第十八話 精霊の嘲弄
木は倒された。斧の衝撃は森を震わせ、鳥の群れを空へと追いやった。根を断たれた巨木は呻き声を上げるように軋み、やがて大地を揺らして倒れ込む。倒木は縄で縛られ、呻く獣のごとく軋ませながら砂浜へと曳き出された。
炉を燃やすために木は焼かれ、黒煙は昼の空を夜に変えた。魚は網に絡め取られ、銀の鱗が無数に打ち上げられる。貝は岩から剥がされ、内臓を露わに干し棚に並べられた。血と塩が混じり合った赤い水が浜を染め、潮とともに海へ流れ込んだ。
大地は削られ、海は濁り、空は黒く覆われた。だがその「汚れ」こそが糧であり、生きるための証であった。人はその煙の下で、飢えを忘れ、未来を語った。
はじめは百に満たぬ焚き火の集落にすぎなかった。だがいつしか人は千を超え、子が産声を上げ、畑が拓かれ、網が幾重にも海に張られた。煙は絶え間なく天へ昇り、潮風に混じるのは塩の匂いだけでなく、人の営みの匂いだった。
エイラは娘たちとともに浜を駆け、タラッソスは海を巡り豊饒をもたらした。人々はようやく「明日」を信じるようになっていた。――その「明日」が壊れることなど、誰ひとり想像していなかった。
それは唐突に訪れた。最初に、大地が低く呻いた。井戸の水が波立ち、地面を這う虫たちが一斉に逃げ出した。やがて地はうねりを上げ、足下の土が波のように隆起し、人々は立つことすらできずに倒れ込んだ。空が暗くなる。陽光は突如として掻き消され、黒雲が裂け目からあふれ出すように広がった。昼が夜へと変わる速さに、誰もがただ呆然と空を仰いだ。
次に、風が来た。冷たい息吹――それが刹那にして獣の牙へと変わる。屋根は宙に舞い、杭は抜け、砂は目と喉を塞いだ。声はかき消え、互いの名を呼ぶことすら叶わない。直後、海が裂けた。沖にそびえ立つ水の壁――黒き城塞が空を塞ぎ、視界を呑んだ。誰かが「逃げろ」と叫んだ。だが足は凍りつき、動かぬまま。次の瞬間、牙を剥いた津波が浜を一息に呑み潰した。
堤防は砕け、石が宙を舞った。家々は軋みをあげて崩れ、木材と人が同じ濁流に翻弄された。干し棚はひしゃげ、塩が泡に溶け、魚と人の叫びが区別もなく渦に飲まれていった。母は子を抱き締め、声を枯らして泣き叫んだ。父は木片にすがり、必死に流れに抗った。子どもは波に攫われ、老人は泥に沈んだ。誰もが濁流に掴まれ、押し流され、世界そのものが水に裏返された。
タラッソスが吠えた。海の底から轟く咆哮が嵐を裂き、波を割った。竜王の巨体が深海から浮かび上がり、鰭が海を押し分け、尾が渦を断ち切った。その背にしがみついた者たちは奇跡のように息を取り戻した。竜たちが応じ、次々に海底から姿を現した。珊瑚を背負ったもの、鰭を翼のように広げたもの。彼らは水を割り、背で人を救い上げ、荒れ狂う津波を抗う壁と化した。
エイラも娘たちと共に飛び込んだ。銀青の髪が水に広がり、闇を裂く灯のように揺れた。ヤコベアは溺れる者を肩に担ぎ、ヨアンナは星の記憶のように波の流れを読み、ジュディアは仲間を指揮して流れを渡った。フィリパは割れた梁を斧で断ち、子を閉じ込めていた木材を裂いた。
幾度も海に潜り、藻に絡め取られた人々を引き上げた。だが波は容赦なく彼らをさらい、指先から命を奪い取っていった。嵐が過ぎ、太陽が再び顔を出したとき――砂浜に横たわる遺体の列があった。髪に砂を絡ませた子、腕に縄を巻きつけたままの男、濡れた衣を抱き締めたままの女。その肌は暮れゆく空の色と同じ灰を帯び、声を上げることもなく眠っていた。守れなかった命は、あまりにも多かった。
その光景を、はるか上空から見下ろす影があった。ひとりは風そのもの。透きとおる羽衣を身にまとい、髪は雲をなでるごとく流れる女――シルフィ。ひとりは水そのもの。滴を纏い、湖のように深い瞳をもつ女――ウンディーネ。二人は雲の上で横たわり、下界を覗き込んでいた。人が流され、竜が吠え、命が砂に散るさまを、まるで小さな遊戯でも眺めるように。
「見なさい、蟻たちが巣を壊されて右往左往しているわ」
シルフィの声は囁きでありながら、突風となって世界を震わせた。
「タラッソスのやつ、隠れて何をしているかと思えば……砂遊びね」
ウンディーネの笑いは水面のさざ波となって大地に届いた。
「いい趣味してるじゃない」
「私たちも混ざってあげようかしら? おままごとの続きを」
言葉は軽く、声音は戯れのよう。だが彼女たちの視線がひとつ落ちれば、海は再び牙を剥き、大地は裂ける。竜と人の営みなど、彼女たちにとってはただの蟻の巣にすぎなかった。壊しては笑い、また積み上がるのを退屈しのぎに眺める――それが精霊たちの「遊び」だった。
エイラは浜に立っていた。膝まで濡れ、冷えきった砂に沈む足を揺るがせながら、泣き叫ぶ子を抱きしめていた。頬には潮と涙が混ざり、髪には海の塩が絡みついていた。風に混じって、確かに何かが嘲る声を感じた。耳に届いたのか、心が聞いたのかはわからない。だが間違いなく、冷たい悪意が世界に忍び込んでいた。
――精霊は認めない。
竜と人が共に生きる国を、笑いながら踏み潰そうとしている。胸を裂かれるような怒りと恐怖が押し寄せた。だがエイラは腕の中の子を決して離さなかった。砂浜にはまだ小さな焚き火が残っている。波に濡れながらも、かすかに赤い火が灯っている。炉にはまだ鉄の鼓動がある。砕けた槌の音が、どこかで絶えず響いている。そして何より、人々の胸には――「明日を生きる」という火が残っていた。エイラは深く息を吸い、声にならぬ誓いを大地に刻んだ。
「ならば私は抗おう。精霊が笑おうとも、明日はここに築かれる。
人と竜とが共に在る国を――必ず生き延びさせる」
その声は波に乗り、焔に溶け、空へと昇った。 その眼はもはや人のものではなかった。海の深みを宿し、大地のように揺るぎなく―― 精霊の悪意すら呑み込む炎を、確かに宿していた。
— 第二章終 —




