第十九話 竜王国の残骸
潮の香りが満ちていた。崩れかけた石のアーチの下で、リアナは立ち止まり、眼下に広がる海を見下ろした。陽光を受けた水面は鏡のように煌めき、だがその奥には沈黙した影が広がっている。そこに眠るものを、彼女は誰よりも知りたかった。
その旅の始まりは、一冊の本だった。師であり恩人であるアシェルとダリウスが書いた『竜王国伝承集成』――。子どもたちが誰もが幼いころに読み聞かされた「ドラゴン女王の絵本」。それを大人の学術の眼で読み解き、散逸した伝承を集め直したものだった。本はたちまち評判となり、学者の枠を超えて市井の人々に広まり、ベストセラーとなった。
その反響は思いもよらぬ実りをもたらした。全国から手紙が届いたのだ。祖父母が語った伝承、古い歌に隠された節回し、そして中には「ここに痕跡が残っている」と地図や地名を書き送る者もあった。数え切れぬ声が集まり、それが大河のようにリアナの前に流れ込んだ。とりわけ、南方の小さな港町から届いた羊皮紙の写本は決定的だった。そこには「海辺の都が波に沈んだ」という古老の記録があり、石造りの回廊や珊瑚の森を思わせる描写が克明に残されていた。
その流れを受けて――調査はようやく可能となった。資金が集まり、器材が揃えられた。竜王国を探す学術的な潜水隊が組まれ、リアナはその中心に立った。だがすべての家族が同じ道を歩んだわけではない。弟のカイルは考古学に背を向け、都会で暮らしながら絵と薬学に没頭していた。彼の描く肖像画は街の富裕層に人気を博し、薬草の調合も医師たちの注目を集めている。学術の埃に塗れた姉とは違い、カイルは都会の喧騒と光を好み、すっかりそこで根を下ろしていた。
リアナはそんな弟を思い出し、ふと微笑む。彼はきっとこの旅を無駄だと笑うだろう。だがそれでも構わない。彼女には確信があった。――かつて、竜の妃となり国を築いた女王がいた。吟遊詩人の歌に混じり、絵本の挿絵に描かれるその女王は、ただの夢物語ではない。竜王国もまた、幻ではない。
調査隊は港町を発ち、数日の航海を経てこの地に至った。航路は決して容易ではなかった。暗礁が点在し、潮の流れは複雑に渦を巻く。夜ごと霧が立ちこめ、船員たちは古い迷信を口にして恐れた。だが、船首に立つリアナの眼差しは揺るがなかった。やがて霧が晴れると、岩礁の向こうに廃墟が姿を現したのだ。
石造りの橋脚が海に沈み、崩れかけた塔の一部が岩場に突き出していた。海鳥が柱の上に群れ、赤い海藻が柱脚を覆って揺れている。陸に残る町はその一端にすぎず、本当の都は波の下に隠されていることは明らかだった。
リアナは背のタンクを確かめ、黒い潜水服の留め具を締め直した。革製の手帳が防水の鞘に収められて腰にぶら下がっている。潜るためではなく、記すために。彼女は学者であり、記録者であった。岩場に足を踏み出す。潮騒が強まり、波が足元を洗った。リアナは海を見据え、深く息を吸い込んだ。
「――行くわ」
彼女は身を躍らせ、水面を割った。白い飛沫が散り、やがて海は静かに彼女を呑み込んだ。




