表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/14

遠ざかる人

昼下がりの陽射しが、薄く開けた窓から差し込んでいる。セリーヌはいつもより早く家事を終え、書斎の隅で机に肘をついていた。視線は手元の手紙には向かず、ぼんやりと庭先の花を眺めている。


(……あの人が皇子? あの夜、なぜ私に……)


手紙の差出人が皇子であることをマルタから聞かされてから、セリーヌの胸は落ち着かなくなっていた。ただの気まぐれな貴族の青年かと思っていた。酔った勢いで言葉をかけ、忘れてしまうような、そんな人間だと。


だが、何度も思い返してしまう。夜風に揺れるブロンドの髪。感情の奥を隠すような淡い微笑。そして、手を取る時の、静かな温もり。


その時――


「お嬢様!」


マルタの声が、屋敷の廊下から響いた。扉を開けて飛び込んできた彼女は、どこか興奮気味に、けれどためらうように言葉を繋いだ。


「……これ、今朝の新聞ですけど、見てください!」


広げられた新聞の一面。そこには舞踏会で撮られたと思しき写真と、見出しが大きく載っていた。


――『皇子アルヴィン・レイヴァルト殿下、ついに婚約へ』

相手は大公家の令嬢、名前も既に出ていた。


「やっぱり……」


セリーヌは静かに呟いた。その声は、自分でも驚くほど感情のこもらないものだった。


「皇子が……婚約……?」


マルタが隣で肩を落とす。


「お嬢様のこと、からかったつもりじゃなかったんですよ……でも、もしやと思っていたら、本当に皇子様だったなんて……。あんな立場の人、普通に下級貴族の娘に声なんてかけませんよ……」


「そうね……私も、そう思う」


セリーヌは微笑んだが、それは自分を納得させるためのものだった。手紙の文字が滲むような気がしたのは、陽の光のせいか、それとも――


(私にとっては一度きりの偶然でも、あの人にとっては……何人目の”偶然”だったのかしら)


そんな考えが浮かび、喉の奥に小さな棘が刺さる。


手紙はまだ返していない。ただ、机の引き出しの中にしまってあるだけだ。封もせず、ただ宛名だけを書いた紙切れ。


「……もう、出す理由もないわね」


小さく呟いて、机の引き出しを閉めた。その音が、やけに大きく響いた。




3日後の朝、屋敷に届いた一通の封書は、他のどの便りよりも重みを持っていた。

封蝋に刻まれた紋章は、目にしたこともないほど精緻で荘厳――王室のものだった。


セリーヌは手を止め、しばらくその封を見つめていた。

まさか、と思いたい。けれど、心当たりは――たったひとつ。


震える指先で封を解くと、上質な筆致の手紙が現れた。


《セリーヌ・アルノワ殿へ


レイヴァルト皇子殿下より、先日の舞踏会でのご厚意に感謝を申し上げます。

つきましては、殿下のご意向により、近日中に王宮にて再度お会いしたいとのご希望を賜っております。


お差し支えなければ、下記の日程にて王宮へご来訪くださいますよう、謹んでお願い申し上げます。


日時:○月○日 午後二時

場所:王都中央王宮 第二謁見室


なお、当日は招待状をお持ちのうえ、門衛にご提示くださいますようお願い申し上げます。


王室書簡官代理 ルドヴィック・カサル》


セリーヌは手紙を持つ手に力が入りすぎ、紙がわずかに震えた。

思っていたよりもずっと早く、そして、あまりにも正式すぎる形で“その人”から連絡が来た。


――どうしよう。返事も出してないのに。


そのとき、後ろからマルタがそっと覗き込み、驚きの声を上げた。


「えっ、それって……! その名前、アルヴィン・レイヴァルトって……まさか、皇子様!?」


「……そうみたい」


声に出してしまえば、もう知らなかったとは言えない。


マルタは目をまんまるにして彼女を見つめた。


「う、うそ……そんな人が、セリーヌ様に手紙を? でも皇子って、確か――婚約者がいるって噂が……!」


その言葉が、セリーヌの中のもやを確かな形にした。


(やっぱり――遊び相手を探してるだけじゃないの?)


夜のバルコニーでの穏やかな語らい。シャンパンを手渡され、酔った彼が見せた危うい微笑み――

そして、あの「誘惑」ともとれる囁き。


思い出すたび、胸がざわつく。


でも――

彼の表情も、声も、眼差しも。

なぜか頭から離れてくれない。


(……あれが全部、演技だったって思いたくない自分がいるなんて)


セリーヌは自分の心の動きを、まだきちんと認められずにいた。

ただひとつ、はっきりしているのは。


――もう、断ることはできないということ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