一章 銀雪の魔女 5
魔照石
魔女や穢れの心臓部に生成される輝石。砕かれた魔照石の欠片は主に魔法具の材料として用いられる。
訓練場に立つ二人の男。その片割れである初老の巨漢が問うた。
「武器はどうする?」
「このままでいいだろう」
腰に吊るされた剣の柄に手をかけたまま年若い少年は答えた。
目の前の男はリヒトの全力を見定め、その上で退かせたいのだ。模擬戦用の武器では全力を見せられない。自分の得物は特殊なのだ。
それに——復讐を、自分の生き方否定されて黙っている筈もない。
薄紅の瞳が濁る。復讐の火は熱を奪い、闇を生む。
冷徹な目で「敵」を捉えた。否定などさせてたまるか。
私はもう、引き返すつもりはない。
「始めようか」
そう言ってタームは直剣を抜く。堂に入った所作。そこからは積み重ねた年月が窺える。
いざ目の前で剣を構えられると洗練された武人の威圧感がありありと感じた。ああ、確かに彼は強者なのだろう。死線を潜り抜けてきた歴戦の傭兵。騎士団の指南役に選ばれるのも納得できる。しかし——魔女には及ばない。
リヒトが十四の頃、ただ一度だけ魔女と戦ったことがある。魔女が出たという噂を聞きつけ近隣の街へ赴き遭遇したのは貧相な身なりの女だった。
細い身体に煤けた服、とても悪魔の使いなどには見えなかった。油断したのは一瞬。背筋に悪寒が走り魔女の威圧感が増したと思った次の瞬間、奴が生み出した火球にリヒトは左腕を焼かれていた。
痛みが走った瞬間に意識を切り替え、即座に接近して首を断ち事なきを得たが、あの日の経験はリヒトに強く焼き付いている。教会で受けた神聖魔法によりとうに傷跡はないが、今でも時折焼ける感覚が蘇るほどに。
初めて魔女と見え、リヒトが得た教訓は四つ。
どんな姿であれ決して油断するべからず。
魔女の反応速度は人と変わりない。
魔照石を砕けば即座に殺せる。
故に、魔女は勝てない敵ではない。
魔女は恐ろしい存在だ。しかし勝てない訳ではない。そして、目の前の男はリヒトが殺した魔女にさえ劣る。
油断はしない。しかし、負けるとは思えなかった。
リヒトが抜剣するとタームは俄かに目を見開く。彼の振う武器が異端のものであったが故に。
異国との戦争を経験した者達にすれば、この武器を扱う者に対し唾を吐き石を投げるのは当然。リヒトが使うのはそういう武器だ。戦争を知らない今の人間でさえあまり良い顔はしない。
帝国で一般的な直剣とは違い薄くて軽い。叩き斬るのではなく切り裂く事に特化した片刃の剣。
数十年前にこの国へ侵攻した異国の兵士。その多くが用いていた為に『蛮剣』と揶揄されるこの武器をリヒトは自ら手に取った。
直剣を構えるタームを正面に見据え、腰を低く落とす。抜き身の剣を身体の横へと持っていき、全身に魔力を巡らせる。騎士の間では基本とされる魔力による身体強化。そこにリヒトは魔法も加えた。
呟くように詠唱すると足元に現れる魔法陣。白い光を放ちながら緩やかに回転し、次の瞬間には消え失せる。リヒトの身体からは魔法陣と同質の光が放たれていた。
光の精霊から与えられたとされる強化魔法。光の加護を持つ者が少ない為に扱える人間は少ないが、その効果は大きい。
溢れ出る力に最初は万能感すら覚えたほどだが、戦場で冷静さを失うことは命取り。五年でこの感覚には慣れた。
上半身から力を抜き、自然体を意識する。頭の中に浮かぶのは魔女を封じた英雄の剣技。
エルネーラ侯爵家に着いた次の日、リヒトはディーノから一冊の書物を手渡された。ブローディアから渡すようにと命令されたそうだ。
書物を開き、リヒトは驚嘆した。それが『希齎の英傑』によって綴られたものであったから。
記されていたのはある剣技について。彼が使っていたとされる技の詳細が事細かに書かれていた。何故これを父上が所有していたのか、最早知る術はないが、魔女狩りを目的としたリヒトにとってこれ以上のものは存在しえなかった。
復讐心を糧に練り上げられたその技をタームに向ける。
なんの変哲もない一歩。迎え撃とうとタームは腰を落として剣を正面にリヒトを見据えた。
徐々に距離が詰まり、ここだ、とタームは剣を振う。
しかし、気がつけばリヒトは既に間合いの内。敵の懐で剣を振りかぶっていた。
春の野、花弁を乗せた風の如く、気がつけば己を過ぎ去り後方へ流れている。違和感さえ与えず、緩急自在の歩法にて間合いに踏み入り、反撃を許さない。さながら舞の様に美しく、その実一閃の下に首を断つ、殺す為の剣技。
書に記された『剣舞 花片運風』その一片。
タームは思考する余裕もなく、ただ危機感に駆られて恩人の子へ目を向ける。揺れる銀の首飾り。守護者に似ていない顔立ち。その瞳に宿る昏い灯を幻視して、背に冷たい汗が流れた。
首に鋭い刃が迫る。彼は本気だ。本気で殺しにきている。『死』、その言葉が脳裏に浮かぶ。
反射的に目を瞑り——しかしいくら経とうと一向に死は訪れなかった。
恐る恐る瞼を開ける。視界に映る少年の顔、タームの目には動揺を必死に押し隠している様に見えた。
振られた刃は首の薄皮一枚を切り裂き、そこで動きを止めている。
「降参する」
彼が一言告げるとリヒトは剣を納め、カリーナから贈られた指輪に触れる。
