第十二話 変貌
吐き気は止まらなかった。竜の体液を浴びて吐き出されたそのときから、エイラの体は熱と痺れに包まれていた。血が逆流しているように、指先から頭の天辺まで脈が荒くうねる。胸の奥で別の心臓が芽吹くように、リズムが二重に打ち合っていた。
額を押さえると、髪が手のひらにまとわりついた。ひどく湿っている。冷たい夜気のせいではない。すると、その髪束は皮膚ごとズルりと剥がれ落ちた。掌に残ったのは黒髪の塊と、薄く裂けた頭皮の欠片。喉がひゅ、と鳴る。自分の皮膚が、剥がれている。
「いや……いやだ……! 返して! お母さんがくれた、この髪を……! お父さんが抱きしめてくれた、この顔を……! どうして……どうして守ってくれなかったの? 神様なんて、いないくせに!」
エイラの叫びが夜を裂いた。周囲から女の悲鳴が上がる。「化け物だ!」「神罰だ!」 一人の老婆が震える声で「エイラ……なんてこと……」と呟いた。幼い子どもが泣きながら「お姉ちゃんを返して!」と叫び、母親の裾にしがみつく。男たちは後ずさりながらも、手にした棒や鍬を構えたが、一歩も踏み出せなかった。
膝をついた。吐き気と一緒に嗚咽が込み上げる。だが涙を拭う間もなく、残っていた髪が、ずるりと音を立てて抜け落ちる。地面に散らばるたび、頭皮が裂け、下から硬質なきらめきがのぞいた。虹色の鱗。光のない闇で、なお淡く発光している。頭を抱えると、そこに触れる指の感触はもう肉ではなく、冷たく滑らかな板状のものだった。
頬が裂けた。ひびの入った陶器のように肌が割れ、その隙間から銀青の鱗が芽吹く。鱗が皮膚を押し上げるたび、古い人の皮がだらりと剥がれ、首筋に垂れ落ちる。
「いやだ……戻れ……戻って!」
エイラは両手で剥がれた皮を押さえ、必死に顔に貼りつけようとした。だが皮膚は粘つく血をにじませて指先から滑り落ち、灰の上にぺたりと貼りつくばかりだった。落ちた皮膚は、まるで別の生き物の殻のように見えた。夜の火に照らされ、しわんだ布のように縮れ、ところどころ赤黒く滲んでいる。それは確かに自分だったはずなのに、すでに抜け殻としてそこに転がっている。
「お願い、くっついて……! これ、わたしのはずなのに……!」
爪で縫うように皮を押し戻そうとするが、その爪の下からも新しい鱗が突き出してくる。皮膚は拒むように剥がれ続け、指の間を抜けて崩れ落ちた。熱を伴った剥離の感覚に、エイラは絶叫し、灰の上を転げ回った。地面の灰が頬につく。
「あああああっ! 壊れていく……! 私の体が……お父さんとお母さんの形が……全部、消えてしまう! 返して! 返してよ……!」
エイラは灰の上をのたうち回り、指で必死に皮膚を押さえた。だが皮膚は爪の下で剥がれ、剥がれた下から虹色の鱗が現れるばかりだった。恐怖が全身を掴む。自分の体が、もう自分のものではない。だが鏡も水面もないのに、エイラは知った。剥がれた皮膚の下から生まれるのは、ただの異形ではなかった。光。鱗はひとつひとつが小さな虹を孕み、血のにじむ隙間から燐光を零している。
爪が軋む音がした。指先の皮膚が裂け、短い人の爪が剥がれ落ちる。代わりに覗いたのは、半透明で鋭利な鉤爪。血の中でなお光を反射し、彼女が手を開くたび、刃のような軌跡を描いた。血管は青く浮き上がり、やがてその青が鱗の内側に吸い込まれていく。流れる血そのものが、もう人の赤ではなかった。
痛みは焼け付くようで、同時に甘美だった。肉体が裂けるたび、恐怖の裏側で新しい力が流れ込む感覚があった。肺が膨らむとき、これまで吸えなかったほど深く息を取り込める。夜の湿気が甘露のように胸に広がる。目を開けば、闇の中に光の粒子が漂って見えた。誰の吐息か、誰の涙か、誰の心拍か――色で見える。
「これが、私なの……!? いやだ、私を返して! お父さん! お母さん! ねえ……聞こえる? 私、まだここにいるんだよ!」
その絶叫は、竜の低い声と重なり合い、広場に響き渡った。
──お前は続きを背負う。
竜の声が、耳の奥で甦る。エイラの声は震えていたが、耳に届いたのはかつての自分の声ではなかった。人の少女の掠れた声と、竜の低い共鳴が二重に重なり合い、言葉がまるで歌のように響く。村人の誰かが後ずさり、灰を踏んだ音が鮮明に聞こえた。彼らの恐怖は、光の揺らぎとなってエイラの視界に浮かんでいた。
肩口の衣が裂け、皮膚が剥け落ちる。剥がれた下に現れた鱗は胸から腹部まで連なり、鎧のように体を覆っていた。呼吸のたびに鱗がわずかに開閉し、虹色の光が波のように流れる。まるで彼女自身が一匹の竜に変じていく過程だった。
恐怖はまだあった。自分を失っていく恐怖。しかしその恐怖を飲み下すほどに、身体の奥から込み上げてくる感覚があった。強さ。力。終わりなき拍動。老いも、病も、もはや及ばないと告げる血の響き。
「うわあああああっ! 戻れない……戻れないんだ……! 誰も私を抱いてくれない……! ああ……もう戻れないのね……」
エイラの喉から、泣き声と叫びが絡み合って迸った。村人たちは恐怖に突き動かされ、「逃げろ!」と叫ぶ者もいた。だが足は竦み、誰一人としてこの場を離れられなかった。告白は、彼女自身に突き刺さった。涙は流れない。流す皮膚はもう剥がれ落ちた。代わりに鱗が光を受け、夜の広場を淡く照らした。村人たちは誰一人として近づけない。だが誰一人として目を逸らせない。
その姿は、美と畏怖の狭間にあった。焼け落ちた灰の上に、虹色の竜鱗をまとう少女。彼女はもう人ではなく、しかし人を導く象徴へと変わろうとしていた。




