第一話 黄昏に咲く墓標の花
森は夕陽を受けて金色に滲み、枝葉の隙間から差す光が揺れるたび、緑の海は刻々と異なる表情を見せていた。
その奥深く、石を組んで建てられた古い水車小屋がひっそりと佇んでいる。かつて水を引いた大きな歯車は苔に覆われ、雨に打たれて朽ち果て、今ではただの飾りにすぎない。けれどもその建物は、幼い姉弟にとって命をつなぐ最後の砦であった。
家の裏手には細い小川が流れている。リアナは朝も夕も必ずそこへ桶を抱えて向かう。水面に映るのは煤でくすんだ頬と、汗に貼りついた銀髪。桶が満たされるたびに腕は痺れ、肩に食い込む重さが彼女の背をさらに丸くする。
戻ると、湿った薪を選んで火を起こす。火打ち石を鳴らす音が小屋に反響し、やがて細い煙が天井へと昇っていく。鍋の中に入れるのは、畑でようやく摘んだ豆や草の根、森で見つけた茸。塩はもう尽きかけ、味をつけるものといえば乾いたハーブをひとつまみだけ。煮え立つ匂いは、空腹を慰めることもできない湯気にすぎなかった。
縁側には弟のカイルが座り、骨ばった体を毛布に包み、幼さと弱さを同時に晒していた。焼き過ぎた麦パンの欠片を小さな歯で噛み切ろうとするが、胸の奥に痰が詰まり、咳が何度も彼を揺らした。乾いた咳が続くたび、リアナの耳にはそれが刃のように突き刺さる。彼女は鍋の蓋を押さえた手を強く握りしめ、何度も視線を逸らそうとしたが、弟の痩せた胸の上下はどうしても目に入ってしまう。
畑は痩せ、雑草が茂る。父が耕していた頃の力強さは、もうどこにも残っていなかった。リアナは鍬を握りしめ、黙々と畝を整える。細い腕に刻まれた筋肉はまだ未熟だが、日々の労苦が骨にまで沁みている。額から流れ落ちる汗は頬を伝い、乾いた土に吸い込まれた。嗅ぎ慣れた土の匂いと、鉄のような汗の匂いが混じり合い、胸を鈍く圧迫する。
「……お父さんが生きていたら」
その言葉は、風にさらわれて自分の胸へ返ってきた。リアナは鍬を土に突き立て、呼吸を荒げる。
「母さんが逝ってからずっと、あなただけを頼りにしてきたのに……。病に蝕まれ、痩せ細っていく背中を見ながら、私は畑を放り出して、ただ水を運び、粥を冷まし、眠らずに看病するしかなかった。……それでも、笑ってくれたでしょう? 私の手を握って、もう少しで治るって言ったじゃない……」
土を握りしめた掌に小石が食い込み、血がにじむ。
「竜の血だ、誇りだ、末柄だ――そんな言葉を信じたくても、目の前で咳き込むカイルを救えないなら、何の意味があるの? どうして、ただ一度でいい、病を追い払う力になってくれなかったの。……どうして畑を枯らさぬだけの奇跡も起こせなかったの」
吐き出すごとに、喉の奥が焼ける。
「私はね、父さん。竜の血を誇りに思いたかった。あの言葉を聞くたび、心が熱くなって、未来がまだあるんだと思えた。……でも、本当に欲しかったのはそんな言葉じゃない。一緒に鍬を振ってほしかった。汗まみれの手で私の頭を撫でてほしかった。夜、火のそばで昔話をしてほしかった。それだけで、私は生きていけたのに」
涙が頬を伝い、土に落ちて黒い染みを作る。
「ねえ、父さん。どうして私を置いていったの。母さんも先に行ってしまって……残された私に何をさせたいの。竜の血を受け継ぐため? 名も知らぬ未来のため? そんなものより、ただの娘でいたかった。……ただの、あなたの娘で」
吐き出した途端、胸の奥から込み上げるものに喉が詰まり、リアナは膝を折った。鍬が土に落ち、鈍い音が響く。一週間前に逝った父は、竜の末柄だと繰り返し語っていた。だが、その誇りも伝承も、弟の咳を止めることはできず、彼女の空腹を満たす術にもならなかった。リアナが望んだのは血脈の栄光ではなく、父の荒れた掌がまだ隣にあること――ただそれだけだった。
夕暮れ時。二人は花を手に墓へ向かった。森の斜面に並ぶのは、石を積んだだけの粗末な墓標。そこには母も、さらにその先祖も眠っている。夕陽は斜めに差し込み、石の隙間に伸びた影を長く引き伸ばした。リアナは摘んだ野花をそっと置き、硬い石の前に膝を折った。手が震え、花の茎が小さく揺れる。カイルは隣で小さな手を合わせ、まだ何も分からぬ顔で目を閉じた。その幼さに胸を締め付けられながら、リアナは心の奥で繰り返す。
――守らなければ。どんなことがあっても、カイルを守らねば。
墓前を離れ、二人は森の小道を辿って家へ戻った。木々の間からの光は淡くなり、鳥の鳴き声は次第に遠のき、森は夜の支度を始めていた。前方の藪がわずかに揺れた。低く交わされる声と、草を踏みしめる複数の足音。めったに人が通らぬ街道筋に、影が三つ現れた。
藪を割って現れたのは、ぼろ布の外套をまとった男。褐色の肌に汗が光り、肩に背負った古い地図と巻物が歩みのたびに揺れる。泥に汚れた靴は重たげに地面を押さえ、その一歩一歩に「旅を続ける者」の重みが宿っていた。
続いて現れたのは、白銀の髪を陽に反射させる青年。帝国貴族の末裔を思わせる立ち居振る舞いは、埃と泥に汚れても揺るがない。だがその冷ややかな横顔には、孤独と苛立ちの影がわずかに差していた。
最後に、草むらから軽やかに姿を現したのは、獣耳を揺らす娘――フィオラ。森と同じ匂いをまとい、しなやかな肢体に色鮮やかな羽根飾りを散らしていた。削られた枝槍を片手に、まるで森そのものが人の形をとったような自然さで歩いてくる。
その姿を目にした瞬間、リアナの胸にかすかな安堵が灯った。父が病に伏していた頃、何度も薬草や獲物を持って訪ねてきてくれたのが、このフィオラだった。小さな頃は一緒に木登りをして叱られ、時には髪を編んでくれたこともある。彼女はリアナにとって、頼れる姉のような存在だった。
リアナは無意識に弟の肩を抱き寄せていた。だが、フィオラがこちらを見つけた途端、ぱっと笑みが花開き、その警戒心は氷のように解けていった。
「やっぱりリアナの家、この近くだったよね!」
その声は、夕暮れの森に小さな明かりを灯すように響いた。懐から取り出されたのは、赤く熟れた果実。彼女はそれをカイルにそっと手渡し、悪戯っぽく肩をすくめる。
「今日は狩りは不作でね。でも、これならお腹を温められるはずだよ」
リアナは胸の奥で息を吐いた。父の死で荒れ果てた日常に、思いがけず差し込んできた外の世界――幼い頃から寄り添ってくれた声と笑顔。それが救いとなるのか、あるいは新たな試練の始まりなのか。少女には、まだ分からなかった。