遠ざかる人
昼下がりの陽射しが、薄く開けた窓から差し込んでいる。セリーヌはいつもより早く家事を終え、書斎の隅で机に肘をついていた。視線は手元の手紙には向かず、ぼんやりと庭先の花を眺めている。
(……あの人が皇子? あの夜、なぜ私に……)
手紙の差出人が皇子であることをマルタから聞かされてから、セリーヌの胸は落ち着かなくなっていた。ただの気まぐれな貴族の青年かと思っていた。酔った勢いで言葉をかけ、忘れてしまうような、そんな人間だと。
だが、何度も思い返してしまう。夜風に揺れるブロンドの髪。感情の奥を隠すような淡い微笑。そして、手を取る時の、静かな温もり。
その時――
「お嬢様!」
マルタの声が、屋敷の廊下から響いた。扉を開けて飛び込んできた彼女は、どこか興奮気味に、けれどためらうように言葉を繋いだ。
「……これ、今朝の新聞ですけど、見てください!」
広げられた新聞の一面。そこには舞踏会で撮られたと思しき写真と、見出しが大きく載っていた。
――『皇子アルヴィン・レイヴァルト殿下、ついに婚約へ』
相手は大公家の令嬢、名前も既に出ていた。
「やっぱり……」
セリーヌは静かに呟いた。その声は、自分でも驚くほど感情のこもらないものだった。
「皇子が……婚約……?」
マルタが隣で肩を落とす。
「お嬢様のこと、からかったつもりじゃなかったんですよ……でも、もしやと思っていたら、本当に皇子様だったなんて……。あんな立場の人、普通に下級貴族の娘に声なんてかけませんよ……」
「そうね……私も、そう思う」
セリーヌは微笑んだが、それは自分を納得させるためのものだった。手紙の文字が滲むような気がしたのは、陽の光のせいか、それとも――
(私にとっては一度きりの偶然でも、あの人にとっては……何人目の”偶然”だったのかしら)
そんな考えが浮かび、喉の奥に小さな棘が刺さる。
手紙はまだ返していない。ただ、机の引き出しの中にしまってあるだけだ。封もせず、ただ宛名だけを書いた紙切れ。
「……もう、出す理由もないわね」
小さく呟いて、机の引き出しを閉めた。その音が、やけに大きく響いた。
3日後の朝、屋敷に届いた一通の封書は、他のどの便りよりも重みを持っていた。
封蝋に刻まれた紋章は、目にしたこともないほど精緻で荘厳――王室のものだった。
セリーヌは手を止め、しばらくその封を見つめていた。
まさか、と思いたい。けれど、心当たりは――たったひとつ。
震える指先で封を解くと、上質な筆致の手紙が現れた。
《セリーヌ・アルノワ殿へ
レイヴァルト皇子殿下より、先日の舞踏会でのご厚意に感謝を申し上げます。
つきましては、殿下のご意向により、近日中に王宮にて再度お会いしたいとのご希望を賜っております。
お差し支えなければ、下記の日程にて王宮へご来訪くださいますよう、謹んでお願い申し上げます。
日時:○月○日 午後二時
場所:王都中央王宮 第二謁見室
なお、当日は招待状をお持ちのうえ、門衛にご提示くださいますようお願い申し上げます。
王室書簡官代理 ルドヴィック・カサル》
セリーヌは手紙を持つ手に力が入りすぎ、紙がわずかに震えた。
思っていたよりもずっと早く、そして、あまりにも正式すぎる形で“その人”から連絡が来た。
――どうしよう。返事も出してないのに。
そのとき、後ろからマルタがそっと覗き込み、驚きの声を上げた。
「えっ、それって……! その名前、アルヴィン・レイヴァルトって……まさか、皇子様!?」
「……そうみたい」
声に出してしまえば、もう知らなかったとは言えない。
マルタは目をまんまるにして彼女を見つめた。
「う、うそ……そんな人が、セリーヌ様に手紙を? でも皇子って、確か――婚約者がいるって噂が……!」
その言葉が、セリーヌの中のもやを確かな形にした。
(やっぱり――遊び相手を探してるだけじゃないの?)
夜のバルコニーでの穏やかな語らい。シャンパンを手渡され、酔った彼が見せた危うい微笑み――
そして、あの「誘惑」ともとれる囁き。
思い出すたび、胸がざわつく。
でも――
彼の表情も、声も、眼差しも。
なぜか頭から離れてくれない。
(……あれが全部、演技だったって思いたくない自分がいるなんて)
セリーヌは自分の心の動きを、まだきちんと認められずにいた。
ただひとつ、はっきりしているのは。
――もう、断ることはできないということ。