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はじまりは夜の煌めき

舞踏会の灯りが揺らめく夜。

華やかな音楽と、磨き抜かれた大理石の床に踊る影たち。

その中心から少し外れた、ひと気の少ないバルコニーで、セリーヌ・アルノワは一人、夜風に身を任せていた。


下級貴族の娘である自分が、こんな場にいること自体、不思議な感覚だった。

王都に暮らす父の旧友――ある貴族の計らいで招かれたこの夜会。

慣れない豪奢なドレスと、気疲れするような社交の空気。

セリーヌは最初から、夢を見るつもりなどなかった。


――これはただの一夜。誰とも心を通わせるつもりもない。


だがそのとき、バルコニーの隅にひそやかに現れた人物がいた。


「……こんばんは。少し暑くて、こちらに避難してきたんです。お邪魔でしたか?」


感情の読めない声。けれどその一言に、確かな気遣いが滲んでいた。


振り返ると、月の光を背に立つ青年がいた。

金色の髪、静かな瞳。どこか気品のある佇まいだが、名前も身分もわからない。

ただ、周囲の貴族とは違う何かを纏っていた。


――誰なんだろう、この人は。


その夜、彼が誰であるかを、セリーヌはまだ知らない。

そしてこの出会いが、運命の歯車を動かすとは、思いもよらなかった。

「セリーヌ、お前がそんなに浮かない顔をするなんて珍しいな。舞踏会が嫌か?」


父のからかうような声が、朝の静けさを破った。セリーヌは鏡の前で小さくため息をつき、後ろでリボンを結んでいるマルタに目配せを送る。


「嫌というわけじゃないけど……慣れていないだけです。華やかな場は、どうにも落ち着かなくて」


「正直ね」

マルタが笑いながら手を止め、セリーヌの髪の毛を丁寧に撫でた。「でも、今日は大事な夜よ。王子殿下の誕生祭なんて、滅多に招待されないじゃない」


「そう言われても、下級貴族の娘が行っていい場じゃない気がするわ」

セリーヌが不安げに言うと、母がすっと近づき、肩に手を置いた。


「セリーヌ。あなたが呼ばれたのは、お父様の人望のおかげでもあるのよ。自信を持って、誇りを持っておいでなさい」

「それに、父の友人の紹介なんだろ? おかしなことは起こらないさ」

父は新聞を畳みながら言った。「何より、お前が行けば家の評判も少しは上がる。なに、楽しんでくるだけでいいんだ」


「……わかりました」

セリーヌは小さく頷き、姿勢を正す。「それにしても、このドレス、ほんとに動きにくい……」


「女の子はね、多少の我慢が美しさをつくるのよ」

マルタがしたり顔で言って、セリーヌの腰のリボンをきゅっと締めた。「はい、できあがり。あとは笑顔だけ」


「それが一番難しいのよ」


そんな冗談めいたやりとりに、家族の温かい笑い声が部屋に広がった。


屋敷の門前には、ひときわ美しく磨かれた馬車が待っていた。

御者が丁寧に頭を下げる中、セリーヌは裾をつまんで慎重に石畳を歩く。


「おい、マントはちゃんと持ったか?」

父の声が背中から飛んできた。振り返ると、彼は腕を組みながらもどこか落ち着かない表情をしていた。


「はい、ちゃんとバッグに入れてあります」

そう答えると、父はふうっと息をついた。


「いいか、貴族の集まりには礼儀がものを言う。相手が誰であろうと、決して媚びず、誇りを持って臨め。それがお前の母に似た、我が家の娘の良さなんだからな」


「お父さん……緊張してるのは私のほうなんですけど」


「だからこそ言っておくんだ。変な男に引っかかるなよ」


その横で、母がふふっと笑った。


「あなた、心配しすぎよ。セリーヌはそんな軽率な娘じゃないわ」

彼女はそっと近づき、セリーヌの頬に触れた。「でも、どんなにお行儀よくしていても、心が疲れたら笑顔は出せないから。無理はしないで、少しでも楽しんできなさいね」


「……うん。ありがとう、お母さん」


気づけば、マルタも後ろで笑いながら小さく拍手をしていた。


「感動の別れみたいになってるけど、舞踏会の帰りにはまた会えるわよ?」


「マルタ、ちょっと黙ってて」


軽口を叩き合いながらも、どこか背中を押されるような温もりに包まれて、セリーヌは馬車の階段を上った。


父と母が並んで見送る中、扉が静かに閉まる。

やがて、馬車は蹄の音を響かせながら、星降る夜道へと進み出した。


カタン、カタン――。


馬車の揺れが一定のリズムを刻みながら、夜の王都へと進んでゆく。

窓の外には、街灯の明かりと、星空が交互に流れていった。


セリーヌは膝の上で指を組みながら、小さく息をつく。


「……やっぱり、緊張するな」


隣に座るマルタがちらりとこちらを見る。


「まぁね。私だったら緊張で気絶してるかも。でもセリーヌはほら、落ち着いてる。すごいわよ」


「そんなことないよ。内心はバクバクだもん。だって、ああいう場所に出るの、初めてだし」


「でも、あのドレス似合ってたよ。きっと誰よりも素敵」


「ありがと。マルタが手伝ってくれたから」


ほんの少し、口元がほころぶ。


マルタはにんまりしながら身を乗り出した。


「でもね、セリーヌ。舞踏会って、素敵なことばかりじゃないのよ。貴族の男たちって、うっかり目が合っただけで『これは運命だ!』とか言い出すんだから」


「……それ、どこ情報?」


「お屋敷のキッチン!女中たちのゴシップは侮れないのよ!」


セリーヌは思わず吹き出し、笑い声が馬車の中に響いた。

少しだけ、心が軽くなる。


「大丈夫よ。私は夢を見に行くわけじゃないから。ちょっと顔を出して、礼儀を尽くして、帰ってくるだけ」


「ほんとに?王子様に声かけられたらどうする?」


「そんなこと、あるわけないでしょ」


セリーヌはそう言って窓の外に目を向けた。

でも――なぜか胸の奥が、ほんのわずかにざわめいた。


まるで何かが、始まろうとしているような。



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