第二十七話 竜の王女
再びこの海に戻るまでに、一年が経っていた。彼らを乗せた船団が湾に差し掛かったとき、リアナはまずその静けさに息を呑んだ。空の色も、潮の匂いも、一年前と変わらぬはずだった。白く光る砂の岬、風に揺れる水草、低く沈む潮騒――すべてが記憶の中のままだ。けれど、なぜだろう、心の奥のどこかがわずかにざわめいた。見慣れた景色の輪郭が、ほんの少しずれて見える。
違和感は最初、音だった。港に近づいても、いつものように人々の声がしない。物売りの呼び声も、船を繋ぐ縄の軋む音も、子どもの笑い声も聞こえない。代わりに、湾全体がひとつの大きな鐘の内側にあるような、息の詰まる静寂があった。リアナは甲板の手すりに手をかけ、じっと見下ろした。港の石造りの階段に並ぶ家々は、どれも扉を閉ざし、窓の隙間からかすかに白い布が揺れている。人々は確かにそこにいる。だが、誰も外に出ていない。まるで見えない何かを恐れて身を潜めているよう。アシェルが隣に立ち、視線を遠くへ走らせる。
「……何か、違うな」
その声にリアナはうなずいた。彼女も同じことを感じていた。けれど、それが何なのか、すぐには言葉にならない。記憶の地図と、目の前の光景が微妙にずれている。波の音の奥に、聞き慣れぬ律動が混じっている気がした。まるで、海底からゆっくりと何かが鼓動している。
ふと、視界の端で光が閃いた。リアナが目を凝らすと、それは湾の中央にそびえる円環状の石柱群――前回の調査で、立入を禁じられた宗教施設の区域だった。あのとき、地元の案内人は近づくなと言っていた。古くから王国の人々が沈黙の門と呼ぶ場所で、決して開かれることのない聖域。しかし今、その門が――開いていた。
霧のような陽光の中、重厚な石の扉が両側に押し広げられ、暗い内部の奥から七色の光が漏れ出している。最初は反射かと思った。だが、目を細めて見れば、それは光ではなく、鎧だった。光そのものを纏ったような甲冑の列が、ゆっくりと湾の内側へと整然と進み出てくる。ダリウスが息を呑み、言葉を失う。アシェルの顔にも、理性の光がわずかに揺らいだ。
船長が静かな合図を送り、舫い綱が岸へ投げられる。濡れた麻縄が環に通され、滑車が短く鳴き、錨鎖が水を払いながら落ちていった。タラップが軋みを立てて下ろされ、リアナは甲板の塩気と木の油の匂いを背に、最初の一段へ足をかける。靴底が潮で冷たくなり、石段に体重を移すと、海の呼吸が足裏から伝わった。アシェルとダリウスも続き、三人は港の石畳へ降り立つ。背後で帆がたわみ、船体がゆっくりと潮に馴染んだ。
騎士たちは――女だった。しかも、その姿は人間のものとどこか違う。背が高く、骨格がしなやかに長く、肩から背にかけて甲冑がまるで生きているように波打っている。光沢は金属ではない。鱗のような質感――まるで、竜の革を削って作られたようだ。七色の虹彩が表面を走り、角度を変えるたびに蒼から紫へ、紫から翡翠へと流転する。見る者の目がくらむほどの輝きだ。
リアナは言葉を失って立ち尽くした。彼女たちはまるで神殿の像が歩き出したかのようだった。整然と並んだ列の中心に、一人の少女が立っていた。その存在を見た瞬間、リアナの心臓は一度だけ、痛いほど跳ねた。
少女は細く、華奢で、まるで光そのものが人の形をとったようだった。長い銀青の髪が風に舞い、頬にかかるたびに海の青を反射する。耳は人よりも長く尖り、頭には、宝石のような質感を持つ角の突起が二本、優美な弧を描いていた。甲冑は彼女の身体に吸い付くように形を合わせ、波のような文様が胸元から腰へと流れている。まるで、海と風の意志が彼女の衣そのものになっているかのようだ。その瞳――青ではなく、海そのもの。底がなく、見ていると吸い込まれそうになる。
