第十四話 虹の羽衣
小屋の扉は、手をかけるまでもなく崩れ落ちた。年月に朽ち果て、蝶番は錆び、板は砕け、ただ埃を舞い上げただけだった。外に出ると、世界が息を呑んだ。村は、あの日のままだった。時が止まったかのように。ただ竜の巨骸だけが変わっていた。肉を失い、骨と鱗だけの山となり、風雨に削られながらもなお虹色の破片を煌めかせていた。それは死を拒むかのように冷たく光り続けていた。村人たちは、彼女を見て後ずさった。
「……あれが竜の娘か」
「災いが目を覚ました……」
囁き声は震え、誰一人として近寄ろうとはしない。だがエイラは気にも留めなかった。カン、カン――。ただひとつ、鍛冶屋の音が村に響いていた。音をたどると、そこには見知らぬ男がいた。背は低く、体は岩のように厚い。髭は胸に届き、煤で黒ずんだ顔に二つの琥珀の眼が鋭く光る。鉄槌を振り下ろすたびに大地はわずかに震えた。彼女と目が合うと、男は鉄槌を止め、ゆっくりと視線を上げた。
「……この村に、ドワーフはいなかったはず」
エイラが問うと、男は無骨な指で煤を拭い、口の端を吊り上げた。
「西の山脈から来た。噂を聞いてな――竜の死骸が残っていると。初めはどうせほら吹きだと思ったが……」
琥珀の瞳が細められる。
「こうして竜人のあんたまで現れた。本物だったわけだ」
「竜で……何を作った?」
エイラの問いに、ドワーフは鉄箱を開き、黒革に包まれた一振りを取り出した。
「鎧と、柄と、鞘だ。だがこれは特別だ」
差し出されたのは宝刀だった。鞘には竜の鱗片が嵌め込まれ、漆黒に光を返していた。
「見せろ」
エイラが言うと、ドワーフは頷き、宝刀を差し出した。エイラは刀を握り、静かに鞘を引く。黒光りする刀身が現れ、空気を裂くように冷たい音を立てた。
「これで竜を斬れるか?」
「斬れるとも」
ドワーフは胸を張った。
「隕石鉄で鍛えた。天地にあるものなら、なんだって斬れる」
エイラは無言で、自らの長く伸びすぎた髪を一束つかんだ。銀青の流れが夜明けの川のように光り、彼女は刀を払った。――サラサラ。切り落ちた髪は光の雨となって地面に散った。
「……確かに、竜の鱗すら断てそうだ」
目を細めるエイラ。その美しさと冷厳さに、ドワーフは言葉を失った。だが次の瞬間、床に落ちた髪が波紋のように揺れた。風でもなく、誰かに引かれるのでもなく、光を編むようにして束となり、やがて人の形を織り上げていった。
「……これは造形じゃない。生きた工芸か……俺の目を疑うぞ……」
ドワーフは目を見開き、思わず一歩退いた。切り落とされた髪は光の繭となり、そこから十二の影が人の形を結んだ。娘たちは虹の中から歩み出るように現れたのだ。彼女たちの肌は雪のように白く、透き通る冷たさを宿していた。瞳は銀青に輝き、底に夜の海を湛えている。髪は母なるエイラと同じく白を基調に、光を受けて虹色にきらめいた。衣を纏わずとも、その姿は神の工芸のように整い、冷たい気高さを放っていた。十二の娘たちはエイラを囲み、同時に十二の銀青の瞳がこちらを見た瞬間、空気が押し潰されるような圧が走った。彼女たちが呼吸するたびに風が集まり、虹の光が波紋のように広がった。その姿は恐ろしくも美しく、ただそこに立つだけで村の空気そのものを塗り替えてしまう。
「お前は……化け物か」
ドワーフの呟きは、畏怖と驚嘆の入り混じった呻きに近かった。しかしエイラは怯むことなく、低い声で問うた。
「名を」
ドワーフは沈黙ののちに、鉄のように重く名を告げた。
「バルグリム……それが俺の名だ」
エイラは頷き、竜の骸へと歩み出る。
「鎧と武器を授けろ。この竜を殺したのは私だ。その所有権は、私にある」
白骨の山の前で彼女は指先を伸ばした。竜の鱗を摘むと、それは細い繊維のように解け、糸となって指に絡みつく。エイラはその糸を指で織り、空へと広げた。糸は風を孕み、波打ちながら布へと変わり、やがて虹色の羽衣となって揺れ動いた。
「……竜の鱗は、繊維なのか」
バルグリムは呆然と呟いた。エイラは刀を振り下ろし、羽衣を適当な大きさに切り分けた。自らはそれを纏い、十二の娘たちにも渡す。虹の布を肩にかけた彼女たちは、夜明けに立つ神話の戦士のように輝いた。
いつしか竜の骸はほとんど残っていなかった。十二の娘たちは羽衣を揺らめかせ、母を守る円陣を描く。その姿は、忘れられた村に再び現れた新たな神話の嚆矢だった。




