舞踏会の扉が開くとき
王都の中心部にそびえ立つ壮麗な宮殿。その正門をくぐると、煌びやかな光に包まれた中庭と、続く階段の先にある大広間が、まるで夢のような世界を演出していた。
セリーヌは、装飾の施された馬車の扉を開けられ、静かに降り立った。足元には絨毯が敷かれ、行き交う貴族たちの笑い声と音楽が、夜空に溶けてゆく。
「セリーヌ嬢、お待ちしておりましたよ。」
呼び止められて振り返ると、そこには父の知人である中年の貴族――侯爵家の当主、ギュスターヴ・ルセールが立っていた。背は高く、やや厳格な顔立ちの男性だが、その目元はどこか柔らかい。
「今夜はご招待に預かり、光栄です。お招き、ありがとうございます。」
セリーヌが礼儀正しく一礼すると、ギュスターヴは軽く頷いて微笑んだ。
「父上とは、昔からの戦友でね。娘さんがこんなに立派に成長されたとは…彼も鼻が高いだろう。どうか気兼ねせず、この夜を楽しんでください。」
「はい。…少し、緊張していますけれど。」
「それでいいのです。緊張を知らぬ者は、本物の礼節も身につけられないものですから。」
ギュスターヴの横には、彼の妻らしき上品な婦人と、同年齢ほどの少女も立っていた。セリーヌは軽く会釈を交わし、誘われるまま会場の中へと足を踏み入れる。
大広間には、豪華なシャンデリアと花々の香りが漂い、楽団の奏でる優雅な旋律が天井まで響いていた。色とりどりのドレス、笑い声、視線。全てが、どこか現実味を帯びていない。
(…本当に、夢のよう。)
「では、私は少しご挨拶を……どうぞ、ご自由に。」
ギュスターヴが控えめに言い残し、他の貴族たちと挨拶を交わしに行く。その妻や娘たちも、社交の輪に吸い込まれるように別の方向へと歩いて行ってしまった。
(……あれ?)
セリーヌは一瞬、声をかけようかと迷った。けれど、人々の笑い声や会話の波に遮られて、タイミングを逃してしまう。気づけば、彼女の周囲には見知った顔は一人もいなかった。
「……。」
頬にかかった髪をそっと耳にかけながら、セリーヌは視線を落とした。誰も彼女に気を止めることなく、貴族たちはグラスを片手に楽しげな談笑を続けている。若い男女がペアになってダンスを踊る中央のフロアを横目に、彼女は立ち尽くした。
(お父さまの知人に、また声をかければいいだけ。でも……)
見知らぬ顔、聞き慣れない話し声、煌びやかであるがゆえのよそよそしさが、胸の奥をそっと冷やしていく。
(どうして、こんなに居心地が悪いのだろう……)
孤独感がじわじわと広がる中、ふと、背後の扉が風に揺れる音が聞こえた。視線を向けると、会場の端、開かれたバルコニーの方へ続く小道があった。
セリーヌは静かに歩き出す。賑やかな空間から少し離れた場所に、ひとときでも自分の呼吸を取り戻せる場所があるのではないか――そう思ったのだ。
外の空気は、思っていたよりも冷たかった。
バルコニーに足を踏み出したセリーヌは、思わず肩をすくめながら、そっと息を吐いた。夜空は高く、月が雲の隙間から顔を覗かせている。都会の光が届かない場所なら、もっとたくさんの星が見えただろう。
背後の大広間からは、音楽と笑い声がかすかに漏れてくる。けれど、ここは別世界のように静かだった。
「……ふう。」
欄干に両手を添え、セリーヌは小さく息を吐く。胸の奥に溜まっていた緊張が、少しずつほどけていくようだった。
(こんな場所に来るなんて、私らしくもないのに。)
煌びやかなドレスに身を包んだ自分を、どこか他人のように感じる。鏡の前で「似合っている」と言ってくれたマルタの声を思い出しても、まだどこか、現実感が薄かった。
「誰かと話すつもりも、踊るつもりもない。ただ、誘われたから来ただけ。」
小さく呟いた言葉は、夜の空気に溶けていった。
足元のタイルが冷たく、風が髪を優しくなでる。セリーヌは無意識に夜空を見上げ、月に問いかけるように目を細めた。
(帰れたらいいのに……)
そんな願いを抱いた瞬間だった。
背後で、静かに扉が開く音がした。
振り返ると、そこに――ひとりの青年が立っていた。