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星の織りなす物語 ACHERON  作者: 白絹 羨
第三章 忘れられた王国

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第二十二話 海に還る言葉

 調査を始めてから、半年が経った。朝には器材の金具が塩で白く曇り、夜には寝袋の綿が湿気で冷えた。丘の上の仮設小屋には、潮風が絶えず吹き込み、床板は軋み、壁には海藻の匂いが染みついている。最初の頃は胸を高鳴らせていた隊員たちの声も、今では波音に溶けるように静かだった。陸地の遺構、海底の地図、潮流の測定。記録は積み重ねられたが、その全体像を描くには、人も時間もあまりに足りなかった。

 夕暮れ。丘の風が潮を運び、小屋の外の丸い木のテーブルの上で焚き火の煙が渦を巻いた。調査隊の面々は疲れた顔で腰を下ろし、炙った魚をつついていた。皿の上には、炙られた魚の皮がかすかに鳴り、潮の匂いが煙と混じる。背後では、波が岩を(たた)き、砕けた音が時折会話を遮った。アシェルは紙の地図を丸めて脇に置き、淡々と告げた。


「一度、戻ろう。ここまでの発見を報告すれば、帝都で本格的な調査団を組める。次は、もっと大きな規模で臨むべきだ」


 その声に、数人の隊員が安堵の息を漏らした。半年もの(あいだ)、硬い床で寝て、潮風に晒され、まともな風呂もない。体力の限界はとうに超えていた。だが、リアナだけは、箸を持つ手を止めたまま動かなかった。瞳の奥に、焦りの火が静かに灯っていた。


「まだ……女王の痕跡が見つからないの」


 リアナの声は、風の音に紛れるほど小さかった。焦燥というより、問いを海に投げるような調子だった。


「この国を象徴していたはずの存在よ。像も碑文も記録も、何ひとつ残っていない。どうしてかしら……そんなこと、ある?」


 アシェルは焼き魚の骨を外しながら、リアナの言葉を潮騒と同じ音として受け流していた。近くのランプの灯が、彼の指に挟まれたガラスのフィルムを透かす。そこには昼間撮った遺跡の影が映り、青白い光が波のように揺れていた。


「アシェル、聞いてるの?」


 リアナの声に、彼はようやく顔を上げた。


「君の話はいつも遠くにあるんだ。神話を追うのはいい。でも全部が分かっちゃったら、神秘なんて残らないだろ」


「……神秘、ね」


「そうさ。もう古代都市が実在したと分かった。あとは測量と報告書の山だ。……物語はもう終わったんだよ、リアナ」


 彼の口調は淡々としていた。焚き火の火花がぱちりと(はじ)け、沈黙がその後を包んだ。他の調査員たちは互いに顔を見合わせて、気まずさを紛らわせるように笑った。


「まぁまぁ、博士。殿下の言うことも一理ありますって。これだけの発見です、十分な成果ですよ」


「そうそう。しかも金銀の一つも出てこないあたり、ここはもう何度も盗掘されたんでしょう。今残ってるだけでも奇跡ですよ」


 誰かがそう言うと、場に軽い笑いが生まれた。アシェルは火の先で魚の身をつつき、ぼそりと呟いた。


「俺たちは、ただ再発見してるだけだ。ここの漁師たちは、ずっと前からこの遺跡を知ってた。俺たちはよそ者の学者ってわけさ」


 リアナは何か言いかけて、口を閉ざした。焚き火の火が(かぜ)にゆらぎ、彼女の頬の塩を橙に染めた。唇が、何かを言いたそうに震えた。


「……そうね。一度戻るのは仕方がないことだわ」


 その声には、諦めと決意が半分ずつ混じっていた。だが、胸の奥には別の思いが渦を巻いていた。


 ――竜の血。


 母の瞳に宿っていた金色の光。父が沈黙した海辺の記憶。リアナはその意味を、波の音の下でゆっくりほどいていった。(はは)や父はなぜこの土地を語ろうとしなかったのか。なぜ自分の出生(しゅっせい)を「竜の血の末柄」として誇っていたのか。リアナは焚き火を見つめながら、心の中で静かに整理していた。もしかすると――竜も女王も、実在の存在ではなかったのかもしれない。

 天災で沈んだ国を、人々は竜が死んだと伝えた。復興できなかった悲劇を、女王の永遠の眠りとして神話に変えた。そう考えた方が自然だ。竜は「(くに)」であり、女王は「民」。あるいは――「母」そのものだったのかもしれない。竜が死んだとき、この国は海に飲まれ、民はその海と共に消えた。――そういう比喩なのだと、思えば思うほど、胸の痛みが鋭くなる。アシェルは空の皿を重ねながら、軽い口調で言った。


「そうだろ? 神話ってのは、だいたい誰かがわかりやすくしようとして作るもんだ。俺たちの仕事は、ロマンを現実に変えることだ」


 調査員の一人が笑ってうなずく。


「さすがアシェル様、言葉が上手い!」


 場が和んだ。リアナもその笑いに合わせるように、かすかに微笑んだ。だが、その笑みはすぐ消えた。

 夜は深く、風が冷たくなった。海の向こうには(ともしび)一つなく、漆黒の闇が広がっている。リアナは焚き火から離れ、崖の縁に立った。波の音が絶え間なく響き、潮の香が頬を刺す。暗闇の底に、沈んだ都市の影がある――そう思うだけで、心臓が痛んだ。何かが呼んでいる。母の声のようにも、竜の呼吸のようにも感じられた。


「……アシェル」


 背中越しに彼の名を呼びかけたが、返事はなかった。振り向けば、彼は焚き火のそばで、もう眠りかけている。その横で、隊員たちは冗談を言い合い、笑っていた。リアナは視線を海へ戻した。――あの闇の下には、まだ何かがある。女王の記録でも、竜の死でもない。もっと深く、もっと古い、海そのものの記憶のようなものが。彼女はそっと目を閉じた。波が足元の岩を舐め、冷たい飛沫が頬にかかる。その一滴が、涙か潮かもわからないまま、海に還っていった。

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