第二十三話 黎明の底で
夜が終わりかけていた。海と空の境を曖昧にするような霧が丘を包み、潮の香りが息をするたびに胸の奥まで染みてくる。風は止み、世界全体が静止したかのようだった。リアナは天井を見つめていた。暖炉の残り火は灰に沈み、くすぶる炎が壁に赤い脈を刻んでいた。小屋の中ではアシェルが眠っていた。呼吸の音が規則的で、遠い記憶のように穏やかだった。
扉を押し開けると、外はまだ蒼かった。夜の名残を引きずる空の下で、草は露をまとい、一本ごとに月の光を抱いていた。階段を下りると、波の音がすぐそこにある。海は眠っているように見えたが、わずかなうねりが、底に潜む呼吸の気配を伝えていた。リアナは崖の縁まで歩き、足元の石を踏みしめた。下には鏡のように静かな水面が広がり、夜明けの気配がその鏡の縁を銀に染めていた。潮風が頬を撫で、髪をさらい、塩の香りが心の奥をくすぐった。
そのとき、海の底から微かな音が立ちのぼった。最初は風のいたずらかと思った。だがそれは風ではなかった。まるで海そのものが低く歌っているような――ゆっくりとした律動をもつ、柔らかく、けれど確かに重さを感じる響きだった。岩肌を伝って空気が震え、足元の砂がかすかに鳴った。音は長く尾を引き、まるで世界そのものを包み込むかのように広がった。リアナは息を呑んだ。それはクジラの歌を思わせたが、音には意志があった。響きが、海を伝って彼女の内側に触れる。響きはひとつではなく、重なり合い、ゆるやかに旋律を成している。――まるで遠い昔の言葉を、誰かが歌い直しているように。
波の合間に、光を返す巨大な影が見えた。ゆっくりと、水面下を横切っていく。崩れた石柱の間を滑るように通り抜けるその影は、夜明けの光を受けて淡く輝いた。最初はただの海流の錯覚かと思ったが、違った。その巨体の周囲で水が巻き、反射した光が細かく砕け、鱗のような残光を残して消えていった。青でも緑でも銀でもなく、虹の膜のように色を変える光沢。朝日が昇るにつれて、その輪郭がわずかに見えた。滑らかな背。幾重にも重なった板のような皮膚。呼吸のたびに海がわずかに沈む。質量のある存在。――竜。
リアナは動けなかった。夢と現実の境が失われ、ただその光景の中に吸い込まれていく。歌が再び聴こえた。旋律ははっきりと形を持ち、潮の流れのようにゆるやかに高まり、胸の奥に届いた。それは言葉ではない。けれど意味があった。嘆きでも、威嚇でもない。懐かしさに似た響きだった。胸が痛んだ。心臓が、その音に合わせて脈を打った。
背後で扉の軋む音がして、アシェルが現れた。まだ眠気の残る顔で、肩に毛布をかけたまま立ち尽くす。
「……君、こんな時間に何をしてる」
「見て、海を。何かが……歌ってるの」
彼は訝しげに眉を寄せたが、海を見ると、その瞳が見開かれた。
「……あれは?」
「わからない。でも、ただの生き物じゃないわ」
アシェルは砂を踏みしめ、目を細めた。水面の下で光が揺れ、海がその形を映した。波が崩れ、太陽の光が差し込むたび、銀青の鱗がちらりと姿を見せた。
「大きいな……クジラか、いや、そんな形じゃない。背が――長い」
「竜なのよ」
リアナは口に出していた。
「竜が、まだ生きている」
アシェルは彼女の横顔を一瞥し、言葉を探したが、喉の奥で消えた。その代わりにカメラを取り出し、三脚を立てた。蛇腹を伸ばし、焦点を合わせ、光の反射を追う。シャッターが切られるたび、朝の静寂に金属音が響いた。
「撮れるかしら」
「運がよければ。……いや、運なんて言葉で済ませていいのか」
アシェルの声は、敬意と畏れを混ぜていた。光の筋はやがて海の中央へ集まり、ひときわ大きな波が立った。水面が割れ、巨大な背がわずかに浮かび上がる。日の光を浴びた鱗は虹色にきらめき、ひとつひとつの鱗がまるで金属のように硬質な輝きを放った。その姿は一瞬で海の中へ沈み、泡と渦の名残だけを残して消えた。歌も止んだ。潮の音だけが戻り、世界は再び静まり返った。
リアナは唇を開いたが、声にならなかった。心臓がまだあの旋律の余韻を刻んでいる。アシェルはゆっくりとシャッターを閉じ、息を吐いた。
「……幻覚じゃない。確かに竜がいた」
「ええ。歌が、聞こえたの」
「歌?」
「言葉ではなかった。ただ、呼吸のように体の奥に届いた」
アシェルは首を傾げ、レンズ越しに海を見つめた。
「言葉で説明できる範囲を越えている。……信じるよ」
リアナは海を見下ろした。波の模様は次第に緩やかになり、朝の光が水面を満たしていった。けれど彼女の耳には、まだあの旋律が残響していた。呼び戻すような、遠い記憶を撫でるような響きだった。彼女は静かに呟いた。
「この海は、まだ生きているわ。……あの歌は、心臓の鼓動。竜王国の」
アシェルはカメラを下ろし、ため息のように笑った。
「本当に、そうかもしれないな。もしこの海全体が生きているのなら、僕らはその上を歩いているにすぎない」
リアナは彼を見た。彼の横顔は朝日に照らされ、目の下の影が薄れ、瞳の奥に光が宿っていた。言葉を交わさずとも、その沈黙に意味があった。見渡す海は、すでに淡い白光を放っていた。波はゆるやかに寄せ、陽の角度に合わせて淡い銀色を撒いていく。遠くで鳥が鳴き、世界がゆっくりと目を覚まそうとしていた。
リアナは胸に手を当てた。まだ微かに震えている鼓動を確かめるように。母の血の奥にも、この音は流れていたのだろうか――そんな思いが、彼女の中に浮かんだ。竜王国は滅びたのではない。沈んだのでもない。ただ、眠っているのだ。海の底で、呼吸を続けながら。そして、その歌は、遠い子孫の血の中にまで響いている。
リアナはゆっくりと目を閉じ、潮風を吸い込んだ。朝の光は彼女の頬をなで、髪の先で微かに揺れた。もう一度あの歌が聞こえることを願いながら、彼女は静かに立ち尽くした。太陽は高く昇り、銀青の海が世界の輪郭を満たしていった。




