10.心を射抜く天の神の祝福。
ハリアカはカメラに向かって──いや、男に向かって微笑んだ。
ハリアカの中で、何かが変わろうとしていた。
世界は広い──。
こんなにも純粋で、不器用で、それでいて直向きで『熱』のある人が居るとは。
この貧しい国の片隅で生きる人々とは、違う熱を持った人。自分とは、出会うはずの無かった人。
何かが変わる、そんな予感がした。
ワイルアに向けて笑うハリアカを見たフイが、そっと耳打ちをする。
「ね? あの人、悪い人じゃなかったでしょ?」
「えっ?」
ハリアカは咄嗟にフイを見る。
心の中を覗かれた気がして、ほんの少しだけ気まずかった。
フイは得意の歯を見せた、笑顔を向けていた。
「──うん、そうね」
彼の持つポウリウリの瞳には、この世界がどう映っているのだろうか。
その瞳の奥に宿るテ・アオ・マラマは、あまりにも眩しくて、でも目を逸らす事が出来ない。
手を伸し、触れようとすれば、それは脆く壊れてしまう気がした。
ハリアカの胸に、その欠片が落ちて突き刺さったように痛んだ。
『きみじゃなきゃ駄目なんだ!』
彼がそう叫んだ意味が、判ったようで判らない。
そのもどかしさが、深く深く胸を抉る。
「ねぇ、ハリアカ…あれ」
ハリアカはアタアフアが指差す方を見る。
河波がワイルアの背後に、迫りつつあった。
周囲の住民たちも慌ただしく、堤防へと向かい始めていた。
「みんなは先に行って。ランギとフイの言う事を聞いて、ね?」
ハリアカはもう一度、子供たちを抱き締めた。
「タプの樹の下で待ってるよ」
「うん、ランギ。気を付けて」
子供たちを先に河岸から上がるように言ったハリアカは、急いでショールを畳む。
「え? どうしたんだ?」
急に周囲が忙しなくなった事に、ワイルアは戸惑う。
ハリアカが近付いて来て、ワイルアの手を取る。
「急いで」
ハリアカの青い目に、緊張が走っていた。
「ちょ、ちょっと待って」
ワイルアはハリアカから手を離すと、慌ててカメラをケースにしまう。
「──何が起こったんだ?」
カメラがしまわれた事を確認したハリアカが、再びワイルアの手を取り、引っ張った。
「もうすぐ夕潮の時間の合図」
ハリアカが珍しく早口で伝える。その口調が今、緊急事態だと知らせている。
「夕潮?」
初めて聞く言葉に、ワイルアは問い返す。
やはり拳大の丸い石で埋め尽くされた上は歩きにくい。
「この河は大きいから、潮の満ち引きの影響が大きい」
ハリアカはワイルアの方へ振り返らず、ひたすら堤防の階段へ急ぐ。
階段の下には、市場の方へ上がろうとする人々でごった返していた。
「──早くしないと、あっという間に河の水位が上がってしまう」
ハリアカは子供たちの姿を探す。が、見当たらない。
既にタプの樹の下に、辿り着いていれば良いのだけれど…。
突如、サイレンが鳴った。
昼休憩の時の物とは違う、緊急を知らせる音だった。アナウンスが「早く岸から上がれ」と繰り返す。
「ハリアカー‼︎」
頭上から名を呼ぶ声が聞こえて、ハリアカとワイルアは上を向く。
ハリアカは安堵して、肩の力を抜いた。
堤防の上から子供たちが顔を覗かせて、手を振っていた。
ワイルアは河の方へ振り返り、目を見開く。
先程まで自分が立っていた場所は、既に水に飲み込まれていた。
背筋に冷たいものが走る。
河波が迫って来ている。
やっと自分たちの順番が来て、ハリアカがワイルアの手を引いて、急いで階段を登る。
ワイルアの眼前に、ハリアカに掴まれた自分の手がある。
この階段を降りる時は、彼の手を引いていた。
あの時、遠慮がちに握り返された彼の白く細い手が、今は頼もしく感じる。
階段を登り切り、子供たちと合流する。
「皆んな、揃ってる?」
ハリアカは集まって来た子供たちの頭を撫でて行く。
「うん、皆んな居るよ」
「ちょっと危なかったね」
「間に合わないかと思って、ドキドキしちゃった〜」
アタアフアがハリアカの足に抱き付いた。
「ごめんね。私がもっと、ちゃんと見ていなきゃいけなかったのに…」
階段から誰も登って来なくなり、しばらくして人々の歓声が上がった。
河下から横一直線を描いた大きな波が、登って来ていた。
「良いの、今日はハリアカの特別な日なんだから!」
フイがアタアフアを、嬉しそうに後ろから抱く。
「あ…えっと…ハリアカ?」
ハリアカの背後から、ワイルアが遠慮がちに声を掛ける。
呼ばれたハリアカは、ビクッと身体を震わせると振り返る。
困ったような顔で、人差し指で頬を掻くワイルアが居た。
彼から名を呼ばれたのは、初めてかもしれない。
「──手…」
