第十話 灰と竜
火は孤独だった。村の広場で燃える焚き火は、薪が放り込まれるたびに舌を伸ばし、夜の輪郭を赤く切り取った。人々は互いに声を交わすでもなく、ただ黙々と薪を差し入れる。誰もが震えているのに、震えを隠すために手を動かしているようだった。
エイラは火の縁に膝をつき、両親の焼ける様をじっと見つめていた。焼ける肉と髪の匂いが、冷たい空気のなかで濃く立ち上る。灰は風に舞い、彼女の髪に細い灰色の粉を撒いた。村は痩せていた。若いものは少なく、年老いた声が多くを占める。疫が長く尾を引き、兄弟姉妹の名簿はどんどん空白になっていった。残った者たちは、骨折りと祈りで日を繋いでいた。
「火を絶やすんじゃないぞ」
誰かの声が闇に落ちた。次の薪が投げ込まれ、炎はまた赤く立ち上がる。村人たちは黙々と火を見守り、夜を削るようにして炎を支え続けた。火はただの燃えさしではない。村人たちはそれを疫を焼き払う印とし、祈りと仕草を込めながら薪を継いだ。やがて炎は弱まり、赤い炭が黒く冷え、白骨が顔を出す。焦げた匂いと湿った灰の臭気だけが、夜に残った。
エイラは震える手で小さな陶の壺を取り出した。母が使っていた口の欠けた器だ。箸のような細い棒で、まだ温もりを残す骨片を慎重にすくい、壺の底に落としていく。父の骨が崩れる微かな音、母の髪が煤になる匂いが鼻孔を突いたが、彼女は手を止めなかった。
壺は満ち、腕にずしりと沈んだ。エイラは肩に抱え、膝を震わせながら立ち上がる。骨と灰の重さよりも、「残された者」である責務の重さが胸を締め付けた。彼女は黙って歩き出す。向かう先は村はずれの横口の墓。そこは、村の中心で横たわる竜の視線を避けるために人々が作った影の集積だった。
道すがら、エイラは村の姿を見渡す。家は低く、屋根は藁や獣皮で繋がれている。子どもの笑いはまばらになり、遠い。空気は鉛色で、時折地面に腐った木の匂いが混じる。それは竜の腹の腐乱が風に載って来る匂いだと、誰もが知っている。
竜は村のほぼ中心に、巨大な輪を描いて横たわっていた。胴は岩のように固く、鱗ははがれ、瘢痕が重なっていた。人々はそれを拝むわけでも、崇めるわけでもなく、ただ日々をやり過ごすために形だけの供えを続けていた。敬意と恐怖の混じったものは、結局「逃げられない」感覚に他ならなかった。
エイラは横口の前に立つと、ほとんど無意識のように壺の口を指で拭った。穴の縁には真新しい刻みがあり、真新しい溝が見えた。そこへ、黙って壺を差し入れる。土の冷たさが掌の腹に伝わり、壺は微かに震えた。横口は浅く覆われ、竜の眼差しを遮る土の壁に守られている。ここなら──と彼女は思った。本当に隠れる場所は、光の届かない影のなかだけだ。
墓を出ると、竜の背へと向かう。人々はその前を避けるように歩く。だがエイラは避けなかった。村の中心まで来ると、竜はほとんど動かず、古い眠りのように胸を膨らませている。鱗の間からは黒い汁がにじみ、触れる者すべてを汚すような匂いを放っていた。黒い汁が触れた道具は腐り、井戸の水が濁ると噂された。疫の源は、竜の体の腐敗だと誰かが言っていた。あるいはその体内で、何か古い毒がゆっくりと淀んでいるのだとも。
エイラはその胴元に立ち、短い包丁を抜いた。刃は小さく、母が畑仕事で使っていたものだ。彼女の腕は細く、まだ子どもの景色が残っているが、その細腕は今や決意の重さで震えていた。彼女は息を整え、声を震わせずに竜を呼んだ。
「話がある」
竜の眼がゆっくりと開かれた。瞳の奥は黒曜のように深く、そこに映る彼女の姿は小さく、赤い火の光がその輪郭を揺らしている。竜は低く、砂利が喉で擦れるような音を立てた。息が、村の夜を一瞬にして冷たくした。
「娘よ。私を殺しに来たか」
その声は、喉の底から湧くように、風と石とを混ぜたような響きだった。エイラは手の中の包丁をさらに握りしめた。
「お前は守り手でも神でもない。人をむさぼり、病を撒く獣だ。偽物だ。ここを終わらせるのは、私だ」
声は小さく、しかし村の闇に切り込むように響いた。竜は鼻の穴をヒクリと動かし、匂いを嗅ぐ。そこにあるのは怒りでもなく嘲りでもなく、むしろ長い疲労のようなものだった。
「終わらせる、か」
竜は吐息で笑ったように音を立てた。
「その細腕で、私の鱗を突き破れるとでも思うのか、骨折りの稚児よ。胸は岩より硬い。しかし──興味深い。お前の血の強さを確かめよう。中へ入り、私の胸を刺せ」
エイラは刃を握る手のひらが汗で滑るのを感じた。竜の言葉は、たとえ戯言でも、人の耳に届けば畏怖か魅力を孕む。竜は自らの口を大きく開けた。口腔の奥は暗く、湿った光が反射する。腐肉の匂いが、さらに強く立ちのぼった。村の数多の噂の核心はここにある──竜は歳月に蝕まれ、その体はもはや穢れた泉のように周囲を毒している。だがその毒は、外からだけでなく、内側にも秘密を隠しているはずだ。
「そこにあるのは、私の心だ。掴んで突き刺せ。もし貫ければ、お前の言葉を認めよう。突けぬならば──灰と同じ運命だ」
言葉の端に、奇妙な温かさが混じっていた。それは譲歩にも似ている。あるいは、最期の誘いかもしれない。竜は自らを差し出すことで、自分の終わりを確かめたいのかもしれない。エイラの胸の中で、何かが音を立てて割れるような感触がした。父の手の繕った襟、母の歌のわずかな調子、残された幼い笑い声。すべてが、一つの問いに向かって収束する。彼女は小さく頷き、包丁の刃先を空中に向けた。
「わたしが…終わらせてやる」
エイラは息を詰め、足を踏み出した。口の縁が腕に触れた瞬間、濡れた皮膜の冷たさが掌を震わせた。匂いが鋭く立ち、彼女の心臓は乱れた。火の赤が再び顔を染める。そこに映ったのは、まだ幼い少女の輪郭──それとも、これから刻まれる何かの前触れなのか。風は静かにそれを奪った。