港の人々は、彼女を見て、戸をさらに閉めた。中から祈りの声が聞こえた気がした。リアナは知らず、アシェルの袖をつかんでいた。アシェルは目を細め、いつもの理性的な冷静さを保ちながらも、ほんの一瞬、呼吸を詰まらせたように見えた。
「……やってみるさ」
小さくつぶやくと、彼は前に進み出て、片膝をつき、丁寧に頭を下げた。
「我々は西の果てより参りました。ローゼン帝国の調査団です。私が代表のアシェル・アークレインです。同行する学者のダリウスとリアナを伴っています」
その声は、静まり返った港の空気を切り裂くように響いた。少女はまぶたを伏せ、ゆっくりとアシェルたちを見た。表情は動かない。けれど、その瞳の奥にわずかな光が走ったように見えた。やがて、透きとおるような声が響く。
「あなたたちの言葉は理解できた。こちらも、あなたたちの言葉で話そう。我々の言葉は……もう失われてしまったから」
声は静かだったが、空気を震わせるような響きを持っていた。音が届くたびに、甲冑の表面の光が共鳴して波打つ。リアナは耳の奥が痺れるような感覚に襲われた。
「事情は理解している。アシェル、リアナ――あなたたち二人のことは知っている」
その言葉に、リアナの背筋が冷たくなる。なぜ彼女が、自分のことを知っているのか。ダリウスが驚いたように二人を見る。リアナとアシェルは、視線で「どういうことだ?」と交わしたが、答えはどちらにもなかった。少女は静かに続けた。
「前回の調査のとき、あなたたちを見ていた。挨拶が遅れたな。名を名乗らせてほしい。私は――この国を統べる者だ」
その瞬間、周囲の女騎士たちが同時に膝をついた。鎧が一斉に鳴り、光が地面に反射して、港全体が一瞬、昼よりも明るくなった。リアナの喉が震えた。
「……では、あなたが――竜の女王?」
少女は静かに首を横に振った。角が微かに光を返し、風が彼女の髪を揺らす。
「母上は不在だ。私は、その娘。竜王国の王女――アステリア・タラッソス」
その名が告げられた瞬間、空気の層がひとつ、崩れたように感じた。港の奥から低いざわめきが起こり、遠くで誰かが祈る声がした。アシェルは言葉を失い、ただ立ち尽くす。彼は直感していた――この少女が発する存在の気配は、人ではない。時間の奥に埋もれた「なにか」が、いまここで形を取っている。彼女の周囲の空間はわずかに歪み、光の速度さえ変わっているように見える。
リアナの胸の奥が疼いた。アステリアの視線が、まっすぐに彼女を捉える。その目に、かすかに驚きと、懐かしさのようなものが宿った気がした。リアナは息を詰める。心臓が、まるで自分のものでないように高鳴る。どこか遠くから、誰かが名を呼んでいるような――深い海の底から響く声が、また聞こえた。
波の音が消え、風も止んだ。アステリアの白い髪が静かに揺れ、七色の光がその周りを漂う。その姿は、かつて竜が人の形をとったと伝えられる古の姫君の像そのものだった。リアナは理解した。いま目の前にいるこの少女は、ただの伝説の証人ではない。
――この海そのものの記憶、その中心に立つ者。
アステリアは一歩、前に出た。海風が再び吹き、甲冑の鱗が微かに鳴る。その声は、世界の輪郭を変えるように響いた。
「あなたたちは再びこの地を訪れた。海があなたたちを覚えていたように、私もあなたたちを覚えていた」
リアナの頬を風が撫で、涙がこぼれた。理由はわからなかった。ただ、懐かしいものに再び触れたような感覚――記憶よりも深い、血の底の懐かしさだった。アシェルはその横顔を見つめ、言葉を失う。この少女の存在が、伝説でも、信仰でもなく、確かな現実であると、彼の理性が告げていた。ダリウスは震える手で手帳を取り出したが、筆が走らない。誰もが理解していた。
――この瞬間、世界はひとつの神話を取り戻したのだ。
海は沈黙し、光は滲み、風が金の粒を舞わせる。アステリアが微笑む。その微笑みは、夜明けに似ていた。
— 第三章終 —




