ
それが、誰の声かは思い出せない。ただ、その言葉だけが、風の冷たさよりも深く、胸の奥に残った。




