第二十話 天蓋の都
潜水用のスーツは、もともと戦闘のために作られたという。刃をはじき、炎を逃がし、関節だけが嘘のようにしなやかに動く。内側の薄い符布が体温を循環させ、縫い目には海獣の膠に魔導塗膜――どこを取っても「海底の戦場」を前提にしている。辺境王家の倉庫に眠っていた試作群の一つらしい。それを着たアシェルが、帝国領の朝焼けの浜で両手を広げたとき、私は思わず噴き出した。
「何その恰好。新しい流行? それとも海草採りの盗賊?」
「流行でも盗賊でもない、君の装備だよ、リアナ」
「まさか。そんな恥ずかしい全身タイツ、着るわけ――」
言い終える前に、私は沈黙した。たしかに恥ずかしい。けれど、海は一瞬で私の矜持を奪っていた。海中で見た景色、翡翠色の薄い層がとろりと剝がれ落ち、すぐ下に蒼い縞が走る、まるで世界の年輪だった。陽光は波紋で細かくちぎれ、砂に刻まれたレンズは海底の壁画を数えきれないほど複製している。岩陰には呼吸するみたいに開閉する貝群、砂の綿毛に潜る幼魚、果敢な海燕の影がひらりと刺さっては消えた。
私はスーツに腕を通し、アシェルが背中のジップを引き上げる音を聞きながら、子どものように頷いていた。海は、羞恥より早く私を攫う。
問題はただ一つだった。長く潜るには、どうするか。アシェルは課題を紙片に細かく書き出し、背嚢に詰めると、帝都への出張を繰り返した。魔導士団の符術技官、水脈学の老教授、鍛造と術式の複合職人――会える限りの「知」を梯子した。私と弟のカイルが同行したこともある。出立のたび、隊商の馬は東の土をあげ、翡翠の野を渡り、石畳の広い背骨へと合流する。
一万年の歴史を持つ都――帝都は、世界が自分の姿を作り直す練習台にしたかのようだった。天へ届きそうな尖塔の列は、古い神殿の礎石の上に新たな学舎をまたぎ、石の皮膚に真鍮の血管が縫い込まれている。空には飛空艇、塔と塔の間を渡る気送管が唸り、下層の市場には獣人、砂漠の連合商、氷海の漁民、そして亡国の書記官――あらゆる言語が同時に立ち上がっては混じり合った。人が作り直した都市。過去を積み上げたまま、別の未来にねじった巨大な模型。過去と未来が同じ頁に書かれたような都市。人が造り替えた世界。カイルは初めての夜に、通りに立ち尽くして泣いた。帰りたくない、と。
「この街は、絵の具の匂いがする。すべてが揃ってる。薬草の屋台だけで森に入らなくてすむ」
アシェルと私は、宿の窓から彼を見つけて深く息を吐いた。彼は考古学に興味を示さない。絵画と薬学――都会で生きる方法を見つけ、見事に馴染み、根を張った。いつかこちらを振り向かない日が来るとしても、それはそれでいいと私は思う。兄妹は、同じ川を別々に下っていい。
帝国図書館の白い回廊を抜けると、久しぶりのダリウスがいた。紙の匂いと日差しの色が薄くなり、少し痩せた。司書たちと並んで古い目録をひらき、「竜王国」「海の女王」「東辺の都」に関わる語根を洗い出している最中だった。
「もうすぐだ、リアナ。許可も、予算も、ようやく通りそうだ」
「先生、最近は事務ばかりね。ちっとも現場に来ない。フィオラが『会えなくて寂しい』って言ってたわよ」
ダリウスは気まずそうに笑って、視線を紙へ戻した。
「すぐに行けるさ。君たちが潜るその場所に、学術隊を送る目処が立つ。……計画を話そう」
計画は、現実の重さをしていた。竜王国の地点特定、範囲、年代、層位の連続性。海中と陸上の接点。文化財保護の体制。口承と地誌の照合。海象・気象・疫学対策。撤収計画。報告の配布。――紙の上では端正な箇条書きでも、ひとつでも欠ければ遠征は瓦解する。
本来なら軍の飛空艇や戦艦が支援に回るはずだった。けれど帝国は今、北からのアンデッド侵攻に押され、余剰の艦を持たない。空も海も、別の戦線で穴だらけだ。結論はひとつ。船を乗り継ぐ。ダリウスは帝都に残り、資金と許可と学術連携を固める。アシェルが装備と人員を束ね、私が潜水調査を率いる。図書館の高窓から差す光が、計画書の角を白く燃やしていた。
数カ月後。私たちの船は、風を拾って東を滑った。外洋のうねりは腹の底から音を立て、夜の海は星の反転でぎっしりと埋まる。沿岸の小港で客船に乗り換え、貨物船の甲板に立ち、漁船の空きに乗せてもらい、最後は帆と櫂だけで進む小舟――どの船にも独自の祈りがあり、船底には潮と油と獣脂と人の汗が染み込んでいた。
