第二十四話 灰白の司書、地図の鼓動
帝国図書館・特別閲覧室。高窓から射し込む真昼の光が、埃を金の粒へと変え、無数の書架の影を長く床に落としていた。革と膠と古紙の匂いが、静謐の底で溶け合い、時の層をなす。机の上には、濃紺のビロードに包まれた木箱。そこから取り出されたガラス乾板が、一枚ずつ、白手袋の指先によって斜光へ掲げられていく。
「…………」
灰白の髪をすっきりと結い、丸眼鏡の奥の瞳だけが若い――この図書館の古参司書、セラフィナ・ロウは、息を忘れたように乾板を見つめ、喉の奥で小さく唸った。皺の刻まれた唇がやっと開く。
「言葉にならないわね……。デーモンの暗黒時代よりも前――そんな人の時代の遺跡が、この世に残っているなんて」
彼女は乾板を持つ手をわずかに震わせ、別の一枚へと移った。水面から突き出た巨柱、層をなす岬の断面、海中に消える直線的な陰翳――。
「見て、この構造。基礎の打ち方が現代とまるで違う。地盤の揺れを逃がすために、荷重を分散するよう計算されているわ。柱は中空で、内部に螺旋の補強が走っている。高層建築――あるいは巨大な神殿の天蓋を支えるためのものね。もともとは海ではなく、地上にあった建物よ。沈降の圧力に耐え、なお形を保つなんて……理性を極めた構造が、ここまで美しいなんて。まるで理屈そのものが祈りの形になっているみたいだわ」
隣の机では、ダリウスが展開図を広げていた。海底測量の写し、潮流図、そしてリアナたちの描いた地形素描が層のように重ねられ、その上を彼の指が素早く行き来する。鉛筆の芯で小さな点を打ち、厚紙の端にあてた定規をすべらせ、紙の上に透明な筋道を引いていく。
「……ここと、ここは陸上遺構の基線に一致する。海へ延びる直線が、三度、角度を保持したまま消えている。潮汐による誤差を補正して――」
彼は一度、計算尺を置くと、地図の中央を軽く叩いた。
「ここだ。中心はここだ。湾口から一直線の参道が伸びていたはずだよ。延長すれば、この海の下――神殿が沈んでいる。間違いない」
机端に腰を掛け、脚を組み、両腕を頭の後ろで組んだままのアシェルは、口角だけで笑った。自信が、椅子の背もたれごと室内の空気を押し広げている。対照的に、リアナは背筋を正して椅子に腰を下ろし、膝の上で手を重ねていた。緊張の気配を抑えた、礼儀正しさ。
セラフィナが身を乗り出し、乾板を差し出す。
「この上から見下ろした全景。岬じゃない、ビルディングよ。外郭の壁面が地形に化けている。人が作った山脈。こんなものを築く意志が、かつての人にあっただなんて――ねえ、あなたたち、本気で歴史を書き換えるつもりでしょう?」
アシェルは片眉を上げ、軽くあくびを噛み殺してから言った。
「で、君らはさ――我々がこの世紀の発見をしていたあいだ、何をしていたのかな?」
アシェルは、ひと呼吸遅らせて笑った。リアナが横目で睨む。ダリウスは苦笑を浮かべ、紙の上に置いた手で額を掻いた。
「帝国は、これ以上の予算を出せないと言ってきている。東方戦線で予算は干上がり、補助金の枠も、もはや数字すら残っていない。セラフィナが貴族院の委員に掛け合ってくれていたが――」
「ええ、何度も行ったわよ。だけどいまは防衛で手一杯。帝都を捨てて西へ逃げる算段をしている貴族すらいる。文化財? 学術? 書庫の天井より低く見積もられているのが現実」
セラフィナは肩を落とし、すぐにまた眼鏡を押し上げた。
「むしろ――アークレイン卿のほうが余裕があるように見えるわね」
アシェルの表情が、ほんのわずか歪む。
「父上が? ……あの人なら相変わらず遺物集めさ。竜王国だろうと、遺物が出なければ興味は向かないよ」
セラフィナが挑むように、細い顎を上げた。
「じゃあ――あなたは?」
紙図の上から、ダリウスも視線を上げる。リアナも、静かにアシェルを見た。閲覧室の奥で時計が一つ、乾いた音を打つ。
「この前の出版で、ある程度の資金はできた」
アシェルは脚を組み直した。
「僕個人の資産も、まあ……」
言葉尻が濁る前に、リアナが淡い声で切り込んだ。声は柔らかく、内容は鋼の芯を持っていた。
「ここは機会じゃないかしら。帝国の調査じゃない。辺境王も興味がない。なら、この調査は――すべてあなたの名義で進められる。発掘も、報告も、出版も。責任も栄誉も。『男らしく、俺に任せろ』、くらいは言えるでしょう?」
アシェルが瞬きし、笑うのをやめた。冗談に逃げる余地を、彼女は与えなかった。ダリウスが地図を丸め、机に震える両手をついた。
「俺からも頼む。今度は俺も行く。セラフィナは帝都で後方支援、記録の整理と発表の準備。隊は手弁当でも組める。若い学徒は志願するさ。航路は押さえた。必要なのは――旗だ」
セラフィナが微笑む。年輪の刻まれた笑みは、少女のように軽やかだった。
「私は資料を編むわ。乾板はすべて複写して、一次所見を本文に付す。現時点でも、特級の価値がある。あなたたちが再び海に潜るまで、この図書館で、あなたたちの未来の証拠を整えておく」
閲覧室を満たす光が、四人の沈黙を薄く包む。遠くの書架で、誰かが梯子を滑らせる音がした。アシェルは椅子から腰を起こし、背凭れに預けていた両腕をほどいた。しばらく天窓を見上げ、そののち、少年のような表情で笑った。
「――わかった。僕に任せろ」
言葉が床板に落ち、音になった。
「財団を立ち上げる。研究・発掘・記録・保存――全部まとめて、海に向けて動かす。旗は僕が掲げる。資金は出版の収益からの拠出、足りない分は私財を投じる。寄付を募る枠も作る。名前だけの財団にはしない」
リアナは小さく息をつき、うなずいた。緊張が指先から抜け、膝の上の手がゆるむ。ダリウスは机の角を軽く叩いた。
「出立計画に移ろう。先遣は五十名。測量、潜水、保存、記録、医療。船は三隻――沿岸用、外洋用、物資用。現地雇用の艇も見込む。目標は――ここ」
彼は再び地図の一点を指した。海の中央に、小さな朱の点が置かれる。紙の上の朱が、鼓動のように目に残る。
「ここを潜れば、必ず神殿がある」
セラフィナが乾板を箱に戻し、最後に一枚、胸に抱いた。金の装飾が浮き彫りになった古い書籍のように、慎重に。
「あなたたちの見てきた海は、ページの外にある。だからこそ、ここに物語を置いておかなければ。なかったことにされないように」
アシェルは笑い直した。今度の笑みは、虚勢ではなく、負う覚悟の形だった。
「一旗、あげてみせるさ。――海の上で、じゃない。海の下で」
閲覧室の高窓から雲が一枚流れていく。金の塵が軌道を変え、見えない針の先で新しい地図が息づいた。そこから外へ、外へと、線が延びていく。アシェルは乾板の箱を閉じ、蓋に指を置いた。




