第十六話 東の果てにて
どれほどの日々を歩んだのか、誰ももう数えることができなかった。山脈を越え、爪を立てる荒野を抜け、氷のように冷たい川を渡り――ただ足を進め続けて、ついに彼らは世界の尽きる場所へと辿り着いた。
そこにあったのは、海。大地が断ち切られ、蒼穹と水がむき出しに溶け合う境界。果てのない波濤が白銀の鎖のように連なり、幾千万の手で砂を叩いては砕き、また戻っていった。陽光は天の頂から降り注ぎ、きらめきは万の鏡に分かれて海面を舞い、その色は娘たちの髪と瞳へも燃え移った。銀青の輝きが、一人ひとりの存在を境界そのもののように照らし出す。
十一の娘は言葉を忘れ、ただ風に裾を翻して立ち尽くした。潮の香りは胸を刺すように濃く、世界のすべてが初めて目に触れるもののように彼女たちを包み込んだ。バルグリムは大きく肩を揺らして息を吐き、腰の袋を探った。指先で煙草をつかみ出すと、火打ち石を取り落とし、それが波にさらわれていく。小さく舌打ちをして悪態をついた。
「こんなもんのために歩いたのかと思うと……まったく、竜人どもは無茶を言う」
だがその声は、かすかに澄んでいた。苦々しさの奥に、彼自身もまた「旅の果てに触れた」という安堵を隠しきれずにいたのだ。エイラは砂浜に降り立った。裸足を波に沈める。刃のような冷たさが足首を切り裂き、膝を超えて胸を駆け上がる。瞬間、幽閉の小屋で繰り返し見た夢が甦る。夢の底から呼ぶ声。海のうねりのように深く、呼吸のように永い声。
――東へ来い。精霊との戦は、まだ終わっていない。
あの声は確かに、この海の向こうから呼んでいる。娘たちは母を囲み、波の音に溶けるように寄り添った。ペトラは砂を掬い「これじゃ狩りはできない」と苦笑し、ヤコベアは潮風に眉をしかめ「風が荒れすぎる」と呟く。ヨアンナは水平線を指でなぞり、マティアは波打ち際で貝を拾って子どものように笑った。フィリパは流木を叩き、響きを確かめ、すぐにバルグリムに睨まれた。
彼女たちはそれぞれの心で、この果ての世界を受け止めていた。かつて「髪から生まれた影」にすぎなかった存在が、今は自らの感情をもって語りはじめていた。
そのとき――海が低く唸った。波が裂け、深淵から巨大な影が浮上する。水飛沫は天を衝き、海は一瞬、白く泡立って消えた。そこに現れたのは、一体の竜。いや、海そのものを纏う王。
頭には赤青の珊瑚が枝を伸ばし、まるで潮に育まれた森がその身に根を下ろしているかのようだった。背は幾層もの貝殻と苔に覆われ、悠久の流れが刻んだ文様が鱗を飾る。眼は双つの太陽。燃え盛る光球のように灼き、見る者の魂を焼き尽くす。声が落ちた。海そのものが震え、砂浜が唸る。
「……人の子よ」
エイラは波に踏み出した。浅瀬まで進み、濡れた裾を引きずりながら、その眼を正面から見上げた。
「汝――古の竜の血を浴びし者。人の姿を纏いながら、竜の魂を抱きし者よ」
海を割る声が落ちた瞬間、空気が変わった。波は打ち寄せながらも音を失い、娘たちの息遣いさえ潮に吸い込まれたように消えた。エイラは応えられなかった。声を持ちながら、声を失っていた。だが竜王の双眸はすでに彼女のすべてを射抜いている。血の記憶も、幽閉の歳月も、髪から生まれた十二の娘さえも。
「我らは滅びにある。精霊の呪いによって。あれらは大地を覆い、水を濁し、空を蝕み、我らを根絶やしにすることを望んでいる」
海風が吼え、娘たちの虹色の髪を鞭のように打った。だが竜王の声はその風すら圧して響いた。
「竜と人。古より互いに牙を剥き続けてきた。しかし今や敵は同じだ。精霊こそが、竜も人も、分け隔てなく滅びへと導く存在である」
沈黙が訪れる。大いなる存在の言葉の余韻が、波打ち際に重く沈んでいた。やがて竜王はさらに巨体を乗り出す。海が裂け、砂浜が膝下まで浸る。娘たちは後ずさりし、バルグリムでさえ口を閉ざした。
「ここに国を築け」
その一言は大地の宣託のようであった。
「竜と人とが共に生きる国を。この海を豊かにせよ。そして竜が住まうことを許される世界を望め」
エイラは波に濡れながら、拳を強く握った。胸の奥に燃え立つ炎が、幽閉の闇も血の記憶も打ち払う。十一の娘と歩んだ旅路、無数の試練、その果てにあるのは――今ここで託された未来。
「……私はそなたに会うためにここへ来た」
声が震えずに響いたのは、長き歳月がその言葉を待っていたからだ。
「幽閉の闇を越え、血と涙を流し、十二の娘を生んだ。私は人ではない。だが人でありたいと願った。そして今――竜と人とを繋ぐ者としてここに立つ」
竜王の眼がわずかに細められた。深海のうねりのような沈黙が広がり、海と空のすべてが「その先の言葉」を待っていた。エイラは一歩、波を蹴った。飛沫が舞い、銀青の髪が濡れて輝く。
「そなたは王であろう」
その声は波音を切り裂き、海の果てまでも届くようであった。
「ならば、私が妃となろう。共に国を築き、この海を竜と人のものとしよう!」
十一の娘が一斉に息を呑んだ。虹色の瞳が大きく見開かれ、バルグリムは口から煙草を落としたまま動けずにいる。砂浜の時間が凍り付いた。竜王はしばし黙した。深淵を抱く巨体はただ潮騒を背に沈黙を保ち、その眼だけが天を燃やしていた。やがて――海の底から雷鳴のような声が湧き上がる。
「……妃、と申すか」
それは驚きか、嘲笑か、あるいは試みの笑みか。波が逆巻き、潮風が嵐のように娘たちの衣を翻した。だがついに巨体が揺れ、潮の樹々を宿した頭がわずかに垂れる。
「勇なるかな、人よ。人を超えながら人を愛し、竜を畏れず竜を求める者よ。ならば試そう。汝が妃たるにふさわしきかどうかを」
空が裂けた。稲光が雲を走り、波は牙を剥いて吠えた。その瞬間――竜と人との歴史は、確かに大きく軌を変えはじめていた。




