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アルヴィン

「……ここは、静かでいいですね。

 ――もし差し支えなければ、隣、よろしいですか?」


ふいに背後からかけられたその声に、彼女は驚いて振り向いた。


静かで低く、感情の色があまり浮かばない。

けれど不思議と、そこには敵意も、礼儀だけでもない温度があった。


「あ……ええ、もちろん」


緊張しながらも応じると、彼はゆっくりと隣に立った。

月明かりの下、彼の横顔がはっきりと見える。


金髪を無造作にかき上げたような髪。

涼しげでありながらどこか影を孕んだ瞳。

それでいて、近寄り難いほど整った顔立ち――


「お一人で?」


「ええ。父の知人に招かれて来たんですが、少し、はぐれてしまって……。

 でも、こうして夜風にあたるのも悪くないですね。中はちょっと、賑やかすぎて」


気まずさをごまかすように微笑むと、彼は小さく頷いた。


「……同感です」


それだけで、会話が途切れた。

だけど、沈黙は不思議と居心地の悪いものではなかった。


彼女はそっと勇気を出す。


「――あの、差し支えなければお名前を伺っても?」


一瞬、彼の肩がわずかに動いた。


それでも彼は答えた。


「アルヴィンです。あなたは?」


「セリーヌ・アルノワと申します」


「……セリーヌさん。いい名前ですね」


彼の声は相変わらず淡々としていたが、その言葉の選び方にはどこか丁寧さと、微かな温もりがあった。


セリーヌは、月の光を見つめながら、胸の奥にひとつの疑問を抱いていた。


――この人は一体、誰なのだろう。


名は名乗った。けれどそれだけでは測れない、何かがある。


アルヴィンがちらりと横目を向けると、手に持っていたもうひとつのグラスを軽く掲げる。


「……実は、もう一つ持ってきてしまいまして。無粋だったら申し訳ない」


「え?」


「こういう場では、飲み物を手にしていない方に勧めるのが礼儀だと……教わったので」


その声音には、どこか照れ隠しのような気配があった。


セリーヌは少しだけ目を丸くして、それからふっと微笑んだ。


「……ありがとうございます。いただきますね」


アルヴィンの手から、シャンパングラスを受け取る。

グラス越しに指先がほんの一瞬触れた――けれど、すぐに彼はそっと手を引いた。


「乾杯、とは言いませんが……月にでも」


「ええ。月に――」


軽くグラスを合わせる。静かな音が、夜に溶けた。


セリーヌは一口だけ口をつける。優しい香りと、微かに甘く、けれどきりっとした味わいが舌に広がった。


「……おいしい」


「良かった。口に合って」


再び、沈黙。


でも今度は、その沈黙がどこか心地よくて。

セリーヌは、隣に立つ彼の横顔をそっと見た。


どこか、誰かを遠くに見るような瞳。

名前しか知らないのに、不思議と――もう少し、この人を知りたいと思っていた。


グラスの中で、シャンパンの泡がはじける。

アルヴィンはそれに目を落としながら、ふと口を開いた。


「……この時間の空気、好きなんです。少し冷たいけれど、澄んでいて」


セリーヌは頷きながら、グラスを軽く傾けた。


「昼間の喧騒が嘘みたいに、静かですね」


「ええ。舞踏会の音も、ここまでは届かない。……まるで、世界から切り離されたみたいだ」


静かな声に、少し笑みが混じっている。


「なんだか不思議ですね。見知らぬ人と、こんなに穏やかに話してるなんて」


「……確かに。不思議です」


そう言って彼は少しだけグラスを掲げた。

「こういう出会いも、たまには悪くないかもしれません」


ふと、セリーヌは目の前の青年――アルヴィンの動きに違和感を覚えた。

彼はグラスを静かに口元に運びながらも、その動作がほんのわずかに遅れている。


「……もしかして、けっこう飲んでらっしゃいました?」


彼はグラスを置き、静かに目を伏せた。

「……少しだけ、気が緩みました。今日は……私にとって、特別な日だったので」


「お祝いですか?」


「そんなところです。普段はあまり飲まないのですが……」


そう言って彼は、少しだけ口元に笑みを浮かべた。だがその視線は、どこか遠くを見るようにぼんやりしている。


(あれ、本当にちょっと酔ってる……?)


セリーヌは、目の前の青年がずっと冷静で、感情を見せないタイプだと思っていた。けれど――


「……少し酔ってしまったので、夜風にでもあたろうかと思ったのです」


ぽつりと、彼は口にした。

さっきと同じ、静かな声。でもその言葉には、先ほどよりも人間らしい温かみがあった。


「それは……正解かもしれませんね。こんな夜ですから」


セリーヌも思わず笑みをこぼした。

彼の隣は、冷たい風の中に、ほんのりとアルコールの香りが混じっていた。

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