第十三話 忘れられた娘
村人たちの視線は刃物のように鋭く、母親が子どもの目を塞ぐのを見たとき、エイラは初めて自分が『外にいてはいけないもの』になったと知った。虹色の鱗を宿した娘を「災い」と呼び、やがて彼女を墓地の近くの小さな小屋に閉じ込めた。土壁はひび割れ、窓は狭く、光はわずかしか入らない。扉の外に置かれる食べ物と水だけが、彼女と世界を結ぶ糸だった。
最初のころ、彼女は扉を叩き、叫び、泣いた。けれど返ってくるのは風と犬の遠吠えばかり。季節がいくつか過ぎたある日、扉の下の隙間から小さな手が差し出された。そこには硬いパンが乗っていた。
「……食べて。捨てられるの、かわいそうだから」
それは幼い少女の声だった。舌足らずで、震えていた。翌日も、その翌日も、少女はやってきた。硬いパンを持ち、摘んだ花を置き、「きれいだから」と小石や枝を差し入れる。やがて少女は言った。
「みんなと遊んでも楽しくないの。私、考えすぎだって怒られる」
エイラは板の隙間から少女を見た。頬に泥と引っかき傷があった。だが瞳は真剣だった。
「ねえ……どうして閉じ込められてるの? 怖がられてるけど……私は知りたい。あなたは誰?」
問いを受けて、エイラは沈黙した。夕陽が銀青の髪を鈍く照らす。
「私は……人じゃない。心も感情も、もう壊れてしまった」
水底から響くような声。少女には少し怖く聞こえた。けれど彼女は怯えず、にっこり笑った。
「なら、私が話すよ。心とか、感情とか。ぜんぶ聞いて。……私、ミラ。あなたは?」
エイラは答えなかった。ただ銀青の髪を伏せた。それからの日々、ミラは毎日やってきた。
「花の名前を覚えたの。遊ぶより、名前をつける方が好き」
泥だらけの膝を抱えながら、まだ高い声でそう言った。
「川で泳いでたら魚に見られた。私が魚だったらどんな気持ちかなって考えて、眠れなくなった」
日に焼けた腕を見せる声は、前より少し低く落ち着いていた。少女から娘へと変わり始めた兆しだった。
「鳥の声、笑ってるんじゃなくて泣いてるように聞こえる。そう言ったら気味悪がられた」
「寒いね。でも、あなたも寒いんじゃないかって思うと、少し温かくなる」
エイラはただ聞いた。感情はないと告げながらも、彼女の言葉をひとつも拒まなかった。やがて少女は娘へ、大人の女へと変わった。ある春、ミラは声を震わせて言った。
「……赤ちゃんができたの」
照れも喜びもなく、不安に濡れた声。エイラは問う。
「どう思うの?」
ミラはしばらく黙り、首を振った。
「わからない。ただ、流れで……嫌じゃなかった。でも、好きって気持ちも分からない。私は、間違ってるのかな」
エイラは扉に掌を当てて答えた。
「間違いじゃないよ。泣いても揺れても、ここで話していい。私はずっと、あなたの声を受け止めている」
ミラの瞳に涙が浮かんだ。
「村のみんなには怖くて言えない。でも、あなたには……ぜんぶ言えるの」
扉の向こうで、エイラは銀青の髪を撫でた。胸の奥には小さな波紋のような痛みが広がっていた。ミラは母になり、子を抱き、疲れ切った体を引きずりながらも毎日エイラに語った。
「夜になると、泣き声が途切れないの。腕の中で小さな体が暴れるたびに、私の頭の奥で何かが軋むの。気がつくと、揺さぶるように抱いてしまってて……『壊してしまうかも』って思った瞬間、怖くて、涙が止まらなかった。母親なのに、最低だよね」
扉の向こうで、エイラは静かに耳を澄ませた。ミラの嗚咽が壁越しに伝わってくる。
「でもね……赤ちゃんが、泣き疲れて眠ったあと、ふと笑ったの。その顔を見たとき、生きてていいんだって……思えたの。私が母でいてもいいんだって」
「村の人たちに、何度も言われたの。『女ひとりで子を産むなんて、恥知らずだ』『誰に孕まされたんだ』って。市場で耳打ちされるたび、子どもの手を強く握って逃げるしかなかった。好きな人なんていなかったのに……どうして私は責められるんだろうって、何度も思った」
何年も通い続けた足取りの重さを引きずりながら、扉の前で声を詰まらせた。髪には白いものが混じり、指先は薪割りの跡で硬くひび割れている。季節を何度も越えてもなお、彼女はここに来る。その疲れが滲む声で、ミラは吐き出した。
「……あの子の目が、私を刺すの。『母親なのに』って言われた気がして。ほんとはただ疲れてるだけなのに。……どうして、こんなはずじゃなかったのに」
扉の前で声を詰まらせたその横顔には、若さの影はなく、髪には白いものが混じり始めていた。年月が彼女を確かに母から、そして老いへと押し流していた。ミラが吐き出すたびに、扉の向こうでエイラは言った。
「壊したいと思うほど苦しかったのは、それだけ長く母であった証だよ。私は子を抱けない。けれど、あなたがその声を抱いて歩んできたから、今もここにあなたがいる。それで十分だ」
ミラは泣き笑いした。
「あなたはやっぱり神様みたい」
だがエイラは首を振った。
「私は神じゃない。人でもない。ただ、あなたの言葉を全部、聞きたいだけ」
年月は過ぎ、ミラの声は老いていった。皺の刻まれた手で、なお扉を叩いた。
「子どもたちは、もう私を置いていった。けれどね……私は後悔してない。ここに来て、あなたに話すことで、私はずっと生きてこられたんだから」
その声はかすれて震えていた。ある夜、長い沈黙ののち、彼女は扉に寄りかかり、ほとんど囁くように告げた。晩年の冬、ミラは小さな紙切れを扉の下に差し入れた。そこには震える筆跡でこう書かれていた――
『あなたが人じゃなくても、私はあなたと生きたかった。私は、あなたに会えて幸せでした。ありがとう』
それがミラの最後の言葉だった。扉の外は静まり返った。誰も訪れず、誰もエイラを呼ばなくなった。床に広がるのは、なお伸び続ける銀青の髪。まるで月光を編んだ川のように、小屋の隅々を覆っていた。エイラは膝を抱え、呟いた。
「……心も感情もなくしたはずだった。けれど、あなたの言葉は私の中に残っている。私は人ではない。でも、人でありたいと願っている」
そのとき、頬を伝う温かさに気づいた。ヒトの皮膚が剥がれて以来、自分は涙を流せないと思っていた。だがそれは違った。紙片を握る指先に、確かな雫が落ちた。滲んだ文字が揺れて見える。それは悲しみであり、痛みであり、そして「心」そのものだった。エイラは震える手でその濡れた跡をなぞり、涙に染まった手紙を胸に抱きしめた。胸に残ったのは確かに「ありがとう」という響きだった。その夜、夢の底から声が響いた。海のうねりのように深く、呼吸のように長く。
――東へ来い。精霊との戦は、まだ終わっていない。
それは海竜王の声だった。エイラは長く閉ざされた扉に手をかけた。軋む音とともに、外の風が銀青の髪を揺らす。彼女はゆっくりと立ち上がった。忘れられた娘として。そして、これから導かれる者として。




