一章 銀雪の魔女 6
精霊
精霊王の眷属たる存在であり、人間に魔法を授けた存在ともされる。揺蕩う世界の欠片達は何を思って神の下へ——
城塞都市ラミルから数日の距離にある山間。英雄の時代から最早その領域へ足を運ぶ者はいなかった。シュレイタルに刻まれた恐怖、その根源が在るかの地へ好き好んで立ち入る筈もない。
ただ一人、この男を除いては。
胸元に揺れる、『守護者』の首飾り。蛮剣、数日分の食糧、そして魔女の知識を手に旅装束の男性は歩く。
先に広がるのは魔女の領域。全てが凍え、呑まれる銀雪の地獄。しかしリヒトの足取りには迷いも躊躇いもありはしない。
守護者の子として、守護者に憧れた者として守る為に魔女を殺しに来た。道を阻む者が人でないのならば、憎み、討つべき魔女ならば、彼は躊躇せず剣を振うだろう。
ただ目的を遂行する為に復讐者は閉ざされた町へと向かっている。
表情に怯えはない。淡々と距離を詰め銀雪の領域は目と鼻の先。だがリヒトの意識はそちらへ向いていなかった。
彼は深く深く思考の海に浸かっている。タームから得た『銀雪の魔女』の情報を精査する為に。
地獄を生き延びた傭兵は様々なことを語った。魔女の使う呪い、その凄まじい威力と範囲。大軍を死へと追いやった氷雪の冷たさ。
話を聞く限り、まさにその印象は悪魔の使いだ。とても人の容姿に近しい存在とは思えない恐怖の権化。魔女狩りの四英雄は如何にして奴らを討ち倒したというのか。
以前自分が殺した魔女は明らかに規模が違う。されど自分はやらねばならない。
父を恩人と仰ぐ男に頼まれた。ラミルの人々は銀雪の魔女が齎す冷気で大きな被害を被った。そして、何よりも自分自身の為、災花の魔女を殺す為に大魔女との戦闘は経験しておかねばならない。
だからリヒトは思考する。魔女の攻撃で厄介なものはどれか、どう攻略するべきか。二度目などありはしないのだ。失敗すれば死が待っている。策を弄することに越したことはない。
まず、己の手札を考える。自分が持ちうるのは鍛え上げた身体、練り上げた剣技、その過程で手に入れた速さ。
特に速さは重要になることだろう。魔女の呪いは必殺、当たってしまえばそれまで。躱すにもしても距離を詰めるにしても速さがあれば幾分か楽になる。
魔女の領域には雪が積もっているだろうがそれはもとより知っていたこと。ケルト領にも雪は降るのだ。この日を見越して雪上での訓練も怠らなかった。
大魔女を相手する為の五年。決して無駄にするつもりはない。
思考の海に浸かっていた意識が現実に戻り、リヒトは足を止める。ここに来るまでの道のりとは明確に異なる、目前の景色。
そもそも、今は夏だというのにこの近辺は寒々しかった。草木は枯れ、緑がない。絶えず冷たい風が頬を撫でていた。
この先には冬がある。音も命も、全てを白が覆い隠す死の世界。ただしんしんと雪が積もり、風が吹く。それだけの世界。他には何もありはしない。
ふと、リヒトは思う。
何故銀雪の魔女は、何もない世界に止まるのだろうか。この外に奴の敵となりうる存在は皆無といっていい。それなのに、奴は出てこない。
他の大魔女にも同じことが言える。各大魔女が持つ領域。呪いに侵された地。奴らは一歩たりともそこを出ない。
領域の内に何かがあるのか、それとも出ることができないのか。
過去、大魔女の領域が広がった例がある。しかし、領域の外で大魔女の姿が確認された例は存在しないのだ。
そも、大魔女と魔女は何が違うのだろう。何故魔女は領域を持たない? 領域には何の意味が——
そこまで考え、リヒトは首を振る。現状、そこまでに何かを見出すことなど不可能で、何より意味がない。考えれば考えるほど、ドツボに嵌るのだ。
魔女は、人の敵。今はその事実さえあればそれでいい。
今までの思考を振り払い、魔女の領域へ足を踏み出しかけ——微かな違和感に動きを止める。
なんだ? この感覚は。
リヒトには魔力が見える。貴族の中でもごく少数、この能力を持つ者は稀だが彼には才があった。才を磨き、魔女狩りの為により昇華させた。
故に、不自然さに気がつく。
大気中に満ちる魔力。それは本来均一なのだ。魔女の領域のように頭抜けて濃くなっている場所も存在こそすれ、あくまで例外。同じ土地で濃度に差異が生まれるわけはないのだが——ここにはそれがあった。
領域に近いからだろう。辺りに満ちた濃い魔力。その一部が球状に薄く、揺らいでいる。
経験を積み、数多の書物を読み漁り、しかしリヒトにはこんな現象、まるで覚えがないのだ。
ソレは意志を持っているかのように宙を舞い、揺蕩う。
コレは、なんだ。ここは魔女の領域。第一に疑うべきは『穢れ』、次点で攻撃だが、悪意も害意も感じられない。
一つの揺らぎがリヒトの側を横切る。なにをするでもなく。
穢れでないのなら、一体なんだというのだ。敵か、味方か。あるいは外側の存在だろうか。判断材料があまりに少ない。まるで正体が掴めなかった。
リヒトは一つの揺らぎを見上げる。
そこに何が在る?
そこに——何が居る?
途端、それは現れた。否、視えるようになった。
揺らぐ、色とりどりの光。それらは球となって天に舞う。自由に、奔放に、喜びを表現するかのように、空を舞う。
その存在を、リヒトは知っていた。この国の誰もが知っている。
——精霊。
唯一神に使える王の眷属。世界の守り手。
精霊はリヒトに集い、彼を囲む。渦巻き、流れ、男を視た。
目の前にいるのは人より高次の存在。畏れ敬い、ひれ伏す対象であるはずなのに、胸に湧き出たのは——喜び。そう、彼は歓喜していた。
教会で話を聞かされ、本で知る。それだけの存在であるはずなのに。自分はスペス教の熱心な信徒ではないのに、心が、震えている。高揚している。
青、赤、紫、緑、黒、白。鮮やかな色彩が視界を彩っている。
『彼ら』は声をあげなかった。されどリヒトには伝わっている。この出会いへの歓喜が。心からの喜びが。彼らもまた、舞で高揚を表す。
しばし時間の感覚が消えていた。ずっとそうしていたような気もするし一瞬にも満たないようにも感じられる。
光の渦が途切れ、精霊が離れていく。彼らは魔女の領域へと飛んでいく。胸にあった歓喜も高揚も、いつの間にか消えていた。
『彼ら』はなんなのだろう? 何かが居ると目を凝らした途端に姿を現し、自分との出会いに喜びを見せた。自分のまた、彼らとの出会いに歓喜していた。
あの懐かしさは、何に由来するのだろう。
リヒトは精霊の消えていった方、銀雪の世界に目を向ける。
この先へ行けば、何かわかるのだろうか?
一歩、凍てつく世界に足を踏み出す。白く、白く、全てが閉ざされた世界へと。
銀雪の下に、疑問の答えが隠されている。そんな予感がしていた。
躊躇なく、先へ先へと歩を進める。雪を乗せた冷たい風が頬を撫でても熱が引かない。
憎悪と好奇の熱でリヒトの瞳は紅く揺らいでいる。この先にいるであろう大魔女を見据え、英雄の子は征く。




