エリス
花の香りがかすかに漂う回廊を歩く二人。
宮廷建築の荘厳な柱と、天窓から差し込む陽光が、アルヴィンとセリーヌの足元に優しく影を落としていた。
「こちらは応接の間です。……王族や重臣たちが、来客を迎えるために使います」
「……想像していたよりも、落ち着いた雰囲気なんですね」
セリーヌが扉の奥を覗き込みながら言うと、アルヴィンは小さく笑った。
「華やかに見える場所ほど、意外と静かなものですよ」
その時だった。
「アルヴィン様――!」
高い声が回廊に響いた。
セリーヌが振り返ると、色鮮やかなドレスに身を包んだ女性が、こちらに向かって歩いてくるところだった。
彼女は見るからに気品ある立ち姿で、セリーヌとは明らかに違う、何か“王宮に馴染んだ空気”を纏っていた。
「探しましたよ。お戻りにならないから……」
アルヴィンは、ほんの一瞬、表情を動かしたように見えた。
だが、すぐに穏やかな声で応じた。
「すまない。少し散歩をしていたんです」
「……ふふ。ずいぶんと珍しい方を連れていらっしゃるのね?」
女性の視線が、セリーヌに向けられる。
まるで見定めるようなその瞳に、セリーヌは思わず背筋を正した。
「お客様ですか? アルヴィン様に案内されるなんて、よほど特別な方なんですね」
どこか含みのある笑み。
だがその微笑みがどれほど穏やかでも、セリーヌの胸に小さな棘のような違和感を残した。
(……彼女は誰? あんな風に呼びかけて、親しげに話して……)
まるで、“それが当然”とでも言うような距離の近さ。
(もしかして……婚約者?)
そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
「――私は、そろそろ失礼します」
気がつけば、セリーヌの口が勝手に動いていた。
アルヴィンが何か言いかけたが、セリーヌは軽く頭を下げてその場を離れた。
背中越しに、あの女性の笑みが追いかけてくる気がして――その場にいられなかった。
セリーヌの姿が角を曲がって見えなくなった瞬間、アルヴィンは隣の女性へと静かに言った。
「――失礼」
それだけを残し、踵を返して彼女の後を追った。
「……あら、また今度、ゆっくりお話を」
女性の言葉に振り返ることはなかった。
石畳を打つ足音だけが、回廊に響く。
もう少し遅ければ見失っていたかもしれない。
アルヴィンは、薄暗い中庭の奥でようやくセリーヌの背を見つけた。
「……セリーヌさん……もう少しだけ、時間をいただけませんか」
アルヴィンの言葉に、セリーヌは一瞬、迷った。
追いかけてきた彼の真剣な眼差し。
それに少しだけ心が揺れたことを、自分でも否定できなかった。
――でも。
(あの人のことを、説明してくれなかった。)
彼の隣に立っていた美しい女性の姿が、頭から離れない。
自分には踏み込んではいけない場所――そんな気がして、胸が締めつけられる。
「……申し訳ありません。実は、少し立ちくらみがして……」
セリーヌは、わざと少し眉をひそめて額に手を添えた。
それは咄嗟の嘘だった。でも、どうしてもこのまま彼と一緒に歩く気にはなれなかった。
「きっと、長い時間、気を張っていたせいですね。慣れない場所で……」
アルヴィンの顔が、ほんのわずかだけ曇る。
けれど、それ以上何も聞かずに、静かに頷いた。
「それは……失礼しました。お身体を大切に」
「ありがとうございます。馬車を呼んでいただければ、ひとりで帰れますから」
アルヴィンはしばしの沈黙のあと、手を胸に当てて一礼した。
「……では、また」
その声は穏やかだったけれど、どこか寂しげだった。
セリーヌは深く頭を下げ、踵を返した。
背中に彼の視線を感じながらも、振り返ることはしなかった。
(私は、皇子様とは――関係ない。そう、きっと……)
心の奥で何かが揺れていたけれど、セリーヌはその感情に気づかないふりをして、静かに歩み去った。
セリーヌと別れた後、アルヴィンは静かに扉をくぐり、婚約者のもとへと戻る。彼女は控室で上品に紅茶を口にしていたが、アルヴィンの姿を見るなり、微かに眉をひそめた。
「……どこに行っていたの?」
「少し、風にあたっていただけです。突然離れてしまって、すみません」
アルヴィンの低い声に、彼女は唇を結んだまま頷く。
「そう。なら、いいわ」
わだかまりを残しながらも、その場は一応の和解を見せた。
その日の夜遅く、王宮の書斎。書棚に囲まれた静寂の空間の中、アルヴィンは机越しに父を見据えて口を開いた。
「彼女のご家族と、近日中に正式な話し合いの場を設けたいと思います」
重く響くその言葉に、父はすぐには返事をしなかった。
手元の書類に視線を落とすふりをしながら、眉間に深いしわを寄せる。鋭くなった眼差しが、一瞬だけ息子を射抜く。
まるで「それがどういう意味を持つか、理解しているのか」と問いかけるような、無言の圧。
だが、アルヴィンは目を逸らさなかった。ただ静かに、変わらぬ口調で次の言葉を続ける。
「……お力添えを、願えますか」
わずかな沈黙の後、父は書類を閉じ、椅子にもたれた。
承諾か否か――その判断は、まだ下されていない。
舞踏会用のドレスが並ぶ広間。鏡の前に立つ婚約者――エリス・ヴァレンティーヌは、鏡越しに自分の目を見つめた。思い浮かべるのは、アルヴィンの隣にいた――あの、見知らぬ令嬢の姿。
「……誰なのよ、あの女。どこの令嬢? 私の知らない顔なんて、面白くないわね」
声には明確な苛立ちと、どこか張りつめた焦燥感が滲んでいる。
彼女の言葉に応じるように、控えていた執事が一歩前へ進み出た。
「詳細をお調べいたしましょうか、エリス様」
「ええ。あの娘について、すぐに調べて。出身、家柄、素性――すべてよ」
「かしこまりました、エリス様」
執事が静かに頭を下げると、エリスは鏡の中の自分を睨みつけるように見つめた。
完璧な笑みの奥に、今にも崩れそうな苛立ちがひそんでいた。