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星の織りなす物語 ACHERON  作者: 白絹 羨
第三章 忘れられた王国

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第二十五話 風の道行

 港の朝は、硝子のように澄んでいた。帝都の南、潮流が交わる交易港――かつて数百の帆が林立したその埠頭も、いまは寂れて久しい。戦で交易路が絶たれ、荷を積む商人も消え、錆びた滑車だけが軋む音を立てている。

 けれどその朝、(みなと)は久しぶりに息を吹き返していた。白い帆が張られ、縄の軋む音、塗り直された船腹の木の香り、甲板を磨く若い声。五隻の船が、同じ紋章を掲げて並んでいる。羅針儀と竜――新設されたアシェル財団の旗印だった。船は思いのほか早く揃った。戦で失職した漁師たちが、彼らの呼びかけに応じたのだ。


 ――もう一度、海へ出たい。


 それはどの男も同じ言葉だった。船団は沿岸用二隻、外洋用一隻、物資補給船一隻、そして帝都との往還船一隻――合計五隻。かつて海を知り尽くした男たちと、夢だけを携えた若い学徒とが、ひとつの波に乗ろうとしていた。

 リアナは久しぶりに潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。海は帝都の書庫とはまるで違う。理屈ではなく、心の奥の記憶を呼び覚ます匂いだった。甲板ではダリウスが、見慣れぬ縄の結び方に手こずりながら、羅針盤の方位を確かめていた。陸の学者らしい慎重な仕草だが、その目は少年のように輝いている。初めての海――そのぎこちなさが、かえって新鮮に映った。

 アシェルの手には、見慣れない黒革のケースがあった。甲板の上にそれをそっと置き、留め具を外した。中から現れたのは、磨き上げられた金属とガラスの塊――新しく設計された大型カメラだった。


「改良型だ。フィルムの感光も速いし、レンズも二段階の焦点が使える。一度の航海で数百枚は撮れるぞ」


 彼は得意げに言いながら、三脚を立て、レンズを陽の光に向けた。レンズの中で、海と空と帆が一枚の絵のように重なった。


「よし、全員、集まれ!」


 船員たちが笑いながら並ぶ。年季の入った漁師の顔、若い学徒の顔――それぞれが潮風に焼けて光っている。アシェルは少し後ろに下がり、光の角度を測ると、シャッターの糸を指にかけた。


「三つ数えるぞ――一、二、三!」


 カシャン、という金属の音が、潮の音に吸い込まれる。そのあと彼はリアナとダリウスを手招きした。


「君たちも撮っておこう。記録は事実だけじゃない。表情も残すんだ」


 リアナは少し戸惑いながらも、風に髪を揺らして立った。ダリウスは背筋を伸ばし、しかしぎこちなく微笑んだ。アシェルはその姿を見て、小さく笑った。


「悪くない。歴史に残る最初の顔ぶれだな」


 シャッターが再び切られた。陽光がレンズの奥で跳ね、船上の空気までも焼き付けるようだった。


「出航だ!」


 短い号令。舵を握る船長がうなずき、錨が引き上げられる。鎖が鳴り、波が跳ね、五隻の船がゆっくりと港を離れていく。見送りの声が遠ざかる。埠頭に立つ子どもが手を振り、港の塔の鐘が一度鳴った。風向きは南東。帆が大きく膨らむ。船団は東の果て、竜王国の海へ向けて滑り出した。

 海は驚くほど静かだった。春の終わり、潮風は冷たく、陽射しは柔らかい。白い波頭が船首で(はじ)け、塩の粒が頬に散る。リアナはそれを手の甲で払った。この感覚――二度目の海。知っているはずの匂いが、まるで別の意味を帯びて胸に沁みた。背後には、港の漁船群が霞んで見えた。もうすぐ、陸の色が消える。

 初日は沿岸航路を南下し、入り江の小島を伝って東へ進んだ。昼には海鳥が群れ、夜には星が甲板を照らした。ある朝、イルカの群れが現れた。十数頭の背が陽光を受けて銀に光り、船団の舷側すれすれに並走する。ひとつが高く跳ね上がり、水飛沫が虹を描いた。若い学徒たちが歓声を上げ、ダリウスさえも双眼鏡を下ろして見とれていた。

 リアナはその光景を胸に刻むように見つめていた。彼女の中で何かが静かにほどけていく――陸の理屈では測れない、生きている海の呼吸。()が傾く頃、空の色が変わった。紫と金のあいだで、雲が薄く溶けるように散っていく。アシェルは船首に立ち、風を測っていた。彼の髪が潮に濡れ、光を帯びる。


「竜がいなくてもいいな。これだけで十分(じゅうぶん)、世界は神話だ」


 冗談めかして言ったその言葉に、リアナは微笑んだ。


「そうね。――でも、竜の眠っていた場所を探しに行くのよ」


「だったら、俺たちはその夢を起こしに行くんだな」


 夜になると、海は鏡のように凪いだ。星々がそのまま水に落ち、船が空の上を進んでいるようだった。 甲板では若い生徒たちが星図を広げ、海上測位の練習をしている。リアナはその輪の外で、かつて自分も同じ星を数えた夜を思い出していた。ランプの明かりの下、ダリウスが古い地図を広げ、定規を滑らせている。その姿は、初遠征のはずなのに、もう航海士のように板について見えた。


「この星の角度なら、明日にはアルニア諸島が見える」


 リアナはその声を聞きながら、柵に寄りかかって夜風(よかぜ)を受けた。潮の匂いの中に、かすかに花の香が混じる。島の花粉が風に乗っているのだろう。どこかで波が砕ける音がした。遠くでクジラの声が響いた。低く、深く、どこまでも広がっていくような音――海そのものの息遣い。誰も言葉を発しなかった。ただ、その音に耳を傾けていた。

 翌朝、群青の空の下、船団は新しい島影を見た。岩肌に朝日が差し、白い雲が流れていく。リアナは思わず息を呑んだ。


「……綺麗ね」


 朝の光が海面を金に染め、風が帆を透かしていた。


「長い旅になりそうだわ」


 彼女の隣で、アシェルが頷いた。


「いい旅になるさ。海は、いつだって違う顔を見せる」


 リアナは微笑み、目を細めた。


「――ええ。二度目でも、初めてみたいにね」


 海風が髪をなびかせ、帆が大きくはためいた。五隻の船団は光の道を渡るように進んでいった。空と海の境が消え、世界がひとつになる。――新しい旅が、再び始まったのだ。

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