今のは、危なかった。一瞬でも止めるのが遅ければ刃は間違いなくタームの首を裂いていたことだろう。
酷く狼狽する心を、指輪から溢れ出るカリーナの魔力の温かさで落ち着ける。これが無ければ、カリーナの魔力を感じ取れなければ、きっとタームを殺していた。
リヒトの瞳から影のような濁りが消え、代わりに怯えの色が宿る。
自分の生き方を否定されたも同然。しかし、タームは善意からリヒトを止めようとした筈だ。そんな人を殺しかけた。直前まで何の躊躇いも無かったという事実が、ただただ恐ろしい。
不意に、肩に手が置かれた。自分が殺しかけた男はどんな思いでこうしているのか。
緊張したまま、顔を上げる
目にしたのは、穏やかな表情を浮かべたタームの姿。そこには、怒りの不満も見つけられない。
「そんなお顔をなさらないでください。本物を使っての戦闘を私は承諾しましたし、こうして生きているのだから問題ありませぬ」
「しかし……」
「これは私の慢心が招いた結果です。いくら魔女を討ち果たした英雄の子とはいえ、十五の若者に負ける筈がないと高をくくっていた私の」
タームの瞳は遠く、過去を眺める。
「私は最初、貴方がブローディア様に似ていないと思いました」
リヒトは初老の巨漢を見やった。その言葉の意味を求めて。
「まず背格好。彼は私より大柄で、筋肉質な身体をしていた。それに比べ貴方は平均ほどの身長で、細身だった」
自分の身体へ目をやる。細く引き締まった身体だ。記憶にある父のものとは似ても似つかない。身長もそこいらの男と変わらなかった。
「英雄は守ることを何よりも優先し、それ故に彼の剣は守る為の戦い方をしておりました。ですが貴方のそれは、ブローディア様の対極にある。防ではなく攻。敵を『殺す』為の剣技。本当にあの方の御子息であるのか疑ってしまうほどに、貴方は似ていない」
幼き日、私は父に憧れていた。大盾を構え剣を握り、数多の攻撃を受け止めて敵を斬る。決して抜かれることのない絶対の盾。『守護者』と呼ばれた魔女狩りの英雄。
彼のようになりたくて、騎士を志した。民を『守る』為に騎士を目指し、鍛錬してきた。
それが、今はどうだ。自分は何一つ背負っていない。この背に誰かを庇うことも、盾を構えることさえない。ただ仇を、魔女を殺す為に腕を磨き、剣を振う。
夢見、憧れた英雄とは真逆の道を歩んでいる。
その姿の、なんと——
リヒト唇を噛み締めて俯いた。
「ですが——試合ったあとの貴方を見て、考えが変わりました」
その言葉に、思わず顔を上げる。タームと目が合った。
「私の首を断ちかけたことに対する震え。貴方は、自分のせいで『人』が傷つくことを恐れている」
それは、リヒトが抱いた感情の核心をついた。そう、自分は恐れている。復讐の為に強くなった。敵を殺す術を得た。
もし、もし何かの拍子に自分の中で燃える殺意の火が人へ向いてしまったのなら、私は容易く命を奪えてしまう。つい先程、タームを殺しかけたように。
それほどまでに、自分は強くなってしまった。復讐心を制御できなければ、いずれ破綻する日が来るだろう。
「貴方の父君も、自分のせいで人が傷つくこと何よりも嫌い、恐れた。やはり貴方達は親子だ。その心根には変わらず優しさがある」
冷たく熱を失った心。そこにカリーナが灯してくれた温かな火。その中心に薪を焚べられたような感覚がする。
私はまだ、なんとかなるだろうか。
リヒトは自問する。
復讐の為に歪んだ生き方。心の奥底で燻る憧れの種火。
私はまだ、憧れた父の背中を追うことは叶うだろうか。
「そして、もう一人。私には剣を振う貴方の姿が、『希齎の英傑』様に重なって見えた。貴方に、希望を見出してしまった」
驚くリヒトの眼前で、タームは深く、頭を下げる。
「引き止めておいてこんなことを頼むのは筋違いだとわかっている。このような若きものに背負わせるのはダメだとわかっている。だが、どうか。英雄の子として、守護者の子として、どうか民を守ってほしい。私達に、希望を齎してほしい」
深く深く、頭を下げる。
「どうか私達を——助けてくれ」
絞り出された、心の底から言葉。恥も外聞も投げ捨てて、大人になったばかりの少年に助けを乞う。
タームは彼に、リヒトの中に光を見た。かつて銀雪の戦場で目にした光と似た、されどあれよりも温かで優しい光を。
魔女を倒し、民に希望を齎す英雄となるのはこの少年だという、確信にも似た思いがあった。
「頭を上げてください」
リヒトの言葉に促されるまま頭を上げ、彼の瞳に決意の色を見つけて、微笑みを浮かべる。
「幼き日、私は守護者に、民を守る英雄の姿に憧れた。なればこそ、私は私なりのやり方で民を守りましょう」
腰から剣を抜き放ち、胸元で輝く銀の首飾りの上で垂直に構える。
「今一度、私は剣と父の——『守護者』の首飾りに誓いましょう。魔女の首に刃を突きつけ、民を守ることを」
揺るぎない意志。守護の誓い。その出立ちは見る者に聖女の騎士を、英雄の姿を想起させる。
「感謝、致します」
歴戦の傭兵は目の前に立つ希望の光が、国を覆う闇を切り裂くことを願って、再び頭を下げた。
英雄の子が本物の英雄となる日は、すぐ近くにまで迫っている。




