噂の愛人
セリーヌが外を見ると、すでに日が暮れ始めていた。
夕日が窓を染め、橙の光が部屋に差し込む。眩しさに目を細めながら、彼女は静かにカーテンを閉めた。
アルヴィンにこの部屋へ閉じ込められてから、もう半日が経つ。
けれど、彼が戻ってくる気配はない。
(どうしよう……お父様もお母様も、マルタたち使用人も心配しているはずなのに。)
そのとき、扉の向こうから人の声が聞こえた。
「ここには誰も入るなって殿下がおっしゃってたのよ。交代の時間だから、あとはお願いね。」
少し年配の女性の声に、若い使用人の声が続く。
「はい。お疲れ様でした。」
足音が遠ざかると、代わりにひそひそとした声が漏れ聞こえてきた。
「ねえ、朝方に殿下が女の人を抱えてこの部屋に入っていくのを見たって話、本当?」
「私も見たのよ。栗色の髪の女の人! 殿下には婚約者がいるのに、まさか愛人でも作る気かしら?」
セリーヌは顔を引きつらせた。
いつの間にか自分の知らない所でアルヴィン殿下の愛人という事になっているらしい。
「まだ何もしてないのにな…」
そう思った瞬間、ガチャリと扉の錠が外れる音が響く。
反射的に振り向いたセリーヌの前に、黄金色の髪を持つ青年が立っていた。
アルヴィン・レイヴァルト――
彼女をこの部屋に閉じ込めた本人である。
「私と何をしたいんですか?」
頬を染め、思わず後ずさるセリーヌ。
アルヴィンは穏やかな笑みを浮かべながら、扉と再び鍵を閉めた。
「いえ、何かしたいなどとは考えておりません」
使用人達の話を聞いていたのだろうか。
だとしたらまるで私がアルヴィンと何か既成事実を作りたい人みたいで恥ずかしい。
「私はしたいと考えていますがセリーヌ様に許可を頂けないので我慢しております。」
セリーヌは息を呑む。
いつもの穏やかな殿下とは違う。
彼の瞳の奥には、どこか焦りのような、熱のようなものが宿っていた。
「こ、婚約者でもない男女がこんな個室で二人きりなど……破廉恥です!
それに私は下級貴族の娘ですし、殿下には正式な婚約者様も……!」
アルヴィンは一歩、セリーヌの方へ近づいた。
「では――あなたを婚約者にすれば、破廉恥ではなくなりますね。
そして身分差も、もう問題ではなくなる。」
「え……?」
彼の微笑みは美しく整っていた。けれど、そこに温度は感じられなかった。
まるで感情を隠すための仮面のように。
「本日はここにお泊まりください。セリーヌ様が納得されるまで、返すつもりはありません。」
彼は懐から一通の手紙を取り出す。
「本日はここにお泊まりください。私はセリーヌ様が納得されるまで返すつもりはありません。あと、マルタさんより手紙を預かっております。」
アルヴィンはセリーヌに手紙を手渡した。
手紙には「私の大事なお嬢様へ」と、見慣れた丸い字が並んでいる。
"お嬢様がお城に向かわれてからなかなか帰ってこられなかったので旦那様、奥様、使用人一同、心配しておりました。
ですが、まさかお嬢様が殿下の御心を掴んだと聞きマルタは興奮しております。
是非とも殿下の婚約者としての座を勝ち取って旦那様と奥様にいい報告ができるのを楽しみにしております。"
PS 既成事実を作ればこちらのものですよ♡
セリーヌは頭を抱えた。
(マルタ……なんてことを書いているの! これを誰かに見られたら……!)
「どうされましたか? お疲れのようでしたら、ベッドでお休みになりますか?」
アルヴィンの穏やかな声に、セリーヌは慌てて首を振る。
「い、いえ……結構です。」
舞踏会の日から、すべてが狂い始めた。
殿下のアルヴィン、その婚約者エリス、そしてお調子者のマルタ。
お父様とお母様は娘が帰らないのに、マルタだけが手紙をよこすなんて……どういうことなの。
セリーヌは深く息をつき、ベッドの端に腰を下ろした。
窓の外では、夕日が沈み、夜が静かに城を包み始めていた。
――そして、彼女の心にも、長い夜が訪れようとしていた。