第十七話 潮騒の王国
人々が最初に気づいたのは、この海に飢えがなかったことだった。荒れ果てた内陸で冬を過ごした者なら誰しも知っている。畑は凍り、森の獣は姿を消し、薪も食糧も尽きればただ死を待つしかない。だがここでは違った。潮が寄せれば魚群が打ち上げられ、夜明けには海鳥が群れ、岩陰には貝が溢れ、沖にはアザラシが眠っていた。
娘たちの中で最も狩猟に長けたペトラは、その恵みを誰よりも早く血肉に変えた。弓を海へ向けると、矢羽が唸り、水面を裂いて魚が跳ねた。やがて彼女は舟もなく浅瀬へ飛び込み、槍を突き立てる。血が白波を赤く染め、大きなアザラシが砂に転がった。ペトラは迷いなく刃を入れ、肉を炙り、皮を干し、脂を大鍋に注いだ。やがて炎がともり、夜を照らし、病者を癒す薬となった。
タディアはその傍らで潮を煮詰めた。岩を積んで炉をつくり、薪を絶やさず炎を燃やし続けた。蒸気が白く立ち上ると、やがて鍋の底に塩の結晶が残った。それは肉や魚を長く保存させるだけでなく、交易においても黄金に等しい価値を持った。
干物と塩を荷車に積むと、娘たちは森へと続く道を進んだ。疲れを知らず、夜目も利き、獣にも怯えぬ彼女たちの歩みは、道そのものを切り拓いた。数日後、荷を背負って現れたのは痩せた木こりとその家族だった。震える声で「薪と替えてくれ」と言い、子を抱く母は涙をこぼした。その後ろからは縄を編む女たち、鉄鉱を担ぐ若者たちが続き、列は日に日に長くなっていった。
交易路は一筋の線から始まり、やがて人々の往来で太くなっていった。その途中で盗賊が襲ったこともあった。だが彼女たちは後退しなかった。ヨアンナが異変を予知し、ジュディアの声が群れを束ね、ヤコバが無言のまま敵を斬り伏せた。頭領が砂に沈むと、残された手下は刃を下ろした。逆らえば死ぬ。従えば食える。それだけの理屈で、彼らはそのまま従者となり、労働力となった。こうして噂は広がった。
「竜の娘たちが海辺に国を作っている。飢えぬ場所がある」
冬に薪を失った農夫が、飢えた子を抱いた母が、道を求めて海へとたどり着いた。最初は門の前に立ち尽くし、海の匂いに怯えていた。だが一度鍋を囲み、塩気の効いた魚を口にすると、頬に色が戻った。翌朝には網を引き、木を切り、石を積む――彼らの生は確かにここで繋がったのだ。
バルグリムは砂浜の一角を選び、炉を築いた。砂を掘れば砂鉄がいくらでも現れる。フィリパは息を切らせながら風箱を踏み、師と共に火を熾した。真紅に輝く鉄が槌に打たれると、甲高い音が潮騒をかき消した。その音は人々にとって、この新しい国の「鼓動」となった。
やがて集落は形を変えはじめた。木と石で囲いが築かれ、井戸が掘られ、魚を干す棚が浜に並んだ。煙は絶えず空にのぼり、塩の匂いが潮風と混ざって村全体を包んだ。子どもたちは砂浜を駆け回り、女たちは網を繕い、男たちは材を担ぎ上げた。誰もが――ここでは飢えない、と知っていた。
しかし――エイラの心は、夜ごと海にあった。陽が沈めば、浜のざわめきも子らの笑い声も遠ざかり、ただ潮の匂いと波音だけが彼女を呼んだ。静かに衣を解き、銀青の髪を潮に漂わせる。水面は鏡のように月を抱き、その鏡を破って、彼女はひとり深みに身を委ねた。
冷たいはずの水は拒むことなく、むしろ母の腕のように彼女を包み込んだ。肺は苦しまず、鼓動は海の律動に重なり、呼吸すら必要としなかった。人でも竜でもない身体は、こここそが最初の住処であったかのように馴染んでいった。
やがて、暗き海の底からひとつの影が姿を現す。タラッソス――海を統べる竜王。その頭には紅珊瑚が燃える灯火のごとく枝を広げ、背には貝と苔の森が揺れ、鱗は月光を呑んでは銀片となって砕け散る。眼は深海の双星のごとく輝き、一瞥で魂を射抜くほどの威を放っていた。
「……エイラよ」
その声は潮騒となり、骨の髄まで震わせた。
「人は地を踏み、竜は海を渡る。だが今、そなたと共にあるとき――我は潮が陸を抱く夢を見る」
その言葉は、海と大地の婚姻譚を彼女の血に刻んだ。エイラはためらわず、その胸へと身を預けた。頬を鱗に沿わせると、冷たさの奥に微かな熱があり、その重みが彼女を包んだ。心臓の鼓動が波のうねりと重なり、二つの存在はひとつの律動に溶けていった。
「私もまた、海の中で息をしている。人でも竜でもない。けれど……そなたの傍にいることは、何よりも自然だ」
タラッソスは彼女の髪を潮に散らし、その指のようなひれで一筋をすくった。銀青の糸は水の中でほどけ、無数の光に変わった。その光は彼女の腹を、胸を、心をやわらかく満たし、まるで新たな生命の予兆のように温もりを宿した。
「ならば、我が王妃よ。
そなたを抱き、そなたを満たし、我らの血をひとつにしよう。
海と陸とを結ぶ命を――この身に宿せ」
その宣言とともに、深海は泡を溢れさせ、月光を砕いて光の花を咲かせた。花は二人を覆い、海そのものが祝福を告げる。エイラは瞳を閉じ、竜王の吐息を唇で受け止めた。冷たさも熱も超えた感覚が骨まで沁み、彼女は「愛」と呼ぶしかない力に全身を委ねた。
世界は彼らを祝福した。潮は渦を描き、星は海へ降り注ぎ、深き底の響きは賛歌となった。――やがてその夜、エイラの胎に灯った温もりは、国を照らす炎となる。海はそれを知っていた。




