第二十六話 霧の海、声なきもの
海は、あまりにも穏やかだった。潮の満ち引きさえ音を潜め、風は舷側に積もった塩をなめ取るように滑っていく。航海は一か月を超えた。南の港町をいくつも経由し、補給を重ねながら進むうち、船員たちの表情から最初の昂揚は薄れ、代わりに淡い倦怠が船上を支配し始めていた。
その朝、霧が訪れた。水平線を飲み込み、空と海の境を溶かし、世界を一枚の白い布で包み込んだ。羅針盤の針がかすかに震え、沖のブイの鐘が遠くでぼんやりと鳴った。リアナは甲板に出て、手摺の冷たさを指先で感じた。波の音が、まるで霧の奥からではなく、内側から響いてくるように思えた。
ふと、視界の端を何かが過った。人の影のようでもあり、ただの光の濃淡のようでもあった。霧の揺らぎが一瞬、誰かの形をつくる。白い衣、長い髪、足首まで沈んだ水。リアナは息を呑んだ。影は声もなく、ゆっくりとこちらを振り向いた気がした。その唇が何かを言った――けれど、音は霧に吸い込まれた。胸の奥が、かすかに疼いた。冷たくも懐かしい痛み。瞬きしたときにはもう、影は消えていた。
「こうなると、次は幽霊船が出る番なんだがな」
背後から聞こえたダリウスの声は、どこか真顔だった。リアナは振り返って微笑した。
「先生、何かの本の読みすぎ?」
「子どもの頃に読んだ航海譚さ。こういう霧の日には、亡霊や沈船の幻影が現れるものだと書かれていた」
彼は少し肩をすくめる。
「まったく、物語は現実より騒がしいものだ。――幽霊船の一つも現れないとなると、少し肩透かしだね」
リアナはあやすように笑った。
「見えないものを追っているのは、わたしたちも同じでしょう? 竜の国だって、半分は物語なのだから」
そのやり取りを聞いていた船員たちが、どっと笑い声を上げた。
「おいおい、ほんとにおとぎの国なんてあるのかね、博士!」
「俺ぁもう、帰りの酒代のほうが気になって仕方ねえ!」
笑いの中に、どこか不安が混じっている。白い霧の中では、冗談もお守りのように口にしなければ落ち着かないのだ。甲板の片隅では、ボランティアの若者たちが退屈そうに日誌をつけている。最初の頃は海鳥の名前や潮の香の違いを記録していたが、今ではページの隅に落書きが増えていた。女たちのボランティアは水夫の視線を避けてリアナの陰に集まり、小声で「本当に海の下に街が?」とささやき合う。その向こうで、船員の何人かがリアナの方を見てひそひそと笑った。声は風に溶けて聞き取れないが、内容は想像できた。
「あの女は、見た目がいいから王子様に気に入られてるだけさ。おとぎ話でもしてそそのかしたんだろうさ」
航海の長さは、誰の中にも小さな毒を育てていく。リアナはそれを知っていた。霧が深くなるたび、彼女の耳には奇妙なさざめきが届いた。風の音とも波の音とも違う。低く、柔らかく、まるで遠い昔の言葉が水の中から呼びかけているような。その旋律は、どこかで聞いたことがあった。あの夜明けの海で――竜が歌った、あの音に似ている。リアナは目を閉じ、頭を振った。「気のせいよ」と自分に言い聞かせた。だが、心臓の奥がその調べに呼応して、微かに鼓動を強めた。アシェルはといえば、まるで霧そのものを楽しむかのように、甲板を歩き回っていた。
「おはよう、よく眠れたか?」
「風は少し東寄りだな、悪くない」
船員一人ひとりに気さくに声をかけ、背を叩き、笑みを交わす。その育ちの良さが裏目に出ることを、彼だけが知らなかった。甲板の隅では、男たちが囁き合う。
「やれやれ、王子様の遊びに付き合わされてるんじゃねえのか」
「貴族の気まぐれってやつさ。退屈しのぎの冒険だ」
それでもアシェルは、彼らの冷笑に頓着しなかった。彼の笑みは本物だった。人を信じるという一点において、彼はどこまでも頑なだった。霧は三日ほど続いた。やがて、霧がゆっくりと薄れていく。朝日がその幕を押し分けるように昇り、輪郭のない海が再び形を取り戻す。そのときには、誰もが少しほっとしていた。
――何も起こらなかった。幽霊も亡霊も、物語のような奇跡も。
ただ、湿った空気と、塩の匂いと、疲れた笑いだけが残った。霧の向こうに、岩礁が見え始めた。それは、いくつも並んだ黒い牙のよう。航路の先頭には、行き慣れた船長の乗る先導船がいる。手旗の合図が、順に伝わっていく。船団は一列となり、慎重に進んだ。波が岩に砕ける音が響くたび、ボランティアの誰かが息を呑む。一歩間違えば座礁する。だが、岩礁はやがて姿を変えた。
「……支柱だ」
誰かが呟いた。リアナも身を乗り出して見た。岩のように見えていたものは、実際には巨大な柱だった。波打ち際に無数に立ち並び、まるで沈んだ都市の門のように、海の底から天へと伸びていた。船員たちの顔から嘲笑が消えた。もう誰も「王子様の世迷いごと」などとは言わなくなっていた。
港に近づくにつれ、水は澄み渡っていった。海面の下に、かすかに輪郭を持った街の影が見える。色とりどりのサンゴ礁のあいだを、銀の魚が泳ぎ、甲羅を光らせたウミガメがゆるやかに通り過ぎる。イルカが跳ね上がり、しぶきが陽光を砕いた。リアナは手摺に身を預け、その光景を見つめていた。そこにあるのは、死ではなく、生の連続だった。滅んだはずの国が、なおも海の下で息をしている。
そのとき、視界の底で何かが揺れた。海中の街並みのあいだから、一瞬、人の影のようなものが動いた。銀青の衣、長い髪。それはあの霧の中で見た幻影と同じだった。リアナの胸に、ざわりと冷たいものが走る。影はゆっくりと片手を上げた。まるで水の底から「来い」と招くように。彼女の足が、一歩、無意識に前へ出た。海が、呼んでいる。そのとき、誰かが背後で声を上げた。
「見ろ! 海底の街だ!」
声に我へ返り、リアナは息を呑んだ。目を凝らすと、影はもうどこにもいなかった。ダリウスは船首に立ち、望遠鏡を覗き込んでいた。何度も角度を変え、海図を広げ、あらゆる方角を確かめる。やがて、彼は低く呟いた。
「……これが、かつて海上にあった都市なのか」
誰にともなく言った言葉だった。
「ここに人が住み、学び、統べる者がいた。いったいどんな人物だったのだろうか」
彼の声は、いつしか敬意の響きを帯びていた。リアナはその背中を見つめた。霧も、不信も、嘲笑も――この光景の前ではすべて無意味だった。それを見た誰もが、言葉を失い、ただ静かに頷いた。
五隻の船団は、竜王国の入り江へと滑り込んでいった。澄んだ水の下に、古代の街並みが金の線を描いて沈んでいる。風が凪ぎ、帆がゆっくりと垂れた。海は、深い呼吸のように静まり返った。そのときリアナは確かに感じた――この海の下には、まだ目を覚ましていない心臓がある。自分たちは、その鼓動の上に立っているのだ、と。




