一通の約束
夜風が頬を撫で、グラスの中の泡が静かに弾ける音がした。
しばらくの沈黙のあと、アルヴィンはセリーヌの方を静かに見つめた。
「……あなたは、誰かを気遣うことに慣れている方ですね」
不意に投げかけられた言葉に、セリーヌは瞬きをした。
「え?」
「先ほどから、言葉の選び方や間の取り方が……優しい。無理に話題を探してくれていることにも気づいていました」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「いいんです。心地良かったから。……あなたと話すのは」
そう言って、彼はゆっくりと笑った。
その笑みは、初めて見せるものだった。酔いが少し彼の鎧を緩めている。いつもの冷たい仮面の隙間から、柔らかく熱を帯びた本音が覗く。
「……ねえ、セリーヌさん」
不意に名前を呼ばれて、彼女の心臓が跳ねた。
目が合う。真っ直ぐに見つめられているのに、不思議と拒めなかった。
「今夜だけでも、あなたの隣にいても……いいですか?」
低く、囁くような声。けれどその響きはまるで熱を帯びて、夜気の中でもはっきりと届く。
「たぶん、酔っているせいです。普段なら、こんなこと……言わない」
そう前置きしながらも、彼の指先がそっと彼女の手元へ伸びてくる。けれど触れる寸前で、ふわりと止まった。
あくまで選択を委ねるように、静かに待っている。
セリーヌは息をのんだ。心がざわめく。
目の前の青年の名前すら、苗字すら知らないのに――なぜか、とても遠い人に思えた。
それでも。
彼の言葉と眼差しには、どこか寂しさと、優しさが溶けていた。
「ごめんなさい。わたし……今日は、父の知人に招かれて来ていて……」
少しだけ笑ってみせた。けれどその笑みには戸惑いが滲んでいた。
「その方と会場で落ち合う約束で……ですから、あまり長くここにいるわけには……」
やんわりと、でも確かに断るその口調に、アルヴィンはふっと目を細めた。
「……真面目な方なんですね」
「え? あ……いえ、そんな……」
「その返事も、やっぱり優しい」
皮肉でもなければ、軽い調子でもない。
ただ、彼は本当にそう思っているのだと分かる声色だった。
セリーヌはそっと視線を逸らした。
彼の言葉も、優しさも、今の自分には少し重く感じる。
――なぜだろう。この人と話すのは不思議と居心地がいいのに、近づくのが怖い。
「……すみません。せっかくお声をかけていただいたのに……」
「謝らないで。僕のほうこそ、酔った勢いで出過ぎた真似をしたのかもしれない」
そう言いながらも、アルヴィンの視線は変わらず彼女を見つめていた。
まるで、ほんの少しの隙を、逃すまいとするように。
セリーヌはそっと一歩後ずさった。
「……それでは、そろそろ失礼します」
礼儀正しく、けれどどこか名残惜しそうに一礼する彼女の姿に、アルヴィンはふと動いた。
「……少し、待ってください」
その声に、セリーヌの足が止まる。
次の瞬間、そっと――けれど決して強くはない力で、彼が彼女の手を取った。
驚いて見上げたその瞳に、彼は一枚の小さな紙片をそっと差し出す。
「……これ、僕の名前と滞在先です。
もし……気が向いたら。手紙をください」
舞踏会の煌めきからわずかに外れたバルコニーで、夜風がふたりの間を吹き抜ける。
「僕はきっと、返信します。何通でも、何度でも」
その言葉に、セリーヌの胸がかすかに揺れた。
これまで聞いたことのない、けれどどこか懐かしいような、静かで誠実な声音だった。
彼女は迷ったように視線を落とし、そっと紙片を受け取った。
「……そんなにたくさん送られても、困ってしまいます」
「じゃあ、一通だけでも。僕に――あなたの言葉をください」
そう言って、彼はようやく手を離す。
セリーヌは紙片を胸元に収め、小さく礼をしてバルコニーを後にした。
背中に、彼の視線を感じながら。
車輪の音が夜の静けさを刻みながら進む。
王宮を離れた馬車の中、ランタンの灯りが揺れ、マルタの目がきらきらと輝いていた。
「で? 何かあったの?」
隣に座るマルタが、顔を乗り出すようにして訊ねてくる。
「……何も」
セリーヌはそっけなく答え、窓の外に視線を向ける。
「またまたぁ。私、知ってるんだから。舞踏会っていうのはね、突然の出会いがあるものなのよ。うっかり目が合っただけで――これは運命だ!みたいな!」
「……マルタ、それはあなたの恋愛小説の読みすぎじゃない?」
セリーヌは肩をすくめながらも、心の奥がそっと疼く。
(でも、確かに――“あの人”と目が合った瞬間、少しだけ時が止まったような気がした)
マルタは、セリーヌの様子を探るように目を細めた。
「ふふん、図星? ほらやっぱり何かあったんでしょう。顔に書いてあるもん。……あっ、でもまさか、会場の片隅でこっそりキスとか――」
「ないわよ!」
セリーヌは、思わず声を上げた。
その言い方が余計に怪しいとばかりに、マルタはさらにニヤニヤしながら身を乗り出してくる。
「でも、会場にいた間に何もなかったなら、どこで“目が合った”のかしらね~?」
「……バルコニー。少しだけ、空気を吸いに出ただけ」
「あらまあ、なんだか意味深!」
マルタの追及に、セリーヌは観念したようにため息をついた。
「本当にただの会話よ。」
「ふーん。」
窓の外にはもう、見慣れた家々の灯りが滲み始めていた。
馬車の中には、揺れるランタンの光と、胸の内の小さな秘密だけが残されていた。