やがて、水平線に石の針が見えた。一本、二本、数えられない。海から生えた巨柱群は、まるで水底へ逆さに伸びた林で、潮を切るたびに低い唸りを返した。近づくほどにわかる。これは「遺跡を飾る石」ではない。都市の骨だ。海に沈んだ、何かの巨大な中枢の「脊柱」。
舟が入る入り江は狭く、そこに貼り付くように掘っ立て小屋が密集していた。ここが――竜王国、と呼ばれる場所。「王国」と言うにはあまりに慎ましい。だが海面下に眠る影は、地上のみすぼらしさを一瞬で裏返すほど雄弁だ。浜に並ぶのは干し網と塩の棚、打ち上げられた流木と石の錘。人々は痩せているが目が強い。彼らは独自の言葉を話し、文字を持ち、外から来た者に対して確かな距離を置いた。
とりわけ湾の中央、石柱の輪が囲う一郭――宗教施設と思しき区画には、住民でさえ近づかない。いや、近づけない。祭礼の日でも人影はなく、海鳥すら輪の中へ降りない。「そこは、海のものだ」と老女が言った。
私たちは村の外れ、小高い崖の上の小屋を借りた。――というより、私がいたから、かろうじて「貸し与えられた」に近い。アシェルが現地の長と何度も言葉を交わし、写真機を見せ、海中から拾い上げた破片を丁寧に包んで返すのを繰り返した末、リアナの出生場所と顔から感じる血を理由に辛うじての合意。
それでも、そこからの眺めは息を呑んだ。浅瀬の水脈は、幾千もの静脈のように絡み合い、海そのものがかすかに呼吸しているように見えた。大柱は一本一本が微妙に捩れ、頂部で見えないアーチを組む。海霧の向こう、陽の角度が変わると、水面の暗い矩形――沈んだ通りが浮かび上がる。
アシェルは子どものように喜んだ。黒い箱に三脚を立て、蛇腹を伸ばし、化学薬品の匂いを漂わせながら、光をガラスに焼き付けていく。シャッターの刹那、彼はいつもわずかに息を止める。記録は儀式だ。対象に対して敬意を払う、静かな祈りだ。
海に入る日の朝、私は装具を点検した。体になじむウェットスーツ、耐圧符の刻まれたガントレット、アシェルが汗で濡らした指で三度検めたボンベ、呼吸符を封じたマウスピース。腰の防水鞘には、革の手帳と鉛筆。学者である前に潜水士、潜水士である前に記録者。
崖の影に回り込むと、子どもが三人、石の上で私を見ていた。誰も何も言わない。私は笑ってみせ、手帳を少し掲げた。言葉の通じない場所では、道具が挨拶になる。
波の温度は、もう覚えている。膝、腰、胸、肩――冷たさが皮膚を縮ませ、すぐに体の中心へ吸い込まれる。耳の奥で、都市のざわめきが遠ざかる。かわりに、低い鼓動が戻ってくる。私の心臓か、海の心臓か、判然としない振動。
――潜る。
最初の数メートルは、世界が私を値踏みする時間だ。浮力と重りの釣り合いが腰の骨を通り、呼吸の泡が頬を撫でる。視界は翳りに慣れ、色は飽和し、音は減り、形だけが濃くなる。見下ろせば、街区の筋が見えた。石の縁が砂に埋もれ、ところどころから円柱の断面、螺旋状の階段の側面、扉飾りの意匠――海綿と苔と亀裂が覆い、しかしなお「人の手」を明らかに主張する角度のまま眠っている。
私はアーチの欠け目を起点に、格子状にコースを切った。水中で迷子になるのは、考古学者に許されない。手帳のページが濡れることはない。鉛筆は濡れても書ける。私は断面の出方、石材の種類、加工の痕、貝類の付着の層序、潮の向きで露出が変わる場所――すべてを単語の群れにして捕まえた。
ときどき、指先が滑る感触がある。砂ではない。細い、冷たい、硬質の繊維。私は息を止めた。スーツ越しにも、皮膚が覚えた触感――「あの王国」の産業が使っていた、あの「糸」。海と大地の間を縫った、失われた技術の痕跡。眼の奥が熱くなった。ここは、絵本の挿絵の場所ではない。実在した都市だ。歌の残響ではなく、重さのある記憶だ。
浮上すると、アシェルが崖縁でピントを合わせていた。私はレギュレーターを外し、濡れた髪を振って笑った。
「当たりよ」
「知ってた」
「嘘。君の『知ってた』は、いつも半歩遅い」
「じゃあ、半歩遅れてでも、全部撮る」
彼の黒い箱が、海の光をひとつ飲み込んだ。私は崖上の小屋に戻り、手帳を開いた。ページは、誰のためでもない私の地図だ。海の門は、いま確かに開いた。ここから都市へ、そして――伝説と現実の境界へ。
夜、外の張り出しに腰を下ろすと、集落の灯が点々と海を縁取っていた。塩と煙の匂い。遠くの宗教区画は、今日も闇のまま。海は、おそらくそこから始まり、そこへ還る。私は手首に触れ、脈を確かめた。生きている。そして明日も潜る。絵本の余白に落ちた、たった一つの固有名――まだ誰も知らないその名に、指先が届くまで。