そう言われて、ハリアカは慌てて掴んでいたワイルアの手を離した。
その手を胸の前で隠すように合わせた。
「あっ、ごめんなさい。…っ、気付かなくて…」
顔が熱い。
ワイルアの顔も見れない。
心臓の音が、心の奥の方が、大河の潮汐のように、一気に何かが駆け上って来るのを感じる。
「ねえ、写真見せて〜」
そんなハリアカの心中などお構い無しに、フイはワイルアに甘えるように頼む。
「ハリアカ〜、お腹空いた〜」
子供たちの声で、我に返る。
市場の古い時計を見ると、すぐに戻らなければ夕飯の時間に間に合わない。
「あ…、ごめんなさい。もう戻らないと…」
そう言って、ハリアカはダックブルーのショールをワイルアに差し出した。
「それは、きみへプレゼントするよ」
最初から渡すつもりだった。
しかし今は、もう会えないかもしれない彼に、ショールを見る度に思い出して欲しかった。
俺を──。
自分には写真がある。
例え、ショールの青色が褪せてしまっても、俺の顔を忘れてしまったとしても、俺と過ごした僅かな時間は、永遠に覚えていて欲しかった。
「でも…」
ハリアカの声にも名残り惜しさが滲む。
しかし、心は違った。
「記念に」
ワイルアは少し寂しそうに笑った。
「じゃあ…」
今まで、名前以外で初めて他人から贈られたもの。
ハリアカはショールを大事そうに掻き抱く。
「──ありがとう…」
嬉しくて、涙が出そうになるのを誤魔化す為に俯く。
口元に自然と笑みが浮かんだ。
「ハリアカ〜、写真見たい〜」
「私も‼︎」
フイとアタアフアがハリアカに強請る。
「ハリアカ、お腹空いたよ」
子供たちが口々にする要求に、ハリアカは困ってしまった。
「……写真はまた後で。今日は帰りましょう」
「えー、ヤダヤダ」
フイはアタアフアに抱き付いたまま、身体を左右に振る。
「ヤダヤダ〜」
アタアフアもフイに続く。
ハリアカは助けを求めるように、ワイルアを見る。
目が合ったワイルアのポウリウリは、優しい光を放っていた。
その光に、ハリアカの心も揺れる。
このまま…否、あと少しで良い。一緒にいたいと。
「よし、俺が夕飯をご馳走してやるよ。その時に写真も見よう」
ワイルアはそう言うと、フイにウインクをした。
「それは…」
ハリアカが断ろうとすると、フイとアタアフアが飛び跳ねて喜びを爆発させる。
「やったー‼︎」
「えー! 本当⁉︎」
「俺、蒸し鶏が食べたい」
他の子供たちも集まって来て、ワイルアを囲む。
「あぁ、良いよ。好きな物、食わせてやるよ」
外食などした事が無い子供たちは、早く行こうとワイルアを急かす。
「ちょっと…皆んな、待って」
ハリアカは今までにない子供たちの行動に、対処し切れない。
「はい、ハリアカも行こ」
ハリアカの後ろから、フイとアタアフアが押す。
「何が食べたい?」
ワイルアが立ち止まり、こちらを見ていた。
重いカメラを首から下げている所為なのか、少し猫背気味の反り腰で、デニムのポケットに手を入れていた。
少しゆったりとした黒いTシャツの半袖から伸びる腕は、自分より遥かに男らしく筋肉が付いている。
彼の仕事が重労働である事を物語っていたと同時に、その立ち姿に妙な魅力を感じてしまった。
「え…っと……、ホロピトの蒸し料理…」
ギュッとショールを握って、俯く。何だか自分の趣向を知られるのが恥ずかしかった。
「ハリアカ、辛いの好きだもんねー」
フイが楽しそうに笑う。
「意外だな」
ワイルアは屈託の無い笑顔でハリアカを見つめる。
「──でも美味そうだ」
そう言うと、ランギがワイルアに近付いて見上げる。
「ホロピト知ってる? 生で食うとめちゃくちゃ辛いんだよ! でも乾燥させるとリンゴみたいな匂いになるんだよ!」
ワイルアは昼食で食べた焼き飯を思い出す。味は辛かったが、香りは甘かった。
もしかしたら、そのホロピトが入っていたのかもしれない。
「そうなのか。じゃあ、それ食うか」
「少ないやつならね」
ランギはそう言うと、身を翻して他の子供たちの元へ行く。
そして屋台通りへと先導する。
「ランギ、待って! 人さらいに連れて行かれても知らないから‼︎」
フイはそう叫ぶと、アタアフアの手を引いて、ランギたちの元へ駆けて行く。
ワイルアはその様子を微笑む。そしてハリアカの方へ振り返る。
少し上目遣いのハリアカと目が合った。しかし、彼はすぐに視線を逸らしてしまう。
キュッとショールを握って胸に抱き、その頬が赤く見えるのは、夕陽の所為ではない。
「さあ、行こう。置いていかれるぞ」
デニムのポケットに入れていた手を差し出された。
ハリアカは静かに歩を進めて、ワイルアの手を取った。